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ハル国務長官

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生い立ち No.3

ハル国務長官は、5人兄弟の真ん中だった。男だけの5人兄弟であり、彼が生まれた時は、長男が3歳半、次男が2歳であった。コーデルと言う名前は、郡の判事(ハル国務長官の父の友人)の名前を採って付けられた。この判事は、彼らが居住するオーバートン郡から二つ離れた郡に住んでいた為一度も会うことはなかった。
ハルが生まれ育った地域は、南北戦争当時、丁度南部と北部の境界線の真上に位置していた。そこは、鉄道から120キロ離れ、開発の遅れた地域であった。山岳部と呼ばれていた。雨季には、道路は通行不可能となった。特に、冬と春には、最悪であった。何処かに行こうとすれば、山を越え、丘を越え、川を渡り、小川を渡り、何十キロも進まねばならなかった。天候が悪い時は、世界で一番困難な場所と思えた位だった。
この地域に住んでいた人は、純粋なアングロサクソンであり、独立戦争に参加した兵士達を先祖に持つ者達であった。アングロサクソン的英語を話した。しかし、実際は、この地で変化したアングロサクソン訛りの英語であった。嘗て、バージニア州から新天地を求めて移動してきた人達であり、この地に留まる者、更に西に進む者達がいた。更に、西に進んだ者達は、自由な土地(未だ所有権の定まっていない土地)を求めたのである。
ハル国務長官が生まれた地域には、黒人が一人だけいた。この地域の人達は、皆、偉大な愛国者や戦士であるアンドリュージャクソン、ジョンセビアー等の教えに傾倒していた。第七代米国大統領ジャクソン(20ドル紙幣の人物)のモットーであった"I love my country bettter than my life."(自分の命より国を愛している)が大好きだったので独立戦争から現在(ハル長官の時代)に至る全ての戦いに多くの兵士をこの地は、送り出している。

続くーーーー

生い立ちNo.2

ここで再び、ハルが生まれる前に戻る。農民であったウイリアム ハル(ハル国務長官の父)は、結婚当時、近くの山間部の畑を借りていた。そして、馬を一頭50ドルで信用買いし、その馬と共に優れた判断力と活力に溢れた行動力で、毎日一年365日、朝4時に起床し、日が落ちるまで働いた。
ハル国務長官は、この場所で生まれ、彼の父ウイリアム氏が働く姿をみて育った。彼の父は、ハル氏が記憶している限りでは、常に仕事をしていた。何時も、畑を耕すか、種を蒔くか、収穫するかの何れかであった。畑仕事の他にも商売をしていた。同時に、地域の活動にも興味を示し、政治にも興味を持っていた。
彼の父が結婚した1867年に短期間ではあるが、小規模にウイスキー蒸留の仕事もしていた。彼らの家から1.6キロ程のところに蒸留所があった。そこには、小川が流れていた。この時代には、私設蒸留所は、大目に見られていたらしい。人々は、米国政府の初めから私設の蒸留には、慣れっこになっていたらしい。少なくともこの場所では、多くの人が自分で飲むためのウイスキーを蒸留していた。時には、販売したり、食料や衣類等と物々交換したりしていた。南北戦争開始までは、ウイスキー蒸留に税金が課せられることは、なかった。政府は、南北戦争勃発と同時に、ウイスキー蒸留に税金を課したので人々は、人権侵害等として不満であったそうである。
ハル氏の母エリザベスは、彼が誕生した時には、30歳であり、彼女の祖父母達はバージニア州の出身であった。母方はアイルランド系であった。彼の母は、彼の父と同じように良く勤勉に働き、何時も、綿を紡ぎ、機織をし、母を含む7人家族のために衣服を作っていた。当時の人々は、皆、自分で紡いだ糸で衣服を作り、着ていた。農家からは、機織の音が聞こえていた。子供達は、皆、ごわごわした硬い皮で作られた靴を履いていた。当時、アライグマの尾が後ろに垂れた毛皮を頭に被る人があちこちに見られた。何故なら、帽子が大変手に入り難かったからである。しかし、南北戦争頃から日用雑貨品がメリーランド州アルティモアーから運ばれ山岳地帯にも現れてきた。
ハル氏の母は、家事と農作業の合間に糸を紡ぎ、機織をした。当然子供達は、母を手伝った。彼女は、リュウマチで手が動かなくなるまで働き続けた。ついには、車椅子の生活となったが、それでも、完全に手の指が動かなくなるまで裁縫をした。
当然、これらの仕事をしながら、彼女は、当時の小学校で使用されていたウエブスタースペリング教材で子供達にアルファベット等を教え、聖書を読んで聞かせた。

(ハル国務長官が生まれた当時の米国テネシー州山岳地帯の生活が良くわかると思います。)

続くーーーーー

生い立ち No.1

ハル国務長官は、テネシー州オーバートン郡で1871年10月2日に生まれた。彼の家は、小さな丸太小屋で、それも貸家であった。窓ガラスがあったかどうか記憶にないそであるが、その当時の丸太小屋は、通常窓ガラスがなく窓の穴が壁にあいているだけで、風や雨を防ぐためのシャッター(板で窓を塞ぐ)がある小屋でした。
郡の唯一の小さな店まで1.6キロもあり、この店が郵便局の機能も備えていた。彼の父の名は、ウイリアム ハルで、アレン ハルとセレナ ハルの間に生まれた13人の子供の一人であった。農民であった祖父アレン ハルは、メキシコとの戦争にも参加した。先祖は、アッシュビル ノースキャロナイナから19世紀の初めに移り住んできた。(ここでハルは、先祖の詳細について調べることを断念している)
一説によると彼の血には、アメリカインディアン チェロキーの血が混ざっているとのことであるが、これを彼は、否定し、彼の父の名は、英語名であったとしている。
彼と彼の妻の双方の両親は、貧しいが、法律を守り、正直な人達であったとしている。私も、私の限られた知識からしても、その通りであると考えている。貧しくても、厳格で立派な人達であったと思う。
彼の父は、1840年に生まれハル国務長官が生まれた時は、31歳であった。彼の父は、中肉中背であったが力強く、肌は、日焼けし、目は黒かった。
南北戦争中に、彼の父(兵士ではなく、一般市民)は、北軍の兵士に撃たれ、彼と一緒にいた人は死亡した。彼の父に命中した弾丸は、右目と鼻の間から進入し、頭の後ろから出たそうである。父は、その場に倒れた。それを視ていた女性が彼女のエプロンで父の頭部を覆い、「もう、撃たないで、彼は、既に死んでいます」と叫んだそうである。すると、北軍の兵士達は、その場を立ち去ったそうである。
その後、父は、生死の境をさ迷ったが南北戦争終了後に多少回復した。父の右目は、視力を失い、傷は、癒えることはなかった。そして、父を撃った人物を特定し、ケンタッキー州を探し回り、ついにその男を見つけ出した。彼に近づくと、彼は、父に「何しにきたの、こんにちは」と言ったそうである。そして、父は、無言のまま彼を射殺した。この事実を知った当時の人達は、父の悪口を言うこともなく、彼を処罰しようとも思わなかった。
続くーーーー

ハル国務長官の伝記

日本が真珠湾を奇襲攻撃した1941年12月7日(昭和16年12月8日)の前後にアメリカ合衆国国務長官を務め日本との関係においては、ハルノートで日本でも知られている人物である。

このブログに私自身の学習の意味もありハル国務長官の伝記(The Memoirs of Cordell Hull, published in two volumes by The Macmillan Company in 1948)等を基に正しい(私が正しいと思う)歴史認識及び米日関係の促進のために微力ながら可能な限り連載したと考えております。

日本の民主党がテロ特措法に関連して国連決議がない自衛隊の海外派遣は、違憲であるとするあの国連の創設の父と呼ばれるのがハル国務長官であり、これによりノベル平和賞を受賞しております。

ですから、日本の方々もこのハル国務長官について理解することは、米日関係の歴史認識を深める意味で重要であると思います。

本日は、既に12時を過ぎておりますので後日、ハル国務長官について書き始めたいと思います。では、その時まで。

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