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石巻の次に向かったのは隣の女川(おながわ)町だ。女川は小さな港町だが、漁獲量は全国で20位以内、水産加工でも知られている。 女川は原発の町でもある。今回の震災で福島原発の放射能問題が連日報道される中、女川原発に避難所があり、そこで生活している人達に話を聞くのが目的だった。 石巻での取材が午後3時過ぎに終わり、女川へと向かう。海沿いの道を走っているのだが、何か様子がおかしい。やけに潮位が上がり、道路に水があふれ出している個所もある。 通りかかった地元の方に話を聞くと、夕方は大潮の影響で再び浸水の恐れもあるという。津波で大きな被害を受けた上に、今度は満潮とともにあふれ出る海水。 私達は浸水しかけている道路に万全の注意を払いながら、女川の町へと向かった。 私は少し前に取材で女川を訪れたことがある。小さな港町だが、海から続くなだらかな斜面に住宅があり、左右は山に囲まれている。人々の笑顔はとても温かく、私が理想とする故郷の姿がそこにはあった。 しかし、その地形が津波の被害を拡大させることになる。湾に押し寄せてきた津波は左右の山に挟みこまれるように集中し、さらに勢いを増してなだらかな斜面を駆け上った。そして、そこで暮らしていた穏やかで優しい住民と家屋は一瞬にして流された。 海からも近い高台にある市民病院。普段はそこが町民にとっての一番の緊急避難場所なのだが、今回の津波は病院の一階部分をも浸水させた。私は見晴らしの良い駐車場から女川の町を眺めた。
私は本当にコトバを失った。眼下に広がる地面にはほとんど建物らしいものは見えない。全てが無くなってしまっている。少し前まで、その町には生活があった。人の息遣いがあった。愛や優しさと同時に憎しみもあったかもしれない。 それらの痕跡もすべて消え去っているのだ。実は私はテレビのリポートでは「女川の町は壊滅的な被害で、」という表現を使った。確かに壊滅的ではあるのだが、漢字3文字では言い表すことが出来ないほどの惨状がそこには広がっていた。 私は一瞬、それは巨大な映画のセットなのではないかと思った。おそらく、私の脳のメモリーにはこのような光景はインプットされておらず、私の脳自体も事態を把握出来なかったのではないかと思う。つまり、その光景を現実のものだと認識することが出来なかったのだろう。 そして、満潮の時間を迎えて町のあちこちで冠水していたため、結局、女川原発へ行くことは断念し、私達は女川町内にある避難所へ向かうことにした。 県立女川高校の武道場には70人ほどの方が身を寄せていた。着いたのが夕方であり、さらに電気がきていないため、武道場の中はほぼ真っ暗だった。暖をとるためのストーブのほのかな灯りが住民の表情をぼんやりと浮かび上がらせていた。みなさん、当然ながら疲れきっている。 私は皆さんに何が足りないのかを聞いてみた。「衣類」「ガソリン」、そして小学生の姉弟は「歯ブラシ」と答えた。風呂に入るのが出来ない状況で、せめて歯くらいはしっかり磨いてさっぱりしたい。しかし、その歯ブラシが手元には無い。 ある年配のご婦人は少し照れるように「私もレディーだから。甘いものがたまには食べたくてね」と小声で囁いた。隣の女性も「そうだな。あったかいコーヒーと食べたいな」と頷いた。 その日、私は最終の山形発の飛行機で東京に戻らなくてはならなかった。翌朝の番組で女川の様子をスタジオで伝えることが決まっていたからだ。この時期、日本航空が臨時便を増発していたこともあり、私は午後7時過ぎに女川を出て、山形へと向かった。(続く) |
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2015年03月14日
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宮城県石巻市。日本で有数の漁港を抱えるこの港町も津波は容赦なく襲った。 海に近い開けた場所に住宅が多かったこともあり、多数の家屋が流され、尊いたくさんの命が失われた。 石巻日々(ひび)新聞。創刊100年を誇る地元密着のローカル紙。 3月11日の地震の直後、社にいた記者達は取材のため、市内各地へ飛び出した。ところが、その後に襲った津波で全員が安否不明となる。 一人、二人と疲れた表情で戻ってくる記者達。中には津波に巻き込まれ、流されたが、たまたま近くに流されてきた漁船に乗り込み、ヘリコプターで救助された記者もいた。幸い記者は全員無事が確認された。そして、全員が現場に復帰し、取材活動を再開した。 はたして、被災地のメディアはどのように状況を伝えているのか。宮城での私の最初の取材だった。 石巻日々新聞社も海からそれほど離れていない住宅地の一角に位置するのだが、それほど建物には大きな被害は出ていない。社員の一人はこう説明する。 「実は社の少し手前の道で、流されてきた大きなトラックが道をふさぐような形になり、津波による水流が直前で変化し、難を逃れたのです」 何が運命を左右するのか、本当に分からない。 新聞を印刷するためには輪転機を回すが、電気もきていなければ水道も使えない。その輪転機も水浸しの状態だ。 その一方で、避難所では詳しい情報を一刻も早く入手したい人であふれている。地元に寄り添って作成している新聞だけに、社員達のジレンマも大きい。 ふと思いついたのが、そう、壁新聞だ。記者達はまるで中学生にでも戻ったように手書きで情報を書きしるし、それを各避難所に貼ったのだ。 やがて、コピーで新聞を印刷し、輪転機も使えるようになり、部数は少ないものの石巻日々新聞は復活した。 社にはボランティアで新聞作りを手伝いますと申し出る市民もいた。 テレビやラジオで20年以上に渡って仕事をしているが、あらためて、何かをしっかりと相手に伝える姿勢の原点を教えてもらった。 社の幹部はこう胸を張った。「私達の仕事は伝えることですから」(続く)
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