のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

県犬養橘宿禰三千代

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【不比等、娘の宮子を文武天皇に嫁がせる】
藤原不比等の持統帝に対する最初の大きな貢献は、
文武天皇即位を正当化する筋道を企画立案し実行したことだろう。
持統11年=文武元年(697)8月17日条に続日本紀には即位の詔が記載されている。
三日後の8月20日、
「以藤原朝臣宮子娘為夫人、紀朝臣竈門娘・石川朝臣刀子娘為妃。」
即位した文武天皇に不比等は娘の宮子を嫁がせていることが記されている。
さすがに宮子だけを嫁がせることにすると周囲の抵抗があると恐れたのであろう、
紀朝臣と石川朝臣の両氏からも同時に「妃」として入内した。
宮子は「夫人」であるので、「妃」である紀朝臣竈門娘・石川朝臣刀子娘より宮子が先に書かれていることについては学者間で諸説があり議論が行われたらしい。
両氏の娘の「妃」は「嬪」の誤記ではないかといった、都合が悪いと誤記にしてしまう学会特有の乱暴な議論も見られたという。
後に聖武天皇の母となる宮子を先に書いただけのことであろう。

【宮子夫人首皇子を出産後、心的障害を発症し隔離される】
宮子夫人は大宝元年(701)首皇子(聖武天皇)を出産する。
701年(大宝元年) 宮子夫人は出産後すぐに心的障害があるということで皇子と対面できないまま隔離される。
続日本紀によると宮子が心的障害が治り正常な状態に戻るのは天平9年(737)12月27日、この時初めて聖武天皇と会うことができたという。
宮子夫人が我が子と対面することができたのは37年後であった。
天平9年は天然痘が大流行した年で、藤原4兄弟が相次いで死去した年である。
同じ年の年末に宮子夫人が心的障害から解放されたことは果して偶然であろうか。
このことについて数年前に当ブログで、
「藤原夫人の開晤について 」
として取り上げているのでご興味のある方はご一読ください。

【吉野の盟約に参加した天武帝の皇子たち】
天武13年5月天武帝が吉野宮に皇后と6人の皇子を集めて、
「朕、今日與汝等倶盟于庭而千歲之後欲無事、奈之何。
(私は、今日、お前たちとここに集まって誓いあうことによって
後々まで争い事がないことを願っているがどう思うか。)」と述べ、
皇位継承などで今後皇子たちが相争うことがないようにしようとした。
参加者は天武帝、皇后(持統帝)の他、草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・
河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子の皇子たち6人である。
皇子たちの中には天武帝の息子が4人に加えて、
天智帝の息子が2人(河嶋皇子、芝基皇子)が含まれている。
天智帝の息子2人が含まれているのは日本書紀編纂者の潤色であろう。
なぜならば後段の草壁皇子の誓いの言葉の中に、
「吾兄弟長幼幷十餘王、各出于異腹、然不別同異
(我ら兄弟合わせて10余王、それぞれ母は違っても同腹と異腹を差別しない)」
と記されており、
集まった皇子たちが天武帝の皇子に限られていることを証言しているからである。
したがって天武帝の皇子だけに限定すると吉野の盟約に参加した皇子は、
草壁皇子尊、大津皇子、高市皇子、忍坂皇子ということになる。

【吉野盟約を破棄した持統帝の大津皇子殺害】
日本書紀は草壁皇子だけ「草壁皇子」と記し別格扱いにしているが、
天武帝は決してこの盟約の時点で草壁皇子を後継に指名していたわけではない。
日本書紀は天武崩御後、持統帝が大津皇子を謀反の罪で刑死させる経緯を描いているが、
実際には大津皇子が天武帝から後継に指名されており、
所生の草壁皇子を即位させるためには大津皇子を抹殺しなければならない、
という持統帝の意思が働いたものと考えた方が合理的であろう。
持統帝は大津皇子殺害によって草壁皇子以外には皇位を渡さないことを意思表示し、天武帝による吉野盟約の精神を実質的に破棄したのである。

【持統帝流嫡系主義と「不改常典」】
持統帝には自腹を痛めた皇子に皇位を継がせたいという気持ちが強かった、
と考えられる。
その持統帝の気持ちを敏感に察知したのが藤原不比等ということになる。
その気持ちに応えて不比等は「不改常典」を創造した。
天智帝がすでに皇位継承の原理・原則を作っていたということにしたのである。
天智帝のパートナーであった藤原鎌足が「不改常典」の原本を保管しており、
息子の自分が受け継いでいるという話を作り上げたのであろう。
なぜなら「不改常典」なる言葉は日本書紀には出てこないのだから。
続日本紀慶雲4年7月の元明天皇即位の詔の中で、
「近江大津宮御宇大倭根子天皇与天地共長与日月共遠不改常典」
と突然出てきている。
持統帝→文武天皇→元明天皇と継承された皇位は、
天智帝が定めた「不改常典」に則ったものであると主張している。

【7世紀末から8世紀前半の皇位継承は三千代と不比等の合作】
日本書紀から続日本紀にかけての持統帝→文武天皇→元明天皇、
さらに元正天皇→聖武天皇へ連なる皇位継承こそ、
県犬養三千代と藤原不比等の合作であり、思想的バックボーンとして「不改常典」が不比等によって創作されたのである。
【持統帝側近で文武天皇に娘宮子を嫁がせた不比等】
持統3年(689)2月26日時点で 直広肆(従五位下)判事だった不比等は、
持統10年(696)には直広弐まで位を上げている。
7年間に4階級の昇進である。
さらにその翌年持統11年8月に持統帝は譲位して文武天皇が誕生すると、
不比等は相前後して娘の宮子を文武天皇の夫人としている。
続日本紀によると宮子と同時に、
紀朝臣竈門娘、石川朝臣刀子娘も妃として入内している。1
5歳になったばかりの文武天皇は即位と同時に三人の妻を持つこととなった。

【阿閇皇女の側近で氷高皇女の乳母となった三千代】
一方県犬養三千代は天武8年(679)の「氏女の制」に応じて出仕し、
天智帝の娘で持統帝の異母妹である阿閇皇女(元明天皇)に仕えていた。
天武11年(682)頃には美努王と結婚し、
天武13年(683)には第一子葛城王(橘諸兄)を生んでいる。
出仕後の天武9年(680)阿閇皇女は氷高皇女を出産している。
(父親は持統帝所生の草壁皇子)
阿閇皇女に仕える三千代は氷高皇女の乳母となった。(義江明子による。)
さらに天武12年(683)には第二子珂瑠皇子(文武天皇)が誕生。
三千代は二人の子の養育を担当しながら阿閇皇女からの信頼を得ていた。

【不比等と三千代の出会い】
持統帝側近として草壁皇子亡き後の対策を練っていた不比等は、
「不改常典」のアイデアを現実化するために、
草壁皇子の嫡男である珂瑠皇子と会う必要があり阿閇皇女のもとにも出入りした。
三千代との接点はそこに生まれて、
類まれな二人の出会いによって日本国は実質的なスタートを切ることになる。

藤原不比等の深慮遠謀

【不比等、文武天皇に娘宮子を輿入れ】
何らかのことで持統帝の信頼を得た藤原不比等は娘の宮子を
即位直後の文武天皇に嫁がせることに成功する。
藤原鎌足の息子とはいえ、
持統3年(689)2月26日時点で 直広肆(従五位下)判事でしかなかった不比等が、10年足らずの間に天皇に娘を嫁がせる立場になるためには、
持統帝へのよほどの貢献があったと考えるべきであろう。

【「不改常典」のでっち上げで珂瑠皇子即位を実現】
その貢献とは持統帝の最大の関心事である文武天皇の即位を正当化するための
理論武装である。
天武帝崩御後天武帝には吉野の盟約に参加した皇子たちがいた。
持統帝には強引に草壁皇子を即位させることはできたかもしれない。
しかし草壁皇子は健康状態が芳しくなく早逝する。
せっかく謀反の罪を押し付けて後継の最有力候補であった大津皇子を殺害したにもかかわらず頼みの草壁皇子が即位できる状況ではなかった。
草壁皇子が即位できないならば、
吉野の盟約の序列で高市皇子、河嶋皇子、忍坂皇子、芝基皇子の順で継承が検討されるのが筋である。
持統帝は自分の腹を痛めた草壁皇子の血統以外に皇位を渡したくなかった。
持統帝の真意を知った藤原不比等が知恵を絞った挙句持ち出したのは、
「不改常典」のでっち上げだった。
天智帝が「不改常典」の中で皇位継承の考え方を明確にしていたと主張し、
草壁皇子の嫡男である珂瑠皇子の皇位継承権を正当化しようとした。

【持統帝中継ぎ、珂瑠皇子の元服待ち】
このことに持統帝が飛びつかないわけがなかった。
草壁皇子薨去後、持統帝は即位し珂瑠皇子が元服するのを待った。
珂瑠皇子が15歳になると間髪を入れず譲位した。
持統帝にとって不比等は最も信頼のできる腹心の臣下となった。
不比等は持統帝の信頼に乗じて娘の宮子を珂瑠皇子の嫁にと持ち掛ける。
早いうちに後継ぎをつくる必要性を説いたのであろう。
天武帝の皇子たちの娘と結婚させると
将来において皇子たちとの力関係が変化する可能性も生じてくる。
臣下の不比等の娘であれば文武天皇以降後継ぎさえ順調にできれば、
「不改常典」の嫡系相続で押し切ることができるとふんだのであろう。
【持統帝の思惑】
日本書紀では朱鳥元年(686)に天武帝が崩御すると、
すぐに大津皇子が謀反の罪で処刑された。
持統帝が即位させたかった実の子である草壁皇子は持統称制3年4月に薨去。
同4年正月持統帝は自ら即位する。
草壁皇子と天智帝の娘で持統帝の異母妹阿閇皇女(元明天皇)との間にできた
珂瑠皇子(文武天皇)が元服し即位できる年齢になるまで天皇位に就くことにした。

【藤原不比等の入れ知恵】
天武帝の別腹の皇子たちに皇位を継承させないためであった。
この頃から持統帝に入れ知恵をし始めたのが藤原不比等である。
藤原不比等は壬申の乱の時には近江朝廷側にいたと思われ、
天武時代には日の目を見ることはなかった。
持統帝即位と共に頭角を現してくる。
持統3年(689)2月26日藤原朝臣史が「判事」となったとする記事が
日本書紀の初出である。
直後に草壁皇子が死亡するので、
草壁皇子亡き後の皇位の維持の方法について相談に乗ったのではないだろうか。持統11年(698)に元服した珂瑠皇子に譲位することなどは、
持統帝一人で考えつくことではない。
天智帝の皇女である持統帝と近江朝廷側だった藤原不比等にとって
天武帝の他の皇子たちに皇位を渡さないことは共通の課題となったと考えられる。

【不比等と三千代の出会い】
珂瑠皇子の即位ということになると、
実母である阿閇皇女にもかかわる問題であり、
阿閇皇女の側近にはやはり知恵者の県犬養三千代が仕えており、
不比等と三千代は急接近することになる。

To be continued

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