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宮城県石巻市。日本で有数の漁港を抱えるこの港町も津波は容赦なく襲った。 海に近い開けた場所に住宅が多かったこともあり、多数の家屋が流され、尊いたくさんの命が失われた。 石巻日々(ひび)新聞。創刊100年を誇る地元密着のローカル紙。 3月11日の地震の直後、社にいた記者達は取材のため、市内各地へ飛び出した。ところが、その後に襲った津波で全員が安否不明となる。 一人、二人と疲れた表情で戻ってくる記者達。中には津波に巻き込まれ、流されたが、たまたま近くに流されてきた漁船に乗り込み、ヘリコプターで救助された記者もいた。幸い記者は全員無事が確認された。そして、全員が現場に復帰し、取材活動を再開した。 はたして、被災地のメディアはどのように状況を伝えているのか。宮城での私の最初の取材だった。 石巻日々新聞社も海からそれほど離れていない住宅地の一角に位置するのだが、それほど建物には大きな被害は出ていない。社員の一人はこう説明する。 「実は社の少し手前の道で、流されてきた大きなトラックが道をふさぐような形になり、津波による水流が直前で変化し、難を逃れたのです」 何が運命を左右するのか、本当に分からない。 新聞を印刷するためには輪転機を回すが、電気もきていなければ水道も使えない。その輪転機も水浸しの状態だ。 その一方で、避難所では詳しい情報を一刻も早く入手したい人であふれている。地元に寄り添って作成している新聞だけに、社員達のジレンマも大きい。 ふと思いついたのが、そう、壁新聞だ。記者達はまるで中学生にでも戻ったように手書きで情報を書きしるし、それを各避難所に貼ったのだ。 やがて、コピーで新聞を印刷し、輪転機も使えるようになり、部数は少ないものの石巻日々新聞は復活した。 社にはボランティアで新聞作りを手伝いますと申し出る市民もいた。 テレビやラジオで20年以上に渡って仕事をしているが、あらためて、何かをしっかりと相手に伝える姿勢の原点を教えてもらった。 社の幹部はこう胸を張った。「私達の仕事は伝えることですから」(続く)
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千鶏も三陸の他の海沿いの町と同じく、過去の津波に苦しめられてきた。そこで、新しい住宅を中心に、高台に建設された建物が多い。さらに、千鶏は海から高台までがさほど離れておらず、短時間に避難出来たことが幸いした。 避難所になっていた場所は水産加工工場で、この季節はわかめの芯を取り去る作業で忙しかったという。 明かりはもちろん自家発電機を使って確保していたのだが、漁船に積んであったものを使い、燃料となるガソリンは車や家の中にあるものをかき集めた。 さらに、宮古までは車でかなり時間がかかり、一家総出で水産加工に従事しているため、2,3カ月分の食料を保存する大きな冷蔵庫・冷凍庫がそれぞれの家にあり、そこから持ち寄って日々の糧にしていたのだ。水も山あいから汲んできて、煮沸して使用していたため、さほど不自由はなかった。 自然に恵まれた小さな漁村ならではのライフスタイルが結果として、千鶏の住民の避難所生活を支えることになった。 三陸の水産物はいわば海のブランド品として、築地市場でも高値で取引されている。真面目に働けば、生活には不自由しない収入も得ることが出来るため、仕事が少ない近隣の町に出るよりも、千鶏に残って漁業を志す若者のほうが多い。 3世代で暮らしている家もかなりある。だからこそ、避難所には子供達も多く、明るい雰囲気があったのだ。避難所を形容するのに「明るい」というコトバを使うと不謹慎に聞こえるかもしれないが、子供の無邪気な声が避難所で聞こえてくると、皆がホッとするのが分かる。 避難所の壁にはラジオが掛けられていて、そこからの安否情報に耳を傾けている。 「知り合いがどうなっているのか心配でね。これは便利だ。また、皆が避難所で頑張っているのを知ると少しは頑張ろうという気になるしね」仕事で日焼けしている中年の男性はそう語る。 情報が不足しているかと思い、私は鞄の中にあった新聞を渡した。中学生や高校生も初めて見る地震と津波の被害状況に驚きながら、食い入るように読んでいる。情報の必要性をあらためて実感した。 ストーブの近くにいると、同じ世代の男性が私に声をかけてくれた。 「仕事が無くなって、これからどうやって生きていけばいいのかね。この年齢だと再就職も難しいしなぁ」 私にもちろん適切な解答があるはずもなく、ただ黙って話を聞くのが精一杯だ。あらためて自分の無力が不甲斐ない。 「千鶏は私の実家でしてね。仕事を休んで花巻から来ました。父の遺体は発見しましたが、母の安否は分かっていません。一人っ子で家業を継がず、親には心配をかけ、苦労もさせました、最後くらいはしっかり看取ってやりたくてね」 優しそうなその男性の小さなため息が、私にはとても深く心に響いた。 先程まで私の質問に答えてくださったご年配の女性はこうつぶやいた。 「まだ父ちゃんが見つからないんだ。ここに来た時は泣いてばかりだったんだけど、慰めてもらってね。少し元気が出て。その人も父ちゃんがいないのにね」 何気なくお話を聞いていた女性がそのような絶望のどん底にいるとは。私はコトバを失った。何も声をかけられない。どう励ましていいのかも分からない。無力で非力な自分が 嫌になる。 何か避難所の皆さんに役立つことは出来ないだろうか。テレビが出来ることは千鶏でこれだけの方が無事でいることを伝えることではないか。 私達は千鶏で無事が確認されている方のリストを作ってもらうことにした。百数十人の地区で九十数人の名前がそこには挙がった。この情報は翌日の番組で放送し、千鶏に親戚や友人がいる方からは感謝のメッセージがテレビ局、さらには私宛にツイッターを通じて寄せられた。少しはお役に立てたかと思うと、私も少しだけホッとした気持ちになれた。 実はこの日、自衛隊も県道を復旧する作業にあたり、県道・林道両ルートが開通した。自衛隊、そして宮古市職員の懸命の努力には本当に頭が下がる。 私の頭の中には今でも、雪深い山道をかきわけていく雄々しい除雪車の音が響いている。 ゴーッ。ゴーッ。ゴーッ。 私は岩手取材を終えると、週末に東京で他の仕事もあり、いったん帰京した。 そして、週明けに今度は宮城の被災地へと向かうことになった。(続く)
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午前8時。昨日と同じように2台の除雪車、市の道路課の車、そして上下水道課の車も加わり、重茂に向けての林道開通作業が始まった。 重茂の千鶏(ちけい)地区には浄水場があり、そこを手動で開栓することで水道の復旧が可能になるという。担当職員は何度も千鶏に足を運んでいた。何とかこの日のうちに林道が通れるようになると良いのだが。 林道は山を上下するルートになっていて、頂上に近づくほど積雪は多くなり、除雪作業の難航が予想された。山頂近くまでは前日の作業で進めるようになっていて、この日は頂上から下りのルートを確保し、千鶏まで行くことが目標だ。 この日は震災以来、もっとも寒く、前日の夜からの降雪がさらに行く手を阻んでいた。頂上近辺は一時間に200メートル進むというペースで、作業後8時間が経った午後4時になっても、まだかなり先があった。しかし、宮古市職員の開通に向ける執念はすさまじく、スピードをアップしながらずんずん前へと進んでいく。まるで巨大ないのししのように猪突猛進、ぐいぐい雪をかきわけていく。 「何とか今日中には」道路担当の職員も時計を気にしながら、何度もつぶやく。 実は私の乗った車も2回、雪道でスタックしてしまったが、宮古の職員の奮闘に後押しされたのか、時間はかかったがスタッフと力を合わせて、脱出に成功した。 そして、午後6時を過ぎた頃に見事に林道は開通、重茂へのルートは確保された。 「やりましたね」私が声をかけると、除雪車を運転していた職員にも安堵の表情が浮かんでいた。私は水道担当の職員が運転する車に続き、千鶏地区へ向かった。 その時、住民がつぶやいた一言が脳裏に甦った。 「地獄絵」はたしてどのような光景なのか。もし、たくさんの方が亡くなっているとしたら、私はどのような念仏を唱えれば良いのだろうか、などと真剣に考えていた。 車は林道から県道へと抜け、いよいよ千鶏に近づこうとしていた。 車窓の左に海が広がっているのだが暗くて見えず、ひたすら目をこらして前方を見ていると、家の屋根が目に入った。近づくと1階の部分は大きく破壊されている。近くを見回すと、やはり津波による被害で家屋は損壊の度合いが激しかった。 「誰かいませんか。」私は真っ暗な家屋に向かって叫んだが、返答はない。 集落を山のほうに歩きながら上がっていくと、何と一台の軽自動車がライトをつけ、民家に停まっていた。私は走って車に近づき、乗っていた女性に声をかけた。 「大丈夫ですか。皆さん、どうされているのですか。」 すると、女性からは信じられない一言が返ってきた。 「もう少し上に、みんないますよ」 私はとにかく嬉しくなった。勝手に地獄絵を想像し、生存者はほとんどいない状況を思い浮かべていたからだ。私はダッシュで斜面を駆け上った。 すると、かなり大きい建物に明かりが灯り、人の気配がするではないか。 建物のドアを開けると、そこにはたくさんの住民がいた。当然のように私には不審な視線を投げかける。 「先程、宮古市が林道を開通させ、車で行き来が出来るようになったんです」 私はとにかく住民の皆さんに状況を理解してもらおうと、宮古市の努力と私が取材で同行したことを伝えた。 一人の男性が目を潤ませながら、「よかった。今まで苦しかったので。これからは物資も来るようになりますね」と安堵の表情を浮かべながら話した。 入口から避難所の中を見回すと、小さい子供からお年寄りまでかなりの数の人が生活している様子が分かった。明かりもしっかり点いているし、他の避難所の比べると皆さんの顔色もそれほど悪くはない。一体、どうしてなのか。(続く) |
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私達は出発拠点としていた赤前小学校に戻ってきた。ここは多くの住民の避難所となっている。ちょうど湾奥に位置する赤前も津波が重なり合うように威力を増し、多くの方が命を失い、家を失くした。 給食室に寄ってみると、そこでは数人の女性が力を合わせて調理していた。 「今日は鮭汁を食べてもらおうと思って」地元のかたが鮭を差し入れ、寒さで苦しむ住民に温かいものを食べさせたいと、心をこめて作っていた。 普段は家事の手伝いをしたことが無いという中学生が、出来た鮭汁を体育館に運んでいる。そこにいる誰もが自然にお互いを助け合っていた。 鮭汁はもちろん好評だった。「うめえな。温まるしな」高齢の方にも少しホッとした表情が浮かんだ。 見ているだけで私の気持ちまで温かくなり、そのまま小学校を後にしようとしたところで、ある女性に声をかけられた。 「すみません。お願いがあるのですが。実は花巻に両親がいて、そこに電話をして無事を伝えていただきたいのです」 この時点で電気をはじめとするライフラインは復旧しておらず、携帯電話を使うことも出来ない。赤前に嫁いできたこの女性は夫と義理の両親とともに、赤前小学校に避難していた。家族は無事だったが家は流され、跡形も無いという。 私はもちろん快諾した。取材で避難所を訪れるたびに何も出来ない自分に無力感を覚えていた。少しでもお役に立てれば。 私達の車が携帯電話が使える地域まで戻ってくると、花巻の女性の実家に電話した。電話に出た母親はとても嬉しそうに感謝のコトバを述べられた。 「今日も連絡が無いから、どうしてるかなと思って。本当にありがとうございます」 一本の電話でこのように感謝されたのも初めてのことだった。 翌日16日の朝、私は再び宮古市の林道開通作業を取材するため、赤前小学校に向かった。真っ先に昨日の電話のことを伝えようと、体育館の中に入っていった。私に依頼した女性は外に出ていなかったが、義理の母親が喜んでくださった。 「ありがとうございます。ありがとうございます。あの娘もこんなところに嫁に来たばっかりに辛い目にあって。花巻のお母さんに申し訳なくて」 義母の目には涙が滲んでいた。 私は心の中でこう声をかけていた。「いえいえ、こんなに素敵なご両親とダンナさんに恵まれて、お嫁さんも幸せだと思いますよ」 幸せというコトバはその場では不謹慎かと思い飲み込んだが、義母の優しそうな表情と気遣いに心からそう思った。 体育館を出る時まで、義母は深々と頭を下げてくださった。(続く) |
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田老(たろう)は昔から「津波太郎」と呼ばれるほど、津波の被害に悩まされてきた。昭和三陸沖地震、チリ地震の津波で集落が壊滅的な被害を受けたため、その対策も講じてきた。 高さ10メートルの防潮堤は2重になっていた。これだけの高さがあれば、津波を防いでくれると住民は信じていた。その信頼は3月11日に大きく裏切られた。 高さ20メートルとも30メートルともいわれる津波は再び田老を襲う。 田老の集落の中で原形をとどめているのは野球場のスタンドの一部と観光センターの ビルの上半分くらいで、あとは流されてしまった。 チリ地震から50年、住民の汗と涙の結晶として再生された町は、津波によってまた壊されてしまったのだ。 落胆と失望で呆然としている田老の住民に私はかけるコトバすらも見つからなかった。 田老の取材を終え、私は再び宮古市役所に戻ってきた。自らが被災者であるにもかかわらず、市役所の職員は私の質問にも丁寧にこたえてくれた。3階に設置された記者向けの部屋には最新の被害状況がホワイトボードに書かれている。 職員は私達に宮古市内には孤立集落があり、そこに明日(15日)行く予定だと教えてくれた。そして、私達も同行することにした。 岩手県宮古市は市町村合併の結果、県内でもっとも広い市となった。 宮古の町から東の方角にあるのが重茂(おもえ)半島で、海岸は豊かな漁場として知られている。重茂地区に宮古から行くとすると、国道と県道を使って半島の南側からアプローチするのがもっとも便利だ。ところが津波の影響で県道が寸断され、千鶏(ちけい)を始めとするいくつかの集落が孤立状態になっているという。 では、宮古市の職員達はどのようにして行くつもりなのか。実は赤前という集落から重茂地区に抜ける林道が通っている。昨年末の大雪で、その道自体も通行は不可能な状況なのだが、市が所有する除雪車を使い、林道を切り開きながら千鶏を目指すという。 3月15日、午前8時。私達は赤前から重茂に向けて出発した。 市所有の除雪車は2台。その後を道路担当の職員の車、そして私達の車が続く。 「とにかく一刻も早く道を確保して、重茂に物資が届くようにしたい」 震災から5日目の朝を迎え、住民の安否が心配だ。では、重茂は津波でどのような被害を受けていると想像出来るのか。 過去の昭和三陸地震やチリ沖地震の津波でも大きな被害が出ている地区だ。 「立花さん、地獄絵が広がっているかもしれません。心して取材してください」 ある市民にそう耳打ちされると、私は今までにない緊張感を覚えるとともに、一人でも多くの方が生存していることを切実に願った。 ゴーッ。ゴーッ。除雪車が作業する音が静かな山の中に響き渡る。 赤前から重茂へ続く林道は約10キロ、かなり山深い道で、雪が無かったとしても一時間強はかかるという。ところが、昨年末の影響で積雪は2メートル近くに及び、大雪で樹木が倒れて道を塞いでいる可能性が高いという。 最初の数百メートルは普通に車で上ることが出来たものの、その後の作業は難航し、結局、道半ばにして初日の作業は日が暮れる頃に中止となった。(続く)
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