立花裕人のFREEWAY

フリーキャスターで、作詞家としても活動する立花裕人のブログです!

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人とのつながり

人とのつながりに最近想いをはせることが多い。
これは自分が今年54歳になったことも関係している。
最近、他界された人の中には私とほぼ同い年の方もいる。
俳優の今井雅之さん、任天堂の社長さんも年齢は変わらない。
つまり、何が自分の生命におこっても不思議ではない年齢に突入したという
ことだ。

ふと自分の人生を振り返る。山あり、谷ありだったが、人に助けられ、
人に背中を押されながら、ここまで来ることが出来た。自分の力で
こじ開けてきたように思っていた人生を助け、寄り添ってくれたのは私以外の人なのだ。

 フェイスブックでつながっている従姉が最近、若い日の写真をフェイスブックにアップした。聞けば、私が名古屋に住んでいた小学校か中学校の頃、三重に一緒に旅行した前後に撮影されたものだという。従姉はいつも明るく、私のことを励ましてくれた素敵なお姉さんだった。
悩み多き思春期を乗り越えられたのも家族や親戚、友人のサポートがあったからだ。

人生を80年として4つの時期に分けて、20歳までが「春」、40歳までが「夏」、60歳までが「秋」、80歳までを「冬」と仮定しよう。
54歳の私は「晩秋」、まさにこれから「冬」を迎える時期だ。
「冬」は雪が降り、寒いだけの季節ではない。人の温かさに感謝するクリスマス、お正月といったイベントが多いのも「冬」だ。
人生の「秋」や「冬」も視点を変えれば、あらゆる感謝の芽、美しさにあふれている。そして、「終わりある命だからこそ、今を大切に」というメッセージを真剣に受け止められるのは、人生の紅葉の時期以降であろう。正直、年を重ねるのも悪くないなと感じている。

54歳になって、人生を振り返り、新たな意欲も湧いてきている。イベントを通じて人との新たなつながりを模索することも続けていく。
これからも私が誰かに助けられ、私が誰かを助けることは変わらないのだろう。
皆さんとのつながりに感謝です。








しばらくして、私は会社の再建を誓った男性に案内されて、女川の港を見て回った。小さい町だが、港湾関連の施設は充実していて、水産加工場もいくつもあった。

 その昔、水揚げされた鰹を加工した鰹節が名物だったことから、女川の水産加工品は鮭の切り身など、全国に出荷されるようになり、地元に人にとっての貴重な労働の場にもなった。

 ところが、それらの施設は津波で大きな被害を受け、素人の私が見ても以前の女川に戻るためにどれだけの時間と費用が必要になるのか、見当が全くつかない。

 港での取材を終えて避難所に戻ってくると、夕食の時間になっていた。日本人にとっては夕食時の香りでお馴染み、カレーがメニューで、ほのかな匂いがあたりには漂っていた。

 「みんなが食材を持ってきてくれてね。やっとカレーが食べられるのよ」

私にもそれは今まで避難所で見た中でも最高のご馳走だった。

 夕食のお邪魔をしてはいけないのでお暇しようとしていると、ある女性が「立花さんもカレー食べっていって」と勧めてくれた。

 貴重な食材を私が減らすことは出来ないと何度も固辞したのだが、先ほど港を案内してくれた男性が「食べていって。私達の気持ちだから」と優しい眼差しで言う。

 私は有り難い気持ちでご飯茶わんに大盛りになったカレーをいただいた。

 これは大げさではなく、人生で食べたカレーの中でもっとも美味しく感じられた。

 男性は私に「スタッフもみんな連れてきてカレー食べてもらって」とさらに勧めてくださった。

 カメラマンは正座しながらカレーを食べ、残ったカレーを指ですくい、茶わんをキレイにして返した。

 誰もが優しく謙虚な気持ちになれた夕食だった

 私はお腹よりも心がいっぱいになり、皆さんにお礼を言って避難所を後にした

 

 ふとカレンダーに目をやると、震災の発生から2週間が経っていた。

 この期間の経験は私の人生観を大きく変えた。

 

 被災地のあまりにも凄惨で、コトバに出来ない状況を目の当たりにして、自然の脅威と人間の無力さを痛感したこと。私達がいくら頑張って、人生の礎を築いてきても、天災によってそれはゼロになってしまう。頭では分かったつもりではあったが、自分自身がもう一度、自分の頭に叩き込み、その時に自分なら何が出来るかを考えるようになった。

 

 そして、一番大きい経験は被災者のみなさんの心、いや魂に触れ、取材している私がパワーをもらったことだ。

 人は絶望のどん底に突き落とされてしまった時に何を感じ、何を考えるのか。

 将来を悲観し、自分の運命を呪ってもおかしくはない。

 しかし、私が話をお聞きした人の多くから、希望のコトバが返ってきた。

 

 「何とかしなきゃ」

 「前を向かないと歩いていけないから」

 「コトバも前向きに使わないとね」

 

 それらの声は暗闇を照らすコトバの懐中電灯のように私には思えた。

 人は本当に絶望のどん底に突き落とされると、少しでも前を向こうとして、少しでも明るいコトバを使おうとする生物なのではないか。

 人間は素晴らしいと私自身が魂から実感したのも正直なところ、今回が初めてだったかもしれない。

 

 そして、もう一つ私が感じたこと。

真っ暗な避難所の中で、私には人の心の一つ一つがろうそくのともし火に見えた。

人が隣にいれば、人は何とかして生きていける。

そして、温かなコトバが間違いなく、そのともし火をより輝かせていたのだ。

 これらのともし火を消えさせてはならない。

 

 私達の生活は電気によってではない。魂のともし火によって支えられているのだから。(終)

 

 

 

 

 

 翌日のスタジオが終わると、私は再び女川に行くことになった。現地の漁業が受けた被害を具体的に取材するためだった。

 羽田空港に着くと、私の頭の中に昨日取材で出てきたコトバが浮かんだ。「歯ブラシ、お菓子」。あっ、そうだ。女川に着いたら、昨日の避難所に行き、皆さんに渡そう。そう決めた。

 空港の売店で東京のお土産のお菓子を買った。空港の売店には歯ブラシが無かったので、それらは山形で調達することにした。山形に到着すると近くのドラッグストアに行き、80本近い歯ブラシと歯磨き粉、さらには除菌ティッシュも買った。私が店員さんに「すみません。このお店の歯ブラシを買い占めてしまって」と言うと、被災地に向かうのが分かったらしく、「ご苦労さまです。気をつけて」と笑顔で送り出してくれた。

 

 そして、私は再び女川高校の武道場の中へと入っていった。手にはいっぱいの歯ブラシとお菓子を抱えて。

 前日、「歯ブラシ」と答えた小学生の姉弟が私を見つけて声をあげた。「あっ!」

 いったんは東京に帰ったはずの私が次の朝、再び避難所に来ていることの不思議さとともに、視線は手元の袋に向いた。

 「持ってきてくれたんですね」姉弟の母親が会釈してくれ、私は歯ブラシを見せた。

「すごい、やったね」子供達もとても喜んでくれた。そして、その場にいた何人かが私に大きな拍手を送ってくれた。

 さらに、昼食の準備をしていた、昨日、「お菓子が食べたい」と答えたご年配の女性にお菓子を持っていくと、「本当にありがとうございます」と何度も私の手を握った。

 私の行為は、はたから見ると偽善のように映ったかもしれないが、被災地で取材し、何も出来ない大きな無力感にとらわれていた私にとって、やっと自分が出来ることが目の前にあったのでやっただけだった。このような純粋な気持ちになれたのも、人生の大きな悲劇と直面している被災者の皆さんの苦悩に接し、私の中に自分自身の人生を考え直さなければならない、という気持ちが大きくなっていたからだ。

 

 歯ブラシとお菓子は私と被災者の皆さんの心の距離を少し縮めたようで、その後は打ち解けて話が出来るようになった。お菓子を私にリクエストした女性は故郷である女川のことを話してくれた。「本当にここはいいところでね。お魚が美味しいのよ。最高だね。立花さんはメロード知ってる?」

 

 メロードって何だろうと思っていると、隣にいた女性が「このぐらいの大きさかな」と指で示しながら、「あたたかいご飯と食べると本当に美味しいのよ」と教えてくれた。女川の地元の皆さんに愛されている魚だった。

 「家にいるでしょ。ポンポンポンて船の音が聞こえてきてね。海鳥の鳴く声もしてね。海の香りも漂ってきてね。何だか落ち着いてね」昔を振り返る彼女の顔は十代の少女のように見えた。

 「もしかして、文学少女だったのではないですか」私は聞いた。

 「何言ってるの。そんないいもんじゃないから。ただ、それだけ女川がいいとこだってことよ」女性は少し恥ずかしそうに胸を張った。

 「でも、全部流されちゃったからね。あの女川に戻るのに、どれだけ時間がかかるのかね」また、彼女の顔が寂しくなった。

 すると、また別の女性が通りがかりに声をかけた。

 「悩んでたって変わらないんだから。前を見なきゃ。」

 さらに、話を聞いていた水産加工の仕事をしていた男性が力強く宣言した。

 「あの女川を取り戻すために会社のみんなと話してるんだ。もう一度頑張ろうとね」

 前向きな沈黙が一瞬訪れた。

 

 「そういえば、女川は中村雅俊さんの出身地でしたよね」私は少し雰囲気を変えるために聞いた。

 「そうそう。雅俊君の家はすぐ近くだったよ。カッコよくてね。学生時代はギターを家で弾いてたけど、とにかく足が長くてね」

 私達はいろいろな女川の話に花を咲かせた。そして、いつの間にか、私の周りには何人かの住民が集まっていた。

 すると、一人の女性がこう言った。

 「オモシロイ・・立花さんはオモシロイね。」

 避難所でお話を聞いたわけで、私は大きな声はなるべく出さないようにしていたし、特にジョークを言ったわけでもない。ただ、皆さんの話が興味深くて、熱心に話を聞いていただけだ

 そのことを「オモシロイ」と評価してくださったのだろうか。私はとても嬉しくなった。(続く)

石巻の次に向かったのは隣の女川(おながわ)町だ。女川は小さな港町だが、漁獲量は全国で20位以内、水産加工でも知られている。

 女川は原発の町でもある。今回の震災で福島原発の放射能問題が連日報道される中、女川原発に避難所があり、そこで生活している人達に話を聞くのが目的だった。

 石巻での取材が午後3時過ぎに終わり、女川へと向かう。海沿いの道を走っているのだが、何か様子がおかしい。やけに潮位が上がり、道路に水があふれ出している個所もある。

通りかかった地元の方に話を聞くと、夕方は大潮の影響で再び浸水の恐れもあるという。津波で大きな被害を受けた上に、今度は満潮とともにあふれ出る海水。

 私達は浸水しかけている道路に万全の注意を払いながら、女川の町へと向かった。

私は少し前に取材で女川を訪れたことがある。小さな港町だが、海から続くなだらかな斜面に住宅があり、左右は山に囲まれている。人々の笑顔はとても温かく、私が理想とする故郷の姿がそこにはあった。

 しかし、その地形が津波の被害を拡大させることになる。湾に押し寄せてきた津波は左右の山に挟みこまれるように集中し、さらに勢いを増してなだらかな斜面を駆け上った。そして、そこで暮らしていた穏やかで優しい住民と家屋は一瞬にして流された。

 海からも近い高台にある市民病院。普段はそこが町民にとっての一番の緊急避難場所なのだが、今回の津波は病院の一階部分をも浸水させた。私は見晴らしの良い駐車場から女川の町を眺めた。

 

 私は本当にコトバを失った。眼下に広がる地面にはほとんど建物らしいものは見えない。全てが無くなってしまっている。少し前まで、その町には生活があった。人の息遣いがあった。愛や優しさと同時に憎しみもあったかもしれない。

 それらの痕跡もすべて消え去っているのだ。実は私はテレビのリポートでは「女川の町は壊滅的な被害で、」という表現を使った。確かに壊滅的ではあるのだが、漢字3文字では言い表すことが出来ないほどの惨状がそこには広がっていた。

 私は一瞬、それは巨大な映画のセットなのではないかと思った。おそらく、私の脳のメモリーにはこのような光景はインプットされておらず、私の脳自体も事態を把握出来なかったのではないかと思う。つまり、その光景を現実のものだと認識することが出来なかったのだろう。

 

 そして、満潮の時間を迎えて町のあちこちで冠水していたため、結局、女川原発へ行くことは断念し、私達は女川町内にある避難所へ向かうことにした。

 

 県立女川高校の武道場には70人ほどの方が身を寄せていた。着いたのが夕方であり、さらに電気がきていないため、武道場の中はほぼ真っ暗だった。暖をとるためのストーブのほのかな灯りが住民の表情をぼんやりと浮かび上がらせていた。みなさん、当然ながら疲れきっている。

 私は皆さんに何が足りないのかを聞いてみた。「衣類」「ガソリン」、そして小学生の姉弟は「歯ブラシ」と答えた。風呂に入るのが出来ない状況で、せめて歯くらいはしっかり磨いてさっぱりしたい。しかし、その歯ブラシが手元には無い。

 ある年配のご婦人は少し照れるように「私もレディーだから。甘いものがたまには食べたくてね」と小声で囁いた。隣の女性も「そうだな。あったかいコーヒーと食べたいな」と頷いた。

 その日、私は最終の山形発の飛行機で東京に戻らなくてはならなかった。翌朝の番組で女川の様子をスタジオで伝えることが決まっていたからだ。この時期、日本航空が臨時便を増発していたこともあり、私は午後7時過ぎに女川を出て、山形へと向かった。(続く)

 

宮城県石巻市。日本で有数の漁港を抱えるこの港町も津波は容赦なく襲った。

海に近い開けた場所に住宅が多かったこともあり、多数の家屋が流され、尊いたくさんの命が失われた。

 

 石巻日々(ひび)新聞。創刊100年を誇る地元密着のローカル紙。

3月11日の地震の直後、社にいた記者達は取材のため、市内各地へ飛び出した。ところが、その後に襲った津波で全員が安否不明となる。

 一人、二人と疲れた表情で戻ってくる記者達。中には津波に巻き込まれ、流されたが、たまたま近くに流されてきた漁船に乗り込み、ヘリコプターで救助された記者もいた。幸い記者は全員無事が確認された。そして、全員が現場に復帰し、取材活動を再開した。

 はたして、被災地のメディアはどのように状況を伝えているのか。宮城での私の最初の取材だった。

 

 石巻日々新聞社も海からそれほど離れていない住宅地の一角に位置するのだが、それほど建物には大きな被害は出ていない。社員の一人はこう説明する。

 「実は社の少し手前の道で、流されてきた大きなトラックが道をふさぐような形になり、津波による水流が直前で変化し、難を逃れたのです」

 何が運命を左右するのか、本当に分からない。

 

 新聞を印刷するためには輪転機を回すが、電気もきていなければ水道も使えない。その輪転機も水浸しの状態だ。

 その一方で、避難所では詳しい情報を一刻も早く入手したい人であふれている。地元に寄り添って作成している新聞だけに、社員達のジレンマも大きい。

 ふと思いついたのが、そう、壁新聞だ。記者達はまるで中学生にでも戻ったように手書きで情報を書きしるし、それを各避難所に貼ったのだ。

 やがて、コピーで新聞を印刷し、輪転機も使えるようになり、部数は少ないものの石巻日々新聞は復活した。

 社にはボランティアで新聞作りを手伝いますと申し出る市民もいた。

 テレビやラジオで20年以上に渡って仕事をしているが、あらためて、何かをしっかりと相手に伝える姿勢の原点を教えてもらった。

 社の幹部はこう胸を張った。「私達の仕事は伝えることですから」(続く)

 

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