立花裕人のFREEWAY

フリーキャスターで、作詞家としても活動する立花裕人のブログです!

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岩手の北上市に着いたのが翌日、つまり3月12日の午後10時頃だった。東京からは約23時間かかった計算になる。北上は内陸部ということもあって、地震による被害は

それほどは無かったが、ライフラインの停止が生活を困らせていた。

十代の娘さんが近くの公民館で沸かしたお湯をポットに入れ、真っ暗なマンションの上のほうの階へ階段で上っていた。

人がたくさん中にはいるのに真っ暗なマンションやホテルが漆黒の中に屹立している様はとても不気味に見えた。

 

翌日、つまり震災から3日目の3月13日の朝、私達は東の海沿いの町、釜石を目指すことにした。震災による被害状況はまだこの時点では詳しく分からなかったが、釜石にも甚大な被害が出ていることだけは知っていた。

北上から釜石に向かう途中、遠野を通る。柳田邦夫氏の「遠野物語」の舞台となったところだ。このあたりの自然はとても穏やかで、訪れる人を温かく迎え入れる包容力がある。人間がすっと同化出来るような空気が流れている。

 

遠野の先が釜石だ。新日鉄釜石で知られ、全国で最強のラグビーチームを以前は擁していた町を、笛吹峠を通る山道を使って目指すことにした。釜石までは行けないかもしれないと聞いていたが、車に布団などを詰め込んだ車が時折、反対側からやってきた。

「どこから来られたのですか」と聞くと、「うのすまい」という答えが返ってきた。「うのすまい」は「鵜住居」と書き、釜石市にある海沿いの地区だ。

「うのすまい、うのすまい」と初めて聞いた地名を忘れないように繰り返していると、釜石市立栗林小学校に着いた。ここは住民の避難所になっていた。

体育館にはたくさんの人がいて、入口近くに緊急に作られた掲示板で安否情報を確認している人がいた。

 ある年配の男性は「妻と嫁も流されてしまって、いまだに見つからない。探し回ったが見つからない」と涙で腫れた目をさらに腫らして、近くの人に情報がないかを聞いていた。

私はその後、避難所にいたある男性が鵜住居の様子を見に帰るというので、一緒に行くことにした。

 山道からバイパスへ少し道を上がると、辺りの集落を見渡せる場所がある。

その場に立って、私はとにかく驚いた。今まで普通にあったであろう民家がまったく無く、津波で流された家屋が残骸となってほうぼうに散らばっている。その面積がとにかく広いのだ。

 某自動車販売店に勤務する男性がこう語った。「鵜住居には車の販売店がいくつかありましてね。とにかく津波警報が出て、あわてて山のほうへ逃げてきました。まだ家族で安否確認が取れていない者がいます」自らの悲しみに耐えながらも、仕事柄、地元の人と接点があるその男性は次々にやってくる住民の話を聞き、情報をまとめて他の住民に伝えていた。その姿が私にもとても頼もしく見えた。

 

 釜石を後にすると、さらに北の宮古へ向かった。釜石の北の大槌町では町長も亡くなり、さらに北の山田町でも甚大な被害が出ていた。

 

 宮古に着いたのは夕方だった。港町として栄えた宮古にはかなり大きな商店街があるのだが、ここでも多くの商店が被害に遭い、たくさんの方が亡くなられていた。

 海から防潮堤をはさんですぐの所にある市役所も一階部分は完全にやられ、4階に緊急災害対策本部が置かれていた。

 そして、私は翌日の朝、宮古市の中でも被害が大きいとされる田老地区に向かうことになった。 (続く)

 


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