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【敏達帝の嫡子彦人大兄皇子】
天智帝、天武帝の両親は舒明帝と皇極帝(重祚して斉明帝)であると、
日本書紀は記述している。
舒明帝の父親で、皇極帝の祖父と明記されているのが押坂彦人大兄皇子である。押坂彦人大兄皇子は敏達帝の最初の皇后である
息長真手王之女廣姫所生の皇子。
古事記では「太子」、日本書紀では「大兄皇子」、
どちらも敏達帝の嫡子であると記している。
ところが早世したため皇位を継承できなかった、というのが記紀の立場である。
のちに舒明帝が即位することができたのも
早世していなければ彦人大兄が敏達帝の後に即位していたはずだ、
ということを前提にしている。
舒明帝即位を正当化することが記紀の大きな目的のひとつであることに
異論がある人は少ないだろう。
【彦人大兄皇子早世の疑惑】
それでは押坂彦人大兄皇子が早世したのはなぜだったのだろうか。
生前の彦人大兄が日本書紀に登場する最後は用明二年夏四月条である。
用明帝の病気治癒をめぐって蘇我馬子と物部守屋の崇仏排仏戦争が再燃する。
物部守屋側についている中臣勝海連は自宅に兵を集めて、
「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之」、
崇仏側についた敏達帝の皇子二人を呪い殺そうとした。
この試みは失敗に終わる。
「俄而知事難済」、
中臣勝海連は両王子を呪い殺すことが難しいと思ったということである。
この後のフレーズが問題である。
「歸附彦人皇子於水派宮」、
「歸りて彦人皇子に水派宮に附く」と岩波版は読み下している。
呪い殺すことが難しいので、彦人皇子側に寝返ったということか。
中臣勝海連は水派宮から出てきたところで、
待ち伏せしていた舎人迹見赤檮に切り殺される。
迹見赤檮は後に物部守屋を射殺しているので崇仏派の最先鋒といえる。
中臣勝海の訪問を受けたのを最後に彦人大兄は日本書紀には登場しなくなる。
以上が彦人大兄が日本書紀に登場する最後の場面である。
だれが読んでも不自然に感じるだろう。
【中臣勝海の彦人大兄宅訪問の目的は何か】
排仏派の急先鋒である中臣勝海が呪いが効果がないことを知って、
急に崇仏側の彦人大兄に帰順するなどということがあるのだろうか。
さらに帰順してきた中臣勝海をなぜ迹見赤檮は斬らなければならないのか。
史実は以下のようだったのではないだろうか。
中臣勝海は呪い殺すことが不可能であることを知り、
水派宮に侵入して彦人大兄を殺害した。
殺害後、彦人大兄を助けに駆けつけた迹見赤檮に切り殺された。
おそらく彦人大兄と共に呪いの対象だった竹田皇子も
排仏派に殺害されたのだろう。
【史実は中臣勝海の後継候補二王子の殺害か】
敏達帝の最初の皇后廣姫所生の皇子彦人大兄と
二番目の皇后豊御食炊屋姫所生の竹田皇子を
中臣勝海が殺害した可能性が高い。
この事は日本書紀を編纂する藤原不比等にとって
できれば消去したい事柄だったであろう。
中臣勝海は中臣氏の系譜から削除されているようだが、
中臣鎌足の祖父の代に当たる。
藤原不比等は祖先が皇太子の殺害者であるよりも
排仏派に対する裏切り者とした方がまだましだと判断したのだろう。
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押坂彦人大兄皇子
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【「聖徳太子」を記述した日本書紀の意図】
日本書紀はなぜ詳細に聖徳太子の記述をしたのだろうか。
英雄視している聖徳太子をなぜ蘇我氏系にしたのか。
隋書俀国伝に対する対策ではないだろうか。
日本書紀編纂の大きな目的のひとつは唐に見せるためだっただろう。
隋から禅譲を受けた王朝であることを建前としている唐は、
隋書俀国伝の記述をよく理解している。
日本書紀編纂者も日本書紀の記述を
なるべく隋書の記述と矛盾がないようにしなければならない。
【隋書俀国伝の記述と近畿天皇家のギャップ】
①隋書俀国伝は倭国の天子多利思北孤について、
使者の言として仏法の取り入れに熱心で、
沙門数十人を隋に派遣している、と述べている。
日本書紀は蘇我馬子が仏教興隆に尽力している様子を描いているが、
馬子は一度も天子になっていない。
②隋書では多利思北孤は「日出づる処の天子」を自称して
隋煬帝の顰蹙を買っている。
【日本書紀の言い訳】
日本書紀は、
①の菩薩天子に当てはまるように聖徳太子を摂政にして、
仏教興隆に尽力する記述を盛り込んだ。
②の無礼にも「天子」を名乗った聖徳太子は死亡し、
その子の山背大兄皇子一家は蘇我氏内部の争いで
全員が死亡していることにした。
現在の天皇家は山背大兄皇子と争った末、
正当に皇位を継承した舒明帝の子孫であることを記述している。
舒明帝以降の日本書紀の記述は、
隋書俀国伝によって損なわれた関係を修復することを主眼にしている。
「日本国」と名前を変えたのも俀国ではないことを
主張する必要があったからではないだろうか。
唐と同じように仏教興隆に尽力しているが、
「天子」を名乗るような無礼な国ではない、
と唐に対して述べている。
【俀国は九州王朝】
隋書俀国伝に記されている、
「俀王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。
天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、
日出ずれば便ち理務を停め、いう我が弟に委ねんと」
のように兄弟で統治していることは日本書紀には全く出てこない。
多利思北孤は九州王朝の天子であって、
日本書紀が差しさわりなく誤解されるように画策した
聖徳太子の虚像とは無関係であると言わざるを得ないだろう。
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【蘇我氏と息長氏の対立】
記紀の系譜から考えると、欽明帝(在位:539年〜571年)以降、
敏達帝⇒忍坂日子人太子⇒舒明帝⇒皇極帝の息長氏系のラインと、
用明帝⇒崇峻帝⇒推古帝(&摂政厩戸豊聡耳尊)⇒蘇我蝦夷・入鹿の
蘇我氏系のラインが勢力争いをして、
息長氏が最終勝者となって近畿天皇家の覇権が確立したという大きな流れで、
8世紀初頭までの日本古代史をとらえることができる。
【理解しやすい古事記の記述】
古事記は以上のマクロ観とほぼ矛盾なく記述されている。
天武帝の「削偽定実」はそのような考え方で成り立っている。
したがって古事記には聖徳太子は、
用明帝の皇子のひとり「厩戸豊聡耳命」として1回登場するだけである。
【不可解な日本書紀の記述】
日本書紀での聖徳太子は15,6歳の時に物部守屋討伐の功労者として登場し、
推古帝が即位すると摂政となって国政全般をとりしきる。
仏教を興隆、
冠位制を開始し、
十七条憲法を制定する。
記載されている名前も、
「東宮聖徳」、
「厩戸皇子」、
「豊耳聡聖徳」、
「豊聡耳法大王」、
「法主王」、
「厩戸豊聡耳皇子」など多彩である。
摂政就任に際しては、
キリスト降誕説話を想起させる「厩前開胎説話」を紹介、
釈迦のように「生而能言(生まれながらにしてものを言うことができた)」であり、
「有聖智(聖のさとりあり)」として、
キリスト、釈迦と匹敵する聖人であると解釈できる記述をしている。
さらに、一度に十人の話を聞いてそれぞれに対して間違いなく答えた、
という有名な超人説話が続いている。
日本書紀は聖徳太子を英雄視しているために、
推古帝崩御後の皇位継承の話がうまく進まなくなっている。
全く実績がない忍坂日子人太子(紀では押坂彦人大兄皇子)の息子田村皇子と、
国体の基礎を作り上げた聖徳太子の息子の山背大兄皇子を比較すれば、
だれが考えても後者に分があるように思える。
舒明即位前紀では強引に田村皇子が即位するストーリーを
作り上げなければならないのだから、
難解になるわけである。
【日本書紀の聖徳太子英雄視は古代史の謎を解く鍵】
なぜ日本書紀は厩戸豊聡耳尊(聖徳太子)を英雄視するのだろうか?
舒明帝即位を難解にするリスクを冒してまで、
聖徳太子を英雄扱いしなければならない、
日本書紀編纂者の事情とは何だったのだろうか。
日本古代史の多くの問題を氷解させる鍵が隠されている。
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【厩戸豊聡耳命(以下聖徳太子)の出自】
古事記によると、厩戸豊聡耳命の出自は以下の通り。
父は用明帝。用明帝の母親は宗賀之稲目宿禰大臣(蘇我稲目のこと)之女
岐多斯比売。父親は欽明帝。
母は用明帝の異母妹間人穴太部王。
穴太部王の母親は宗賀之稲目宿禰大臣の妹小兄比売。
ガチガチの蘇我氏系である。
蘇我氏は用明帝の父親である欽明帝の時に、
いきなり「宗賀之稲目宿禰大臣」として登場している。
詳細は不明だが欽明帝即位に貢献したということだろう。
【忍坂日子人太子の出自】
父は敏達帝。敏達帝の母親は宣化帝の皇女石比売命。父親は欽明帝。
母は息長真手王之女比呂比売命。
古事記には舒明帝の父親であることが記されている。
また皇極帝の父親である智奴王も舒明帝の異母兄弟として記載されている。
【忍坂日子人太子に関する記述】
古事記には二人についての事績は何も紹介されていない。
日本書紀によると、
日子人太子については、用明二年四月条にに次の内容が記載されている。
物部守屋大連と中臣勝海連は、
用明帝が仏教崇拝を宣言したことに反発して、
日子人太子の像を作って「厭之」とある。
日子人太子の死を願って像を傷つけたのだろう。
呪いで殺せないとわかったので、中臣勝海連は「帰附彦人皇子於水派宮」とある。
日子人太子側に寝返ったのだろうか。
あるいは呪いでは殺せなかったので自宅まで押しかけて殺害したのか。
日子人太子はこの後登場しないのでここで殺された可能性は高い。
中臣勝海連は日子人邸を出たところを舎人迹見赤檮に殺害されている。
この文章は難解で明確ではないが、
日子人太子が崇仏派だったことは言えるだろう。
もし中臣勝海連が日子人太子を殺害したことが事実だとすると、
7世紀の乙巳の変に至る日本書紀の記述が大いに疑わしくなる。
そのことについては今後徐々に述べていくことになるだろう。
【聖徳太子に関する記述】
聖徳太子については、崇峻即位前紀七月条で、
物部守屋大連を攻撃する蘇我馬子宿禰大臣軍の先頭に立つ様子が記されている。
聖徳太子が崇仏派であることは言うまでもない。
聖徳太子は推古帝が即位すると皇太子として摂政となり、
仏教を重視した政治を行ったと日本書紀は記している。
【なぜ聖徳太子が皇太子となったか】
日本書紀は用明二年四月条で一度だけ、「太子彦人皇子」と書いている。
その後太子を廃された記事はないので、
推古帝が即位する以前に死亡したと考えられる。
(To be continued) |
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【再び忍坂日子人太子】
忍坂日子人太子について当ブログでは何度も触れてきた。
近畿天皇家成立のキーマンだと確信しているからである。
忍坂日子人太子の記事は記紀にもあまりない。
【日子人太子の妻と子女】
敏達記の最後に日子人太子の3人の后と7人の子女が記されている。
7人の子女の筆頭に「坐岡本宮治天下之天皇」がいる。舒明帝である。
古事記は推古帝までが守備範囲なので、
日子人太子の子女の記述が舒明帝以降への糊代となっているわけだ。
【敏達帝の后と皇子女たち】
敏達帝の后について古事記は豊御食炊屋比売命を筆頭に挙げ、
所生の8王(紀には2男5女)を列挙している。
次に挙げられている后は伊勢大鹿首之女小熊郎女、
所生の次女に宝王(亦名糠代比売王)がいる。
宝王は日子人太子の妻田村王(亦名糠代比売命)と同一であろう。
舒明帝の母である。
三番目の后として息長真手王之女比呂比売命が登場し、
所生に日子人太子(亦名麻呂子王)が記される。
古事記は4番目の后として春日中若子之女老女子郎女をあげ、
所生として4柱の王を列挙している。
【日子人太子と聖徳太子】
この中でなぜ日子人太子に「太子(ひつぎのみこ)」が付けられているのか。
ここで日子人太子とされていることが、
後の舒明帝即位の重要な伏線となっている。
日子人太子は聖徳太子と同世代である。
推古帝崩御後、舒明帝となる田村皇子は
聖徳太子の息子の山背大兄皇子と皇位を争うことになる。
忍坂日子人が欽明帝の嫡男である敏達帝の「太子」であることが、
田村皇子即位の継承資格を担保する要素となるのである。
古事記では、聖徳太子(と思われる人物)は用明帝の皇子のひとり、
厩戸豊聡耳命と記されており「太子」とはなっていない。
古事記は明らかに忍坂日子人太子の息子田村皇子の即位を
支持しているのである。
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