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【山背大兄王の質問】
推古帝崩御後の皇位継承をめぐる群臣達の会議の状況を漏れ伝え聞いた
斑鳩宮の山背大兄は三国王と桜井臣和慈古を蘇我大臣に会いに遣わした。
「うわさに聞くと、叔父(蘇我蝦夷大臣)は
田村皇子を天皇にしようとしているそうですね。
この事を聞いて私はずっと考えたのですが、なぜなのかよくわかりませんでした。
できればはっきりと叔父の気持ちを教えてください。」
と伝えさせた。
【蘇我大臣の答え】
大臣は面と向かって山背大兄の質問に答えることを避けて、
群臣達を斑鳩宮に派遣して山背大兄に伝言させた。
「われわれ群臣が勝手に皇位継承者を決めることはできません。
推古帝の遺言を皆で検討しているだけです。
遺言の解釈によって、
田村皇子を即位させるべきだという意見もあるし、違う意見もありました。
全て群臣たちの意見で私が一人で決めているわけではありません。
私自身の意見は直接お会いした時に申しあげましょう。」
蝦夷大臣の伝言を群臣達は三国王、桜井臣を通して山背大兄王に伝えた。
【意思決定の方法】
皇位継承問題を解決しようとする群臣達の会議が
全て伝言による情報で行われている様子が描かれている。
誰にも責任が及ばない決議方法がこの時代から採用されていたことが
よくわかる説話である。
この説話は律令政治が行われるようになってから
作られたものと考えられるので、
現在の官僚政治の方法は8世紀初頭に確立されたものらしい。
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押坂彦人大兄皇子
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【群臣達の選択】
蘇我大臣の命令で阿倍麻呂臣が群臣達に
推古帝の皇位継承指名の詔を伝達した。
それに対して群臣達はなかなか自分の意思を述べようとはしなかった。
【田村皇子支持】
群臣達に意思表示を催促すると、
大伴鯨連が前に出てきて次のように言った。
「天皇曷思歟、詔田村皇子曰天下大任也不可緩。
因此而言皇位既定、誰人異言。」
推古帝は田村皇子に天下(天皇の位に就くこと)は大任なので
気を抜かないようにと詔したのだから、
皇位継承者はすでに決まっている、だれも異論はないだろうと。
大伴鯨連の発言に
采女臣摩禮志、
高向臣宇摩、
中臣連彌氣、
難波吉士身刺の4臣が同意した。
【山背大兄王支持】
対して、
許勢臣大麻呂、
佐伯連東人、
紀臣鹽手の三人は、
「山背大兄王、是宜爲天皇。」
山背大兄王を即位させるべきだと反論した。
蘇我倉麻呂臣だけは、
「臣也當時不得便言、更思之後啓。」
今簡単にいうことはできない、もう少し考えさせてくれと態度を保留したが、
蘇我倉麻呂臣は事前に蘇我蝦夷大臣に対して、
「舉山背大兄爲天皇。」
山背大兄を天皇にしようと言っていたと日本書紀は追記している。
【キャスティングボードは蘇我蝦夷の手に】
群臣たちの意見は4対4に分かれた。
この時点で皇位継承者を決めるキャスティングボードは
蘇我蝦夷大臣に委ねられることになった。
To be continued
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【蘇我大臣の裁定】
舒明即位前紀には、田村皇子と山背大兄王の皇位継承争いの様子が
詳細に記述されている。
前提としては推古29年に皇太子豊聡耳尊が薨去した後
皇太子を立てなかったので、
蘇我蝦夷大臣は群臣が納得する皇位継承者を立てなければならなくなった。
候補は田村皇子と山背大兄王である。
【阿倍臣の伝達】
蘇我大臣は阿倍麻呂臣に推古帝の遺言の内容を群臣達に伝えさせた。
田村皇子に対しては、
「天下大任、本非輙言、爾田村皇子、愼以察之、不可緩。」と詔し、
次に山背大兄王に対しては、
「汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。」と推古帝は詔した、
と詔を簡略に群臣達に述べている。
推古紀36年3月に記された詔と比べると、
田村皇子では「不可軽言」が「不可緩」となっており、
山背大兄王に対する詔では「而勿諠言。必待群言以宣從。」が
上記のように「汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。」となっている。
田村皇子には推古帝が
「(即位を)軽々しく口にするな」と言ったのを
「(即位するまで)気を緩めるな」と言ったことにしている。
山背大兄王には
「(即位について)あれこれ言わず、群臣たちの決定に従いなさい。」
と言ったことを
「(即位、即位と)一人でやかましく騒ぐな。必ず群臣たちの決定に従い、
慎みを以て反対するようなことがないように」
と微妙に変えている。
阿倍臣は推古帝の遺言が
「田村皇子>山背大兄皇子」だったのを
「田村皇子>>山背大兄」に少し強調して群臣たちに伝えた。
To be continued
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【田村皇子と山背大兄の皇位継承争い】
彦人大兄皇子と厩戸皇子の物語は、子の代に受け継がれることになる。
彦人大兄の息子田村皇子と厩戸皇子の息子山背大兄皇子の
皇位継承争いである。
日本書紀では推古天皇が死の直前に両皇子をひとりずつ病床に呼び寄せて、
口頭で伝えたことが後継指名の遺言となる。
遺言の解釈を巡り蘇我蝦夷大臣を中心とした群臣たちが二派に分かれる様子が
舒明即位前紀に記載されている。
【推古帝の遺言】
推古36年3月6日条の推古帝の口上は以下の通り。
田村皇子に対しては、
「昇天位而經綸鴻基・馭萬機以亭育黎元、本非輙言、恆之所重。
故、汝愼以察之、不可輕言。」
(天位に昇りて鴻基を経め綸へ、萬機を馭して黎元を亭育ふことは、
本より輙く言ふものに非ず。恒に重みする所なり。故、汝慎みて察にせよ。
軽しく言ふべからず。)
山背大兄に対しては、
「汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。」
(汝は肝稚し。若し心に望むと雖も、諠き言ふこと勿。必ず群の言を待ちて従ふべし)
田村皇子に対しては、
皇位に就いて政治を行うことは慎重に事を運ばなくてはならないことであって
軽々しくいうことではない、というようなことを言っている。
山背大兄皇子に対することばは岩波版が翻訳しているのでそのまま記すと、
「汝は未熟であるから、もし心の中で希望していても、あれこれ言ってはならぬ。」
ということらしい。
【日本書紀編纂者の意図】
後に争うほどのことでもなく推古紀では明らかに、
推古帝は田村皇子を皇位継承者に指名している。
舒明即位前紀には推古帝の遺言を巡っていろいろな意見が述べられているが、
日本書紀自体は推古紀の中で、
田村皇子が前帝から指名を受けた正統な後継者であると主張していることになる。日本書紀があえてこのような記述をしているということは、
田村皇子すなわち舒明帝の即位には何か大きな秘密があるのではないか、
と疑ってみる必要があるということである。
(注)「皇子」とは天皇の息子を意味する呼称であるが、田村皇子も山背大兄皇子も天皇の子ではない。7世紀末に草壁皇子の息子が文武天皇になった時に即位前の呼称を「珂瑠皇子」としたことに従ったものと考えられる。
To be continued
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【中臣勝海が彦人大兄皇子を殺害したとすると】
前回は、中臣勝海が彦人大兄皇子を殺害したのではないかと書いた。
もしこの推測が正しいとすると、
乙巳の変を共謀した中大兄と中臣鎌足の関係の成立がむずかしくなる。
彦人大兄皇子の孫の中大兄と中臣勝海の孫(?)の中臣鎌足が
手を握るというのは不自然な気がする。
日本書紀の系譜では、彦人大兄皇子⇒舒明帝⇒中大兄皇子である。
中臣勝海と中臣鎌足に血縁があるとすると、
勝海が用明二年に亡くなっているので祖父と孫の関係だろう。
中大兄と鎌足が蹴鞠会場で偶然出会ったとしても、
狭い飛鳥の世界で祖父の代に殺し殺される関係にあったふたりが
急接近するのは不自然であろう。
【中大兄と大海人は兄弟か】
中大兄皇子(天智帝)と大海人皇子(天武帝)が同母兄弟ではない、
という説があると聞くが、
もしそれが史実であると説明がつくことにはなる。
舒明帝崩御後、皇后の皇極帝が即位する。
皇極帝は一時退位し弟の孝徳帝に譲位するが、
孝徳帝崩御後重祚して斉明帝となる、と日本書紀は記している。
日本書紀は皇極帝と斉明帝が同一人物であると言っている。
日本書紀が記す皇極帝と斉明帝の事績を比較すると、
同じ人物の行動とは思えない。
この事については後日触れることになるだろう。
もし二人が別の人物だとすると、
皇極帝―大海人皇子、
斉明帝―中大兄皇子という組み合わせが可能となる。
日本書紀のように皇極帝と斉明帝を同一人物に設定すると、
中大兄と大海人は同母兄弟ということになるのである。
彦人大兄皇子⇒舒明帝⇒大海人皇子のラインに中大兄が入っていなければ、
中臣鎌足と同盟を結んで蘇我氏に対抗することも可能になるのではないだろうか。
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