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私達は出発拠点としていた赤前小学校に戻ってきた。ここは多くの住民の避難所となっている。ちょうど湾奥に位置する赤前も津波が重なり合うように威力を増し、多くの方が命を失い、家を失くした。 給食室に寄ってみると、そこでは数人の女性が力を合わせて調理していた。 「今日は鮭汁を食べてもらおうと思って」地元のかたが鮭を差し入れ、寒さで苦しむ住民に温かいものを食べさせたいと、心をこめて作っていた。 普段は家事の手伝いをしたことが無いという中学生が、出来た鮭汁を体育館に運んでいる。そこにいる誰もが自然にお互いを助け合っていた。 鮭汁はもちろん好評だった。「うめえな。温まるしな」高齢の方にも少しホッとした表情が浮かんだ。 見ているだけで私の気持ちまで温かくなり、そのまま小学校を後にしようとしたところで、ある女性に声をかけられた。 「すみません。お願いがあるのですが。実は花巻に両親がいて、そこに電話をして無事を伝えていただきたいのです」 この時点で電気をはじめとするライフラインは復旧しておらず、携帯電話を使うことも出来ない。赤前に嫁いできたこの女性は夫と義理の両親とともに、赤前小学校に避難していた。家族は無事だったが家は流され、跡形も無いという。 私はもちろん快諾した。取材で避難所を訪れるたびに何も出来ない自分に無力感を覚えていた。少しでもお役に立てれば。 私達の車が携帯電話が使える地域まで戻ってくると、花巻の女性の実家に電話した。電話に出た母親はとても嬉しそうに感謝のコトバを述べられた。 「今日も連絡が無いから、どうしてるかなと思って。本当にありがとうございます」 一本の電話でこのように感謝されたのも初めてのことだった。 翌日16日の朝、私は再び宮古市の林道開通作業を取材するため、赤前小学校に向かった。真っ先に昨日の電話のことを伝えようと、体育館の中に入っていった。私に依頼した女性は外に出ていなかったが、義理の母親が喜んでくださった。 「ありがとうございます。ありがとうございます。あの娘もこんなところに嫁に来たばっかりに辛い目にあって。花巻のお母さんに申し訳なくて」 義母の目には涙が滲んでいた。 私は心の中でこう声をかけていた。「いえいえ、こんなに素敵なご両親とダンナさんに恵まれて、お嫁さんも幸せだと思いますよ」 幸せというコトバはその場では不謹慎かと思い飲み込んだが、義母の優しそうな表情と気遣いに心からそう思った。 体育館を出る時まで、義母は深々と頭を下げてくださった。(続く) |
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2015年03月12日
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田老(たろう)は昔から「津波太郎」と呼ばれるほど、津波の被害に悩まされてきた。昭和三陸沖地震、チリ地震の津波で集落が壊滅的な被害を受けたため、その対策も講じてきた。 高さ10メートルの防潮堤は2重になっていた。これだけの高さがあれば、津波を防いでくれると住民は信じていた。その信頼は3月11日に大きく裏切られた。 高さ20メートルとも30メートルともいわれる津波は再び田老を襲う。 田老の集落の中で原形をとどめているのは野球場のスタンドの一部と観光センターの ビルの上半分くらいで、あとは流されてしまった。 チリ地震から50年、住民の汗と涙の結晶として再生された町は、津波によってまた壊されてしまったのだ。 落胆と失望で呆然としている田老の住民に私はかけるコトバすらも見つからなかった。 田老の取材を終え、私は再び宮古市役所に戻ってきた。自らが被災者であるにもかかわらず、市役所の職員は私の質問にも丁寧にこたえてくれた。3階に設置された記者向けの部屋には最新の被害状況がホワイトボードに書かれている。 職員は私達に宮古市内には孤立集落があり、そこに明日(15日)行く予定だと教えてくれた。そして、私達も同行することにした。 岩手県宮古市は市町村合併の結果、県内でもっとも広い市となった。 宮古の町から東の方角にあるのが重茂(おもえ)半島で、海岸は豊かな漁場として知られている。重茂地区に宮古から行くとすると、国道と県道を使って半島の南側からアプローチするのがもっとも便利だ。ところが津波の影響で県道が寸断され、千鶏(ちけい)を始めとするいくつかの集落が孤立状態になっているという。 では、宮古市の職員達はどのようにして行くつもりなのか。実は赤前という集落から重茂地区に抜ける林道が通っている。昨年末の大雪で、その道自体も通行は不可能な状況なのだが、市が所有する除雪車を使い、林道を切り開きながら千鶏を目指すという。 3月15日、午前8時。私達は赤前から重茂に向けて出発した。 市所有の除雪車は2台。その後を道路担当の職員の車、そして私達の車が続く。 「とにかく一刻も早く道を確保して、重茂に物資が届くようにしたい」 震災から5日目の朝を迎え、住民の安否が心配だ。では、重茂は津波でどのような被害を受けていると想像出来るのか。 過去の昭和三陸地震やチリ沖地震の津波でも大きな被害が出ている地区だ。 「立花さん、地獄絵が広がっているかもしれません。心して取材してください」 ある市民にそう耳打ちされると、私は今までにない緊張感を覚えるとともに、一人でも多くの方が生存していることを切実に願った。 ゴーッ。ゴーッ。除雪車が作業する音が静かな山の中に響き渡る。 赤前から重茂へ続く林道は約10キロ、かなり山深い道で、雪が無かったとしても一時間強はかかるという。ところが、昨年末の影響で積雪は2メートル近くに及び、大雪で樹木が倒れて道を塞いでいる可能性が高いという。 最初の数百メートルは普通に車で上ることが出来たものの、その後の作業は難航し、結局、道半ばにして初日の作業は日が暮れる頃に中止となった。(続く)
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岩手の北上市に着いたのが翌日、つまり3月12日の午後10時頃だった。東京からは約23時間かかった計算になる。北上は内陸部ということもあって、地震による被害は それほどは無かったが、ライフラインの停止が生活を困らせていた。 十代の娘さんが近くの公民館で沸かしたお湯をポットに入れ、真っ暗なマンションの上のほうの階へ階段で上っていた。 人がたくさん中にはいるのに真っ暗なマンションやホテルが漆黒の中に屹立している様はとても不気味に見えた。 翌日、つまり震災から3日目の3月13日の朝、私達は東の海沿いの町、釜石を目指すことにした。震災による被害状況はまだこの時点では詳しく分からなかったが、釜石にも甚大な被害が出ていることだけは知っていた。 北上から釜石に向かう途中、遠野を通る。柳田邦夫氏の「遠野物語」の舞台となったところだ。このあたりの自然はとても穏やかで、訪れる人を温かく迎え入れる包容力がある。人間がすっと同化出来るような空気が流れている。 遠野の先が釜石だ。新日鉄釜石で知られ、全国で最強のラグビーチームを以前は擁していた町を、笛吹峠を通る山道を使って目指すことにした。釜石までは行けないかもしれないと聞いていたが、車に布団などを詰め込んだ車が時折、反対側からやってきた。 「どこから来られたのですか」と聞くと、「うのすまい」という答えが返ってきた。「うのすまい」は「鵜住居」と書き、釜石市にある海沿いの地区だ。 「うのすまい、うのすまい」と初めて聞いた地名を忘れないように繰り返していると、釜石市立栗林小学校に着いた。ここは住民の避難所になっていた。 体育館にはたくさんの人がいて、入口近くに緊急に作られた掲示板で安否情報を確認している人がいた。 ある年配の男性は「妻と嫁も流されてしまって、いまだに見つからない。探し回ったが見つからない」と涙で腫れた目をさらに腫らして、近くの人に情報がないかを聞いていた。 私はその後、避難所にいたある男性が鵜住居の様子を見に帰るというので、一緒に行くことにした。 山道からバイパスへ少し道を上がると、辺りの集落を見渡せる場所がある。 その場に立って、私はとにかく驚いた。今まで普通にあったであろう民家がまったく無く、津波で流された家屋が残骸となってほうぼうに散らばっている。その面積がとにかく広いのだ。 某自動車販売店に勤務する男性がこう語った。「鵜住居には車の販売店がいくつかありましてね。とにかく津波警報が出て、あわてて山のほうへ逃げてきました。まだ家族で安否確認が取れていない者がいます」自らの悲しみに耐えながらも、仕事柄、地元の人と接点があるその男性は次々にやってくる住民の話を聞き、情報をまとめて他の住民に伝えていた。その姿が私にもとても頼もしく見えた。 釜石を後にすると、さらに北の宮古へ向かった。釜石の北の大槌町では町長も亡くなり、さらに北の山田町でも甚大な被害が出ていた。
宮古に着いたのは夕方だった。港町として栄えた宮古にはかなり大きな商店街があるのだが、ここでも多くの商店が被害に遭い、たくさんの方が亡くなられていた。 海から防潮堤をはさんですぐの所にある市役所も一階部分は完全にやられ、4階に緊急災害対策本部が置かれていた。 そして、私は翌日の朝、宮古市の中でも被害が大きいとされる田老地区に向かうことになった。 (続く)
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そうなのだ。福島原発から30キロほど離れた道を通っていた。原発の情報は私達にも届いていて、10キロ圏内には入ってはいけないという指示が東京から来ていたので、原発との距離を確認しながらの走行だった。 このあたりの自然は本当に美しい。なだらかな丘陵と川、とても時間がゆっくりと流れている気がした。「こんなところに故郷があったら、帰省したらのんびりするだろうな」と私は車の中で考えた。たくさんの人があの自然あふれる風景に癒されてきたことを思うと、福島原発の放射能の影響で地域に人が入れないという状況を想像するだけで残念でならない。私達は原発から10キロとか20キロという円を報道で目にするが、その円の中には素晴らしい自然が広がり、もちろんその自然と共生してきた住民の皆さんのたくさんの生活があったことを決して忘れてはならない。 車はやがて福島から宮城に入り、標識にも仙台の地名が見られるようになった。再び国道4号に戻ると、車は岩沼市、名取市、などの海に面した地区を走る。 岩沼市の田園地帯を走っていると、いきなり大きな沼のようなものが見えてきた。道路は一直線に走り、その左右に広がる広大な沼。 「ああ、津波がここまで押し寄せてきてね。昨日は膝くらいまで水に浸かってたなぁ」自転車で通りかかった人の良さそうなおじさんが教えてくれた。地図で見ると海までの距離は3キロほどある。あたり一面に今なお残る大量の水と流されてきた家屋の残骸が田んぼには残り、よく見ると車や死んだ豚までもが道路わきに見てとれた。 仙台市若葉区はすぐ先で、たくさんの方がお亡くなりになっているという情報は届いていたが、その先には警察による規制もあって行くことは出来なかった。 海の方角に目をやるとコンビナートでの火事が収まらず、すさまじい黒煙が雲と同化していた。こんなに恐ろしい夕暮れの光景を目にしたのも初めてだった。 その後も私達はとにかく岩手を目指した。なぜ、岩手か。すでに先発の取材チームが宮城には入っていたので、取材陣がまだ少ない岩手の現状を伝えることが大切だと東京のデスクは判断した。結果としてこの判断は正しく、私はこれから誰もしていない経験を積み重ねることになる。(続く) |
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