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【官人としての最高位に上りつめた三千代】
県犬養橘宿禰三千代は天平5年(733)正月11日に内命婦正三位で死去し、
天平宝字4年8月7日には正一位大夫人の称号が贈られた。
官人にとっては生前においても死後の贈位でもこれ以上ないところまで
のぼりつめたことになる。
藤原不比等との間の娘が聖武天皇の皇后(光明皇后)となったことが
大きな理由である。
それ程高貴な氏族とは言えない県犬養氏を出身母体とする三千代が
皇后の母となるまでの経緯を、
義江明子「県犬養橘三千代」の記述を参考に見ていきたい。
【阿閇皇女・氷高皇女の信頼獲得から始まった】
三千代の出仕は天武朝からだった。
天平11年の葛城王(橘諸兄)の上表文に、
「葛城親母贈從一位縣犬養橘宿祢。上歴淨御原朝廷。下逮藤原大宮。
事君致命。移孝爲忠。夙夜忘勞。累代竭力。」とあり、
葛城王の母である贈従一位縣犬養橘宿禰(三千代のこと)は
淨御原朝廷から仕えていると記されている。
三千代は天武八年の「氏女の制」に応じて県犬養氏から貢進された。
義江氏は三千代の最初の具体的な配属先を
「阿閇皇女(後の元明天皇)の宮」だったのではないかとする。
根拠は後に元明天皇が即位した直後に三千代が橘姓を賜ったことと、
元明太政天皇の病気回復を願って三千代が仏道に入ったことを挙げる。
二人は強い主従のきずなで結ばれていた。
三千代が出仕した翌年(天武9年:680)に草壁皇子の妻であった阿閇皇女は
長女の氷高(後の元正天皇)を出産している。
生まれたばかりの氷高の側近くで奉仕していた三千代に対する氷高の信頼も
厚いものになった。
To be continued
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県犬養橘宿禰三千代
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【県犬養三千代の日本書紀時代】
県犬養三千代は日本書紀に登場することはないが、
日本書紀時代( 〜持統11年:697)の履歴を諸史料より推定することができる。
生誕年は不明だが、
父親の名は、「新撰姓氏録」や「尊卑分脈」によると、県犬養東人である。
以下、義江明子著「県犬養橘三千代」(吉川弘文館・人物叢書)による。
天武8年(679)8月 「氏女の制」(「諸氏貢女人」)に従って、15歳で出仕したとすると、天智4年(665)生まれということになる。
天武11年(682) この頃美努王と結婚か。(第一子葛城王(後の橘諸兄)生誕年からの逆算であろう。)
天武12年(683) 妊娠によって軽皇子の乳母になったか。
天武13年(684) 第一子葛城王を生む。(出典は?)
持統8年(694) この頃、佐為王を生む(根拠?)
持統9年(695) この頃、牟漏女王を生む(根拠?)
持統10年(696) この頃、不比等と再婚か(根拠?)
【日本書紀時代から続日本紀時代へ】
以上は続日本紀に記された県犬養橘宿禰三千代の叙位や
朝廷内での貢献記事などから辻褄が合うように推測されたものである。
年月日の確定は現在に残された史料の範囲では難しいようだが、
天武朝において仕官して美努王と結婚し三人以上の子を生み、
文武天皇が即位する頃には藤原不比等と再婚していなければ
後の展開とつじつまが合わなくなるのであろう。
この際なので余計なことを言ってしまえば、
日本書紀と続日本紀の記述には精度の違いが大きいので、
7世紀後半から8世紀に至る流れを考える時には
常にこのような推測を求められることになり、
科学的といえる結論を得ることは極めて難しいと言わざるを得ない。
天武13年の八色の姓制定において、
日本書紀では「県犬養連」は「宿禰」姓を賜ったことになっているが、
編纂時における県犬養橘宿禰三千代の朝廷内の影響力を考えると、
脚色されたものである可能性すら感じる。
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【続日本紀の県犬養三千代記事】
県犬養三千代についての情報は多くない。
日本書紀には一度も登場していない。
続日本紀の記載は以下の通りであるが、それほど多くの記載があるわけではない。
【続日本紀の県犬養三千代関連記事(生前)】
●養老元年(717)正月七日、「従四位上県犬養橘三千代に従三位を授く。」が初出である。
●養老五年(721)正月五日、「従三位県犬養橘宿禰三千代に正三位を授く。」
●養老五年五月十九日、「正三位県犬養宿禰三千代、入道せるに縁りて、
食封・資人を辞す。優詔ありて聴したまはず。」
(続日本紀岩波版の注に、「三千代と元明は直接的な縁戚関係にないが、
元明は首皇子の擁護者であり、三千代は首の妃光明子の母であるから
二人は信頼関係にあり、元明の病を機に入道を図ったのであろう。」とある。)
●神亀四年(727)十二月十日、「正三位県犬養橘宿禰美千代言さく、
県犬養連五百依・安麻呂・小山守・大麻呂らは、是れ一祖の子孫にして
骨肉の孔親なり。請はくは、共に天の恩に沐して、同じく宿禰の姓を給はむことを
とまうす。詔して、これを許したまふ。」
●天平五年(733)正月十一日、「内命婦正三位県犬養橘宿禰三千代薨しぬ。
従四位下高安王らを遣して、喪事を監護らしむ。葬の儀を賜ふこと散一位に准ふ。
命婦は皇后の母なり。」
生前の記述は以上である。
【続日本紀の県犬養三千代関連記事(死後)】
●天平五年十二月二十八日、「一品舎人親王、大納言正三位藤原朝臣武智麿、
式部卿従三位藤原朝臣宇合・大蔵卿従三位鈴鹿王、
右大弁正四位下大伴宿禰道足を遣わして、
県犬養橘宿禰の第に就きて詔を宣らしめ、従一位を贈る。
別に勅して、食封・資人を収むること莫からしむ。」
●天平八年(736)十一月十一日、葛城王(諸兄)、佐為王から臣籍降下して
母県犬養橘宿禰三千代に賜った「橘宿禰」姓を引き継ぎたいとの申し出を受けて、
聖武天皇は認める詔を行った。
●天平勝宝元年(749)四月一日、東大寺に行幸し築造中の大仏を拝し、
石上朝臣乙麻呂を介して行った黄金産出を喜び年号を天平感宝とする詔の後段で、
県犬養橘夫人が代々に渡って怠りなく仕えたことをほめたたえている。
●天平宝字四年(760)六月七日、光明皇太后崩御。その文中に光明皇太后の母として「贈正一位県犬養橘宿禰三千代」と出てくる。
●天平宝字四年八月七日、藤原不比等に「淡海公」の称号が贈られた時に、継室従二位県狗養橘宿禰に正一位が贈られて、大夫人と呼称することが決められた。
以上が県犬養橘宿禰三千代が続日本紀に登場するほぼ全てである。
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【前夫美努王との間の三人の子女】
県犬養三千代は二度結婚している。
前夫美努王との間には三人の子がいたことが知られている。
葛城王(後の橘諸兄、天武13年:684〜天平勝宝9年:757)、
佐為王(後の橘佐為、?〜天平9年:757)、
牟漏女王(むろのおおきみ、?〜天平18年:746)である。
橘諸兄、橘佐為兄弟は母三千代が元明天皇から賜った「橘宿禰」姓を引き継ぎ、
臣籍降下し奈良朝廷で活躍する。
牟漏女王は藤原房前に嫁ぎ所生の永手、真楯、御楯の男子は北家隆盛に貢献し、
娘は聖武天皇の妃北殿である。
【藤原不比等との間の二人の女子】
藤原不比等との間には二人の女子、光明子・多比能がいる。
光明子は言うまでもなく聖武天皇の皇后(光明皇后)。
多比能は橘諸兄の正室となり奈良麻呂の母である。
【県犬養三千代の実力】
県犬養三千代所生の男女は皆活躍しており、
さらに出身母体である県犬養氏自体も勢力を増しており、
三千代の関与するところ全て良し、の状況となった。
藤原不比等の権威をうまく利用したとされるが、
藤原不比等が三千代の力を用いて藤原氏の基盤を強化していたと考える方が
妥当かもしれない。
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【県犬養三千代の再婚】
県犬養三千代は二度結婚している。
これだけ聞いても、「だからなんだ?」という方々が多いのではないか。
東大寺の大仏を造り日本中に国分寺を建立した聖武天皇の皇后光明子の母親が
一度結婚し、離婚し、再婚して光明子を生んでいる。
最初の夫は敏達帝の3世孫とも4世孫ともいわれる美努王、
二度目の夫は律令政治を作り上げた立役者藤原不比等である。
朝廷内の狭い世界での出来事である。
美努王から藤原不比等へ夫が変わったことについて、
どのような事情があったか歴史は語っていない。
またその追及はここでのテーマではない。
美努王にとっても、不比等にとっても妻は一人ではなかったと考えられるので、
不謹慎な言い方をすればワン・オブ・ゼムを替えただけのことだったのだろう。
【宝皇女の再婚】
有力女性の二度の結婚というと舒明帝の皇后となった宝皇女が想起される。
皇極帝、斉明帝となる女性である。
斉明紀によると宝皇女は、
「初適於橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子、
後適於息長足日廣額天皇而生二男一女
(初めに橘豐日天皇之孫高向王と結婚して漢皇子を生み、
後に息長足日廣額天皇と結婚して二男一女を生んだ)」
と記されている。
二度目の結婚での二男一女とは皇極紀によると、
「立寶皇女爲皇后。后生二男一女、
一曰葛城皇子近江大津宮御宇天皇、
二曰間人皇女、
三曰大海皇子淨御原宮御宇天皇。
(宝皇女を立てて皇后とした。后は二男一女を生んだ、
最初の子は葛城皇子という、近江大津宮御宇天皇である。
二人目は間人皇女という。
三人目は大海皇子といい、淨御原宮御宇天皇である。)」
と記されている。
言わずと知れた天智帝、天武帝の母である。
【ここにもあった日本書紀の先例主義】
日本書紀は先例主義である。
完成時点である8世紀前半の情勢で正当化しておきたいことがあると、
日本書紀の中に同じようなケースを描きこんなことが過去にあったと先例を示し、
現状を肯定しようとする。
続日本紀天平元年八月条で聖武天皇は詔を発して、
臣下(藤原不比等)の娘である光明子を皇后にすることについて、
その昔仁徳天皇は臣下である葛城曾豆比古の娘伊波乃比売命を皇后にした
先例があると述べている。
先例を示すことが大切な時代背景があったのである。
県犬養三千代は光明子の実母である。
皇后になる女性の実母が再婚であることを正当化しておく必要があった。
宝皇女の再婚譚をあえて日本書紀に記述したのは、
県犬養三千代の再婚を正当化するためだったのかもしれない。
実母の再婚を理由に光明氏の立后に異を唱える人がいれば、
天智帝・天武帝の実母の再婚を非難するのかと反論することができるからである。
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