|
【三千代周辺の出産記録】
県犬養三千代が終始した頃から8世紀初めにかけての三千代周辺での出産記録である。
天武8年(679) 三千代出仕
天武9年(680) 氷高皇女(元正天皇)誕生(以下「誕生」を省略)
天武12年(684) 軽皇子(文武天皇)
天武13年(685) 葛城王(三千代第一子、父:美努王)
持統3年(689)2月 藤原不比等、直広肆判事(日本書紀初出)
同年4月 草壁皇子薨去
持統4年(690) 持統帝即位
持統8年(694) 佐為王(三千代第二子、父:美努王)
同年9月 美努王、筑紫大宰率に任ぜられる。
同年12月 藤原京遷宮
持統9年(695) 牟漏女王(三千代第三子、父:美努王)
大宝元年(701) 光明子(三千代第四子、父:藤原不比等)
生年不明 多比能(三千代第五子、父:藤原不比等)
【三千代が育てた天皇】
三千代は出仕後阿閇皇女に仕え、皇女の生んだ氷高皇女と軽皇子を育て上げた。阿閇皇女も氷高皇女も軽皇子も後に天皇となる人物である。
天皇となる人物に仕えたことが三千代にとって幸運であったのか、
三千代が仕えたことによって三人が三人とも即位することができたのか、
どちらの可能性も否定できない。おそらくどちらも要因として働いていたことであろう。
【結婚、離婚、再婚】
三千代は美努王と最初の結婚をする。
天武8年(679) に出仕してから天武13年(685)に第一子を生むまでの6年間の中の出来事である。683年頃のことであろうか。
第二子を生み第三子を妊娠中に父親の美努王は筑紫太宰卒として転勤している。
持統9年(695)の第三子出産から大宝元年(701)の光明子出産の間の6年間に藤原不比等との再婚をはたしたことになる。
策をめぐらすことを得意とする不比等が、他人の妻であった三千代に横恋慕し信頼を得ていた持統帝に美努王の筑紫太宰率転勤を進言し三千代との間を割いたと考えるのが結果から見ると自然なのかもしれない。
|
県犬養橘宿禰三千代
[ リスト | 詳細 ]
|
【周囲の人物から見えてくる県犬養三千代の生涯】
天武8年(679)の「氏女の制」に応じて出仕した三千代は忙しい。
と言っても、三千代自身は日本書紀には登場しないし続日本紀にはほとんどが叙位の記事なので女性ながらに朝廷内で出世を遂げたことがわかるのみである。
周辺の人物の記事から三千代の生涯をつなぎ合わせることができる。
【子育てに追われた7世紀:二人の天皇を養育】
出仕した三千代は草壁皇子の妻阿閇皇女(父:天武帝)の側に仕えた。
阿閇皇女はすでに妊娠していたかもしれない。
翌年の天武9年(680)に阿閇皇女は氷高皇女(元正天皇)を、さらに同12年(683)には珂瑠皇子(文武天皇)を出産する。
その間に三千代自身は美努王と結婚し同13年(684)に第一子葛城王(橘諸兄)、少し間を開けて持統8年(694)に第二子佐為王(橘佐為)、翌9年(695)に第三子牟漏女王を出産している。
7世紀中は合計5人の子育てに明け暮れた。
子育てを通じて親(元明天皇)ばかりでなく、子供たち(元正天皇、文武天皇)からも実母以上の信頼を得た。
実の子供たちもそれぞれ奈良時代に活躍することになる。
【藤原不比等と出会い第二の人生へ】
三千代自身は珂瑠皇子を通じて知り合うこととなった藤原不比等と二度目の結婚をして新たな世界に踏み出すことになる。
|
|
【不比等と三千代の活動開始時期】
藤原不比等は天武帝時代には朝廷内で「冷や飯」を食べており、日本書紀に登場するのは天武帝の崩御後3年経った持統3年(689)である。
県犬養三千代は「氏女の制」(天武8年、679)に応じて出仕し天武13年(684)に第一子葛城王(橘諸兄)を出産しているので、この間に美努王と最初の結婚をしたことになる。出仕した三千代は皇后の異母妹である阿閇皇女(元明天皇)に仕えたと考えられる。
不比等が日本書紀に登場した持統3年は草壁皇子薨去の年である。
失意の持統帝に不比等は近づいていった。草壁皇子を即位させるまで称制を行っていた持統帝に即位を進めたのも不比等だろう。
持統帝は不比等の勧めを受け入れて、草壁皇子と阿閇皇女の間にできた珂瑠皇子を即位させるまで皇位に就く決意をした。
持統4年1月1日に即位。
三千代は仕えている阿閇皇女が天武12年(683)に珂瑠皇子を出産したので、乳母兼養育担当となった。
珂瑠皇子誕生の1年後に三千代も第一子を出産しているので、二人の乳児を同時に育てることになる。
文武天皇と橘諸兄は同時に三千代に育てられていた。
【珂瑠皇子の養育が二人をひきつけた】
不比等が持統帝の信頼を得て参謀的な役割を始めるころには珂瑠皇子は6歳になっていた。
賢明な三千代はすでに阿閇皇女の絶大な信頼を得ていたであろう。
珂瑠皇子の養育担当である三千代と元服後に即位させようと意図している不比等は阿閇皇女の邸内で出会い、協力し合って珂瑠皇子の英才教育を始めた。
この時点ではまだ三千代も不比等も珂瑠皇子の英才教育が「日本国」誕生の胎動であることに気づいていない。
|
|
【持統帝と不比等の共通課題】
持統帝と藤原不比等の共通の課題は草壁皇子以外の天武帝の皇子たちから皇位継承権を排除することだった。
日本書紀の記述を見る限り、持統帝は才能に恵まれて天智帝にも天武帝にも愛された大津皇子に謀反の罪をかぶせて殺害し、高市皇子に対しては皇位さえ望まなければ朝廷内での地位は保証すると懐柔した。
近江朝廷から手厚い保護を受けていた藤原不比等にとって壬申の乱後の天武朝廷において、草壁皇子を即位させるために必死になっている持統帝に会うまでは浮かぶ瀬はほとんどなかった。
持統3年2月に判事として登場する不比等は従五位下で「通貴」の末席に居場所を確保するのがやっとの立場でしかなかった。
【大津皇子殺害に不比等の関与は?】
朱鳥元年(686)に天武帝が崩御すると、歴史は大きく動き始める。
この時点で持統帝と藤原不比等の間に接点があったかどうかは疑問である。
あったかもしれないし、なかったかもしれない。
大津皇子に謀反の罪をかぶせて処刑し、共謀した人々をほぼ赦免するという手口は持統帝だけで考えつくものではない。
裏で手を引くものがいたとも考えられる。
いずれにしても天武帝崩御後に持統帝を首領とする勢力によって既定路線を大きく変えることになる大津皇子の殺害が行われたことは間違いがないであろう。
クーデターと呼ぶか呼ばないかの違いである。
【「吉野の盟約」の削偽定実】
日本書紀は、天武8年5月に天武帝が皇后と皇子たちを吉野宮に集めて「吉野の盟約」が行われたことを記している。
参加者は天武帝、皇后(持統帝)、草壁皇子尊、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子。
天武帝は、「私の息子の皇子は異腹ではあるが十余名いる。同腹であろうと異腹であろうと相助け合って争わないというこの誓いを守らなければ滅びてしまうであろう。」と述べたと記されている。
天武帝→持統帝→文武天皇と順調に皇位が継承されたことを正当化するためには、日本書紀が「吉野の盟約」を記述していることは重要な要素となっている。
ここには皇后(持統帝)もいるし、天智帝の息子(河嶋皇子、芝基皇子)も参列している。
天武帝の意思を、皇后も、天武帝の主だった皇子たちも、天智帝の皇子も、皆承認しているのだということを証拠として記述しているのである。
ところが日本書紀の改竄は徹底されていなかった。
天智帝の皇子が二人参加しているにもかかわらず、天武帝は「異腹から出てはいるが、同異は別かたず」と自分の息子に限定した発言をしている。
日本書紀の編纂者は天武帝の発言の修正を怠っているのである。
草壁皇子にだけ「草壁皇子尊」と「尊」の字を加えたのも編纂者の意図であろう。
草壁皇子が天武帝の意思を受けた後継者だという印象を与えるための作為である。
日本書紀は「吉野の盟約」において天武帝が草壁皇子を後継にしようとしていたことと、持統帝がこの場に参加して皇子たちの上位にいることで後に皇位を継承したことを正当化しようとしている。
|
|
【持統帝の思惑】
壬申の乱で勝利した天武帝は天武8年5月に皇后と皇子たちを集めて、
今後千年後になっても争い事を起こさないことを誓わせた。
近江朝廷を武力で倒して政権を獲得した天武帝は同じようなことで世の中が乱れることを恐れた。
天武帝の崩御後、真っ先に武力蜂起したのは皇后だった。
謀反の罪をかぶせて後継最有力候補の大津皇子を殺害した。
所生の草壁皇子に皇位を継承させるためであった。
ところが持統帝の実力行使にもかかわらず、草壁皇子には皇位継承の能力もなければ体力もなかった。
3年後に草壁皇子は薨去する。
草壁皇子がいなければ皇位継承権は吉野盟約に参加した他の皇子たちに移ることになるだろう。
【藤原不比等の策略】
落胆した持統帝を支えたのは持統帝の父天智帝の盟友藤原鎌足の息子不比等だった。
不比等は、天智帝はすでに「不改常典」という皇位継承のコンセプトを作成している、嫡男である草壁皇子の血脈に皇位継承の優先権があることが天智帝によって正当化されている、というプレゼンテーションを悩める持統帝に対して行った。
持統帝は不比等の提示した企画にかけてみることにした。
「不改常典」を解釈すれば正当な皇位継承権は草壁皇子の息子である珂瑠皇子(文武天皇)にある。
不比等の提案のように珂瑠皇子が即位可能年齢に達するまで、舒明帝の後の皇極帝のように、皇后である自分が即位してつなげばよい。
天武帝崩御、大津皇子殺害、草壁皇子早逝、の時代の流れの中で持統帝の思惑に藤原不比等の策略がヒットした。
文武天皇を初代とする日本国誕生前夜の出来事である。
|




