立花裕人のFREEWAY

フリーキャスターで、作詞家としても活動する立花裕人のブログです!

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そうなのだ。福島原発から30キロほど離れた道を通っていた。原発の情報は私達にも届いていて、10キロ圏内には入ってはいけないという指示が東京から来ていたので、原発との距離を確認しながらの走行だった。

このあたりの自然は本当に美しい。なだらかな丘陵と川、とても時間がゆっくりと流れている気がした。「こんなところに故郷があったら、帰省したらのんびりするだろうな」と私は車の中で考えた。たくさんの人があの自然あふれる風景に癒されてきたことを思うと、福島原発の放射能の影響で地域に人が入れないという状況を想像するだけで残念でならない。私達は原発から10キロとか20キロという円を報道で目にするが、その円の中には素晴らしい自然が広がり、もちろんその自然と共生してきた住民の皆さんのたくさんの生活があったことを決して忘れてはならない。

車はやがて福島から宮城に入り、標識にも仙台の地名が見られるようになった。再び国道4号に戻ると、車は岩沼市、名取市、などの海に面した地区を走る。

岩沼市の田園地帯を走っていると、いきなり大きな沼のようなものが見えてきた。道路は一直線に走り、その左右に広がる広大な沼。

「ああ、津波がここまで押し寄せてきてね。昨日は膝くらいまで水に浸かってたなぁ」自転車で通りかかった人の良さそうなおじさんが教えてくれた。地図で見ると海までの距離は3キロほどある。あたり一面に今なお残る大量の水と流されてきた家屋の残骸が田んぼには残り、よく見ると車や死んだ豚までもが道路わきに見てとれた。

仙台市若葉区はすぐ先で、たくさんの方がお亡くなりになっているという情報は届いていたが、その先には警察による規制もあって行くことは出来なかった。

海の方角に目をやるとコンビナートでの火事が収まらず、すさまじい黒煙が雲と同化していた。こんなに恐ろしい夕暮れの光景を目にしたのも初めてだった。

 

その後も私達はとにかく岩手を目指した。なぜ、岩手か。すでに先発の取材チームが宮城には入っていたので、取材陣がまだ少ない岩手の現状を伝えることが大切だと東京のデスクは判断した。結果としてこの判断は正しく、私はこれから誰もしていない経験を積み重ねることになる。(続く)

絶望の中のともし火

   震災直後2週間の真実

                             立花裕人

  

 

 人生観が変わる出来事は人生においてはそう多くはおこらない。学生から社会人になった時、結婚した時、子供が生まれた時、もしくは大切な人を失ってしまった時。

 今年50歳を迎えようとし、さらには報道現場での取材経験が約10年になる私の人生観が2週間で変わるとは思ってもみなかった。そして、今でも信じられない。

 2011年3月11日の東日本大震災の発生から2週間の取材で、私の人生観は大きく転換した。

 私が見たもの、聞いたものとは一体何だったのか。あらためて記憶の糸を手繰りながら、

ここに記していきたい。

 すべては2011年3月11日の午後に始まった。

 

                

 「電車は緊急停車します」私が乗っていたJR中央線快速電車は千駄ヶ谷駅の近くで停まった。しばらくして車掌は車内アナウンスで「三陸沖で地震が発生しました」と乗客に告げた。車内で過ごした2時間、乗客がワンセグで見ているテレビのアナウンサーの緊迫した声が事態の重大さを感じさせた。

 千駄ヶ谷駅前のタクシー乗り場は長蛇の列。私は仕事の打ち合わせのために千葉に向かっていたのだが、車は数百メートル進むのにかなりの時間がかかっていて、地震の影響で高速道路も使えず、結局その日の打ち合わせはキャンセルになった。

 時刻は5時を過ぎ、多くの人がオフィスから自宅へと向かっていた。首都圏の電車はストップしていたこともあり、会社から自宅へ徒歩で帰ろうとしていた人もたくさんいた。

 私も7時間ほどかけて自宅に戻るのを覚悟していた時に、当時私がニュースリポーターを担当していたテレビ局のディレクターと電話が通じ、彼は私にこう言った。

 「立花さん、この後23時発のクルーが局を出発しますので、その車で盛岡に向かってください」

 この電話を受けた時、私は市ヶ谷駅の近くにいた。一時間半かけて、もちろん徒歩で局まで行き、予定通り23時過ぎに車は一路岩手を目指した。

 とにかく都心を抜けるにも一苦労だった。電車がストップし、首都高速が通行止めとなったため、移動手段は車か徒歩だった。大渋滞の国道に連なる車の列を横目にしながら、早歩きで自宅へと急ぐ人達が午前1時を過ぎても絶えない。

 東北自動車道が通行止めとなっていたため、私達は国道4号線を北上するルートを選択した。東京と青森を結ぶ日本でもっとも距離が長い4号線は、東北自動車道と並走している。東京から埼玉まではとにかく大渋滞で、オフィスから何とか家までたどり着こうとする人の姿がそこにはあった。

 埼玉から栃木に入ると、車窓の光景は一変した。車の数が減ったということもあるが、とにかく暗い。そう、栃木では停電で明かりが来ていないのだ。国道を本来なら照らしているはずの街灯も、信号も、家の灯りも全く見えない。車のヘッドライトだけが前方を照らしている。暗闇の中の走行は明け方まで続いた。

 周囲が明るくなると「那須」という地名が目に飛び込んできた。古い家の塀は倒れ、墓石が転倒していた。リゾート地として知られる栃木県の那須にも地震の被害は出ていた。      

その後、福島に入り、須賀川の町に入った時が最初の衝撃だった。商店街の多くの店舗に被害が出ていて、2階部分が一階に落ちてきている店もある。地震から一夜明け、親戚が集まって本家とおぼしき旧宅の修繕をしている光景も見てとれた。

須賀川から郡山、さらには国道4号線を宮城に向かったが渋滞がひどく、私達は4号線の東を走る349号線を北上することにした。手元の地図には三春、田村、相馬といった地名がある。(続く)

ジャズピアニストのアキコ・グレースさんと私でスタートさせた「ひまわりワルツプロジェクト」では、
昨年行われたアキコさんのライブ会場において、「被災地に色を届ける」目的で募金活動を行いました。
おかげさまで、85、423円の貴重なお金が集まりました。
今年1月終わりに福島県郡山市立朝日が丘小学校で「ひまわりワルツ音楽集会」が開催されましたが、
その際に私とアキコさんは朝日が丘小学校に何らかの「生活の色」を届けるため、皆様から集まった
お金を使わせていただくことを決めました。
当初はお花や絵の具、色鉛筆などを想定しての募金だったのですが、朝日が丘小学校が合唱に力を
入れている学校ということもあり、さらに音楽も生活の色であるという解釈から、子供たちが歌う際の
伴奏に使われるキーボードを贈呈させていただくことになりました。
大小3つのキーボードで総額は68、359円です。一時的に学校の先生に立て替えていただいている
ため、上記の募金よりキーボード代金と振り込み料を使わせていただき、残額は私が管理し、次回の
音楽集会が開催される学校に「色」を届けるために使わせていただきます。
あらためまして、募金にご協力いただいた皆様に感謝するとともに、今後の「ひまわりワルツプロジェクト」
へのご支援をよろしくお願いいたします。
 震災の取材後、私の人生観は大きく変わりました。そして、私なりに復興支援のために何が出来るだろうかと、真剣に考えました。
 
 私は学生時代から音楽が好きで、音楽関連のプロデュースは一つの夢でした。エフエム東京のパーソナリティをつとめるきっかけも音楽に深く関わりたいということからでした。
 その夢はここ数年で少しずつ叶い始め、沖縄の「しゃかり」や韓国の「シンヘソン」に詞を提供し、さらに数組のアーティストのプロデュースやコーディネートも今年になって本格的にスタートさせています。
 
 震災の取材後、久々に会うことになったのがジャズピアニストのアキコ・グレースさんでした。グレースさんは東京芸大、バークリー音大を卒業した素晴らしい才能を持つミュージシャンです。
 グレースさんとは何か復興支援のために音楽で貢献出来ないだろうかという話で盛り上がり、彼女がすでにリリースしている「ひまわりのワルツ」と「EARTH」に私が詞をつけることになりました。
 「ひまわりのワルツ」は空の上で踊っているひまわりをイメージした、とても可愛らしく、奥が深い名曲です。
私はその曲に、「ひまわりは今は咲いていないけれど、いつかは咲かせ、私達もひまわりのように太陽に向かって伸びていこう」という趣旨の詞をつけました。
 
 私達はこの曲を被災地のみならず、日本全国に広め、日本全体を元気にしたいという想いを込め、さらにライブ活動の募金で集まったお金を被災地に「色」を届けるために使うことに決めました。
 色はひまわりに代表される花もそうですし、被災地の子供たちのための絵の具や色鉛筆などを考えています。
津波によって生活の色彩を無くしてしまった地域に、少しでも色を届けるお手伝いが出来ればとの気持ちです。
 
 すでにグレースさんの東京と栃木の足利のライブには私も出演させていただき、今回のプロジェクトについての説明をし、皆さんからの賛同をいただいています。
 7月中には実力あるソプラノ歌手を招いてのレコーディングも決定していて、近いうちに皆さんにも「ひまわりのワルツ」を聴いていただけると思います。
 ぜひ応援してください!私達の生活が少しでも豊かになるように、これからも活動を続けていきます!
 
 東日本大震災がおきてから3週間以上が経ちました。
 私は発生の日から約2週間、岩手と宮城で取材にあたりました。東京に戻ってからすぐに、この場で
 私が見聞きしたことを書きたかったのですが、取材時の私が感じた衝撃があまりにも大きく、
 落ち着くまでに時間を要しました。

 震災直後の被災地はとにかくコトバにするのが困難なほどの状況でした。不謹慎かもしれませんが、
 私はこれは映画の巨大なセットなのでは、と自問したほどです。
 昭和36年生まれで戦争を経験したことの無い私の脳のメモリーでは、そこで見た光景を現実として
 認識すること自体が難しかったのでしょう。
 そして、壊滅してしまった多数の街や集落の中に人々の生活があったと想像するだけで、私の頭の
 中は真っ白になり、再びコトバを失いました。

 生活を一瞬にして失った皆さんがいる避難所にも伺いました。
 災害の取材で避難所に行くと、「お前ら、何しに来た!」と罵声を浴びせられることもあります。
 私が被災者の立場であれば、同じ行動を取るかもしれません。
 ところが、この震災の取材では私はまったくそのようなことを体験しませんでした。

 避難所の入口であった中年の女性は、「東京から?まぁ、遠くから来てくれてぇ。ご苦労さまだねぇ」
 とお辞儀までしてくださいました。
 避難所の中は当初は電気のないところが多く、、石油ストーブの灯りに浮かびあがる住民の
 顔には一瞬にして苦悩と憔悴を見てとれました。
 私もストーブの前に座らせていただくと、皆さんが自分自身のことをぽつりぽつりと語ってくれます。

 「父ちゃんがまだ見つからなくてね。」
 「何もかも無くなっちゃったからねぇ。」
 「漁にも出られねぇし、どうやって生きていったらええかね?」

 私にもちろん適切なコトバなど浮かぶはずもなく、私はただうなずき、皆さんのコトバを受け止める
 ことが精一杯の出来ることでした。

 人生をかけて築いてきたものが一瞬にして失われた時、自分ならどうするだろうか?
 これも私の脳のメモリーにはもちろんありません。
 その答えと思われるものは被災者の皆さんから発せられました。

 「父ちゃんがいなくなって、一人でここ(避難所)に来て、最初は泣いてばかりだったんだ。
 でも、失ったものは返ってこねえから。前を向かなきゃと思うようになって。」
 「ずっと一人で泣いてたんだけど、みんな同じだから。絶望のどん底だけど、何とか前向きの
 コトバを使わなくちゃね」
 
 暗い避難所でもなぜか、みなさんは明るいコトバであいさつを交わしていました。
 「おはよう」 「元気ださなきゃな」
 そのコトバがふと相手の表情を和ませていたのです。
 
 絶望の中にいながら、何とか明日を見つめようとするみなさんのお手伝いは出来ないだろうか、
 私はそのためにはみなさんが私に教えてくれたことをコトバにして伝えていき、さらには
 みなさんにより大きな希望を与えられるメッセージを発したいと心に誓いました。
 
 寄り添う人の心の温かさが、暗い避難所を照らすろうそくのともし火のように見えたのも
 私には初めてのことでした。
 
 
 
 

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