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絶望の中のともし火 震災直後2週間の真実 立花裕人
人生観が変わる出来事は人生においてはそう多くはおこらない。学生から社会人になった時、結婚した時、子供が生まれた時、もしくは大切な人を失ってしまった時。 今年50歳を迎えようとし、さらには報道現場での取材経験が約10年になる私の人生観が2週間で変わるとは思ってもみなかった。そして、今でも信じられない。 2011年3月11日の東日本大震災の発生から2週間の取材で、私の人生観は大きく転換した。 私が見たもの、聞いたものとは一体何だったのか。あらためて記憶の糸を手繰りながら、 ここに記していきたい。 すべては2011年3月11日の午後に始まった。
「電車は緊急停車します」私が乗っていたJR中央線快速電車は千駄ヶ谷駅の近くで停まった。しばらくして車掌は車内アナウンスで「三陸沖で地震が発生しました」と乗客に告げた。車内で過ごした2時間、乗客がワンセグで見ているテレビのアナウンサーの緊迫した声が事態の重大さを感じさせた。 千駄ヶ谷駅前のタクシー乗り場は長蛇の列。私は仕事の打ち合わせのために千葉に向かっていたのだが、車は数百メートル進むのにかなりの時間がかかっていて、地震の影響で高速道路も使えず、結局その日の打ち合わせはキャンセルになった。 時刻は5時を過ぎ、多くの人がオフィスから自宅へと向かっていた。首都圏の電車はストップしていたこともあり、会社から自宅へ徒歩で帰ろうとしていた人もたくさんいた。 私も7時間ほどかけて自宅に戻るのを覚悟していた時に、当時私がニュースリポーターを担当していたテレビ局のディレクターと電話が通じ、彼は私にこう言った。 「立花さん、この後23時発のクルーが局を出発しますので、その車で盛岡に向かってください」 この電話を受けた時、私は市ヶ谷駅の近くにいた。一時間半かけて、もちろん徒歩で局まで行き、予定通り23時過ぎに車は一路岩手を目指した。 とにかく都心を抜けるにも一苦労だった。電車がストップし、首都高速が通行止めとなったため、移動手段は車か徒歩だった。大渋滞の国道に連なる車の列を横目にしながら、早歩きで自宅へと急ぐ人達が午前1時を過ぎても絶えない。 東北自動車道が通行止めとなっていたため、私達は国道4号線を北上するルートを選択した。東京と青森を結ぶ日本でもっとも距離が長い4号線は、東北自動車道と並走している。東京から埼玉まではとにかく大渋滞で、オフィスから何とか家までたどり着こうとする人の姿がそこにはあった。 埼玉から栃木に入ると、車窓の光景は一変した。車の数が減ったということもあるが、とにかく暗い。そう、栃木では停電で明かりが来ていないのだ。国道を本来なら照らしているはずの街灯も、信号も、家の灯りも全く見えない。車のヘッドライトだけが前方を照らしている。暗闇の中の走行は明け方まで続いた。 周囲が明るくなると「那須」という地名が目に飛び込んできた。古い家の塀は倒れ、墓石が転倒していた。リゾート地として知られる栃木県の那須にも地震の被害は出ていた。 その後、福島に入り、須賀川の町に入った時が最初の衝撃だった。商店街の多くの店舗に被害が出ていて、2階部分が一階に落ちてきている店もある。地震から一夜明け、親戚が集まって本家とおぼしき旧宅の修繕をしている光景も見てとれた。 須賀川から郡山、さらには国道4号線を宮城に向かったが渋滞がひどく、私達は4号線の東を走る349号線を北上することにした。手元の地図には三春、田村、相馬といった地名がある。(続く) |
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