立花裕人のFREEWAY

フリーキャスターで、作詞家としても活動する立花裕人のブログです!

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 千鶏も三陸の他の海沿いの町と同じく、過去の津波に苦しめられてきた。そこで、新しい住宅を中心に、高台に建設された建物が多い。さらに、千鶏は海から高台までがさほど離れておらず、短時間に避難出来たことが幸いした。

 避難所になっていた場所は水産加工工場で、この季節はわかめの芯を取り去る作業で忙しかったという。

 明かりはもちろん自家発電機を使って確保していたのだが、漁船に積んであったものを使い、燃料となるガソリンは車や家の中にあるものをかき集めた。

 さらに、宮古までは車でかなり時間がかかり、一家総出で水産加工に従事しているため、2,3カ月分の食料を保存する大きな冷蔵庫・冷凍庫がそれぞれの家にあり、そこから持ち寄って日々の糧にしていたのだ。水も山あいから汲んできて、煮沸して使用していたため、さほど不自由はなかった。

 自然に恵まれた小さな漁村ならではのライフスタイルが結果として、千鶏の住民の避難所生活を支えることになった。

 

 三陸の水産物はいわば海のブランド品として、築地市場でも高値で取引されている。真面目に働けば、生活には不自由しない収入も得ることが出来るため、仕事が少ない近隣の町に出るよりも、千鶏に残って漁業を志す若者のほうが多い。

 3世代で暮らしている家もかなりある。だからこそ、避難所には子供達も多く、明るい雰囲気があったのだ。避難所を形容するのに「明るい」というコトバを使うと不謹慎に聞こえるかもしれないが、子供の無邪気な声が避難所で聞こえてくると、皆がホッとするのが分かる。

 

 避難所の壁にはラジオが掛けられていて、そこからの安否情報に耳を傾けている。

「知り合いがどうなっているのか心配でね。これは便利だ。また、皆が避難所で頑張っているのを知ると少しは頑張ろうという気になるしね」仕事で日焼けしている中年の男性はそう語る。

 情報が不足しているかと思い、私は鞄の中にあった新聞を渡した。中学生や高校生も初めて見る地震と津波の被害状況に驚きながら、食い入るように読んでいる。情報の必要性をあらためて実感した。

 

 ストーブの近くにいると、同じ世代の男性が私に声をかけてくれた。

「仕事が無くなって、これからどうやって生きていけばいいのかね。この年齢だと再就職も難しいしなぁ」

 私にもちろん適切な解答があるはずもなく、ただ黙って話を聞くのが精一杯だ。あらためて自分の無力が不甲斐ない。

「千鶏は私の実家でしてね。仕事を休んで花巻から来ました。父の遺体は発見しましたが、母の安否は分かっていません。一人っ子で家業を継がず、親には心配をかけ、苦労もさせました、最後くらいはしっかり看取ってやりたくてね」

 優しそうなその男性の小さなため息が、私にはとても深く心に響いた。

 

 先程まで私の質問に答えてくださったご年配の女性はこうつぶやいた。

「まだ父ちゃんが見つからないんだ。ここに来た時は泣いてばかりだったんだけど、慰めてもらってね。少し元気が出て。その人も父ちゃんがいないのにね」

 何気なくお話を聞いていた女性がそのような絶望のどん底にいるとは。私はコトバを失った。何も声をかけられない。どう励ましていいのかも分からない。無力で非力な自分が  嫌になる。

 

 何か避難所の皆さんに役立つことは出来ないだろうか。テレビが出来ることは千鶏でこれだけの方が無事でいることを伝えることではないか。

 私達は千鶏で無事が確認されている方のリストを作ってもらうことにした。百数十人の地区で九十数人の名前がそこには挙がった。この情報は翌日の番組で放送し、千鶏に親戚や友人がいる方からは感謝のメッセージがテレビ局、さらには私宛にツイッターを通じて寄せられた。少しはお役に立てたかと思うと、私も少しだけホッとした気持ちになれた。

 

 実はこの日、自衛隊も県道を復旧する作業にあたり、県道・林道両ルートが開通した。自衛隊、そして宮古市職員の懸命の努力には本当に頭が下がる。

 私の頭の中には今でも、雪深い山道をかきわけていく雄々しい除雪車の音が響いている。

 ゴーッ。ゴーッ。ゴーッ。

 

 私は岩手取材を終えると、週末に東京で他の仕事もあり、いったん帰京した。

 そして、週明けに今度は宮城の被災地へと向かうことになった。(続く)

 


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