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【「論衡」の倭人】
中国の漢代の書「論衡」に、
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
と出ている。
【「論衡」倭人、江南説】
この「論衡」の倭人について、
「これは日本列島の倭人ではない。江南にいた種族であろう」
という説がある。(井上秀夫氏、江上波夫氏など)
【山尾幸久説】
論衡の著者王充(27年〜100年?)は後漢時代の人である。
「後漢書」にある57年の倭奴国王の使者が入朝した時に、
洛陽に滞在していたと考えれらる。
20歳代の半ばに京師の大学で、
「前漢書」の著者班固(32年〜92年)の父親班彪(3年〜54年)に師事している。
王充は班固と知己であり、倭奴王の使者の入朝を知っていたと考えられる。
後漢時代には韓半島に四郡が設置されていたので、
王充は韓人・倭人の区別は定かであり、
倭奴国の存在も知っていたのであるから、
「(『論衡』の)倭人は北部九州のそれであろう」
と山尾幸久氏は「政治権力の発生:二.中国史料の倭人」で述べている。
【古田武彦説】
古田武彦氏も「『風土記』にいた卑弥呼」の中で、
「論衡」の著者王充と「前漢書」の著者班固が同時代人であったことに注目し、
「『論衡』と『漢書』との読者は同一である。
つまり後漢朝初頭、一世紀中葉、洛陽を中心とするインテリたちなのである。
このことは直ちに次の問題を解決しよう。
”『論衡』の「倭人」とは何者か”。
それは当然『漢書』にいう、
楽浪海中に倭人有り。・・・
という「倭人」と同一の倭人だ。この帰結である。」
古田氏はさらに「前漢書」の例を引いて、
周代に倭人が朝貢していたことを論証している。
「前漢書:巻二八下地理志(燕地)」にある、
『楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」
の最後の文字「云」に注目している。
「云」によって、倭人の献見が漢代以前から行われていたことを示している、
と喝破した。
漢代だけのことであれば「云」は不要である。
この文章の直前に、
「孔子が東夷が天性従順で中国の天子に対して礼を守っているので、
いっそ東夷の世界へ行きたいものだ」
と述べたことが記されている。
「楽浪海中には倭人がいて、(昔から)決まった周期で貢献してきている。」
「昔」とは孔子以前の周代をさしていることになる、
として「論衡」の倭人が日本列島の倭人であることの裏付けとなると、
論を重ねている。
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古代史のイロハ
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【日本古代史学会の現状】
日本の古代史には古事記と日本書紀あるいは先代旧事本紀まで含めても、
この3冊くらいしか情報量の多い体系的な文書はない。
これらの解釈を巡って百家争鳴し議論百出しているのが
古代史学会のこれまでであり、現状である。
中でも日本書紀の情報量が多く持統帝の時代までを扱い、
続日本紀の文武天皇の時代に継続するので、
日本書紀なしには通史は語れないということになる。
【日本書紀に対する不信感】
日本書紀が唯一記している
舒明帝から持統帝にかけての7代の治世が激動の時代であり、
日本書紀の記述を素直に信じることができないことが
日本古代史解釈をさらに複雑にしているのである。
【大和一元主義、天皇家一元主義】
江戸時代の国学以来明治政府の国策的な考え方に強く導かれて、
日本は神武帝以来大和に中心政権があり、
神武帝の血統を引く天皇が代々継続して支配し続けてきた国家である、
という考え方が支配してきた。
大和一元主義、天皇家一元主義と呼ばれる考え方である。
現在でも未だに古代史学会の主流となっている、
といっても言い過ぎではないかもしれない。
【九州王朝説】
平安朝が成立するまである時期を除いて奈良県に都が置かれていたとする
大和一元主義に強く異議を唱えたのが古田武彦氏だった。
古田氏は701年に大宝律令が制定されて日本国が名実ともに成立するまでは、
後漢書に出てくる「倭奴国」以来日本列島の中心は九州にあったとする、
九州王朝説を主張した。
古事記や日本書紀には全く記されていないために
学界からは現在まで受け入れられていないようだが、
中国の正史の記述から考えると合理的なことが多く、
しがらみのない思考が許されている市民古代史愛好家の支持者は多い。
【同じ議論を何度も繰り返さないために】
自論に都合がよいように理屈をぶつけ合っている現状から一歩離れて、
正しいものは正しい、
間違っているものは間違っている、
という判断基準でひとつずつ課題を整理していきたい。
同じ議論を何回も繰り返して時間を無駄に費やすことがないように
少し遠回りをしてみようと思う。
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