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2、人間復権の機軸
第二に「人間復権の機軸」という視点であります。これを平易に言うならば、再び宗教の時代が叫ばれる今こそ、はたして宗教をもつことが人間を強くするのか弱くするのか、善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか、という判断を誤ってはならないということであります。
社会主義諸国の崩壊により、マルクスの権威は地に堕ちた感があるとはいえ、彼の宗教阿片説が全く無意味であったとはいえません。洋の東西を問わず、復活しつつある、もろもろの宗教が、阿片的側面をぬぐい去っているとはとうてい言えず、先にテキサス州銃撃事件を起こした教団などは極端な例でありますが、世紀末の"神々"の中には、相互依存と文化交流の進展を逆行する閉鎖的、独善的なものも多いようであります。
そのためにも、私は仏教で言う「他力」「自力」と ――キリスト教流に言うと「恩寵」「自由意志」との問題になると思いますが、その両者のバランスの在り方を改めて検証してみたいのであります。
ヨーロッパ主導の中世から近代への流れを、大まかに俯瞰してみれば、物事の決定権がもっぱら神の意志にあった、神中心の決定論的世界から、その決定権が人間の側に委ねられ、自由意志と責任の世界へと徐々に力点が移行してくる過程であります。いってみれば、「他力」から「自力」への主役交代であります。
それは、確かに科学技術を中心に大きな成果を積み上げてきましたが、同時に、その理性万能主義が、人間が自力ですべてを為しうるという思いあがりを生み、現代文明を抜きさしならぬ袋小路に追い込んでいることは周知の事実であります。
かつての他力依存が人間の責任の過小評価であるとすれば、近代の自力依存は人間の能力の過信であり、エゴの肥大化であります。袋小路の現代文明は、自力と他力の一方へ偏重するのではなく、今や「第三の道」を模索しているといえるのではないでしょうか。
その点「自力も定めて自力にあらず、他力も定めて他力に非ず」( 「一代聖教大意」御書403頁)と精妙に説く大乗仏教の視点には、重要な示唆が含まれていると思います。そこでは2つの力が融合し、両々相まって絶妙のバランスをとっていくことが慫慂(さそい勧める)されているからであります。
少し立ち入って述べれば、かつてデューイは 「誰でもの信仰」を唱え、特定の宗教よりも「宗教的なもの」の緊要性を訴えました。なぜなら、宗教がともすれば独善や狂信に陥りがちなのに対し、「宗教的なもの」は「人間の関心とエネルギーを統一」し、行動を導き、「感情に熱を加え、知性に光を加える」。そして「あらゆる形式の芸術、知識、努力、教育と、働いた後の休息、親しい交わり、友情と恋愛、心身の成長、などに含まれる価値」(魚津郁夫編 『世界の思想家20デューイ』 平凡社)を開花、創造せしむるからであります。
デューイは他力という言葉は使いませんが、総じて「宗教的なもの」とは、善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な生き方を鼓舞し、いわば、あと押しするような力用といえましょう。まことに「"宗教的なもの"は、自ら助くる者を助くる」のであります。
近代人の自我信仰の無残な結末が示すように、自力はそれのみで自らの能力を全うできない。他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全に働く。しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである―― デューイもおそらく含意していたであろう、こうした視点こそ、宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺であると私は思うのであります。
私は、仏教者に限らず全宗教者は、歴史の歯車を逆転させないために、この一点は絶対に踏み外してはならないと思います。そうでないと、宗教は、人間復権どころか、再び人間をドグマや宗教的権威に隷属させようとする力をもつからであります。
その点、コックス教授が私どもの運動を「ヒューマニズムの宗教の方向を示そうとしている」として注目してくださっていることに深く感謝申し上げます。
仏典には「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念 念に起るなり」(「御義口伝」 御書790頁)とあります。仏教は観念ではなく、時々刻々、人生の軌道修正を為さしむるものであります。 "億劫の辛労を尽くす"とあるように、あらゆる課題を一身に受け、全意識を目覚めさせていく。全生命力を燃焼させていく。そうして為すべきことを全力で為しゆく。そこに、「無作三身」という仏の命が瞬間瞬間、湧き出してきて、人間的営為を正しい方向へ、正しい道へと導き励ましてくれる。
法華経には、しばしばドラムやトランペットのような楽器が登場するのも、それらの響きが生きんとする意志への励ましであるとすれば、よく納得できます。そして、その仏の命の力用が、「君よ、強くあれ。君よ、善くあれ、賢明であれ」との、人間復権へのメッセージであることは申すまでもありません。
3、万物共生の大地
第三に「万物共生の大地」という視点を申し上げたい。法華経には数々の譬喩が説かれておりますが、その中に、広大なる大地が等しく慈雨に潤い、大小さまざまな草木が生き生きと萌え出ずる描写があります。一幅の名画を見るように雄大にしてダイナミック、いかにも法華経らしい命の躍動は、直接的には、仏の平等大慧の法に浴して、すべての人々が仏道を成じていくことを示しています。
しかし、それにとどまらず、人間並びに山川草木に至るまでが、仏の命を呼吸しながら、個性豊かに生を謳歌している「万物共生の大地」のイメージを、見事に象っているように思えるのであります。
ご存じのように、仏教では「共生」を「縁起」と説きます。「縁起」が、縁りて起こると書くように、 人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。すなわち、事象のありのままの姿は、個別性というよりも関係性や相互依存性を根底としている。
一切の生きとし生けるものは、互いに関係し依存し合いながら、生きた一つのコスモス(内的調和)、哲学的にいうならば、意味連関の構造を成しているというのが、大乗仏教の自然観の骨格なのであります。
かつて、ゲーテは『ファウスト』で「あらゆるものが一個の全体を織りなしている。一つ一つがたがいに生きてはたらいている」(大山定一訳、『ゲーテ全集』2所収、 人文書院)と語りました。この仏教的ともいうべき知見を、若き友人エッカーマンは「予感はするが実証がない」( 『ゲーテとの対話』 下巻、 神保光太郎訳、 角川文庫) と評しましたが、その後、百数十年の歳月とともに、かのゲーテの、更には仏教の演繹的発想の先見性をうかがわせつつあるようです。
因果律を例にとれば、縁起論でいう因果律は、近代科学でいう、人間の主観から切り離された客観的な自然界を支配している機械論的因果律とはおよそ異なり、人間自身を含む広義の自然界に渉っております。
例えば、ある災害が起こったとする。その災害がどのようにして生じたのか。その一定の原因究明は、機械論的因果律で可能でしょう。しかし、そこには、なぜ自分がその災害にあったのかといった類の問いは、決定的になじまない。むしろ、そうした実存的問いを切り捨てたところに成り立つのが機械論的自然観であります。
仏教で説く因果律は「何に縁りて老死があるのか。生に縁りて老死がある」( 『仏教の思想』1、増谷文雄・梅原猛 角川書店)との釈尊の原初の応答が示しているように、そうした「なぜ」という問いを真正面に受け止めているのであり、「一念三千」論のように、近代科学とも十分に整合性をもつ、雄大にして精緻な論理を展開しているのであります。
時間の関係で詳論はいたしませんが、現代の生態学、トランスパーソナル心理学、量子力学等は、それぞれの立場で、そうした仏教的発想と親近しつつあるように思えてなりません。
さて、関係性や相互依存性を強調すると、ともすれば主体性が埋没してしまうのではないかと思われがちでありますが、そこには一つの誤解があるようです。仏典には、「己こそ己の主である。他の誰がまさに主であろうか。己がよく抑制されたならば、人は得難い主を得る」。「まさに自らを熾燃(=ともしび)とし、法を熾燃とすべし。他を熾燃とすることなかれ。自らに帰依し、法に帰依せよ。他に帰依することなかれ」(『真理の花たば 法句経』宮坂宥勝 筑摩書房)等とあります。
いずれも、他に紛動されず、自己に忠実に主体的に生きよと強く促しているのであります。ただ、ここに「自ら」「己」というのは、エゴイズムに囚われた小さな自分、すなわち「小我」ではなく、時間的にも空間的にも無限に因果の綾なす宇宙生命に融合している大きな自分、すなわち「大我」を指しております。
そうした「大我」こそ、ユングが「自我(エゴ)の奥にある 」大文字の「自己(セルフ)」 と呼び、 エマーソンが「あらゆる部分や分子が平等に結びつく普遍的な美、永遠の『一なる者』」(『エマソン論文集』 酒本雅之訳、 岩波書店)と呼んだ次元と強く共鳴し、共振し合いながら、来るべき世紀へ「万物共生の大地」を成していくであろうことを、私は信じて疑いません。
それはまた、ホイットマンの大らかな魂の讃歌の一節を想起させるのであります。
わたしはふり向いてあなたに呼びかける、「おお、魂よ、あなたこそ本当のわたし」、するとあなたは、何とまあ、いとも優しげに一切の天球を配下におさめ、あなたは「時間」の伴侶となり、「死」 に向かっては満足の微笑を投げかけ、そして「空間」の広大な広がりをくまなく満たし、たっぷりと膨脹させてみせる (『草の葉』 鍋島能弘 酒井雅之訳、 岩波文庫)
大乗仏教で説くこの「大我」とは、一切衆生の苦を我が苦となしゆく「開かれた人格」の異名であり、 常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げるのであります。こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる「近代 的自我」の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平があるといえないでしょうか。そしてまた、「生も歓喜であり、 死も歓喜である」という生死観は、このダイナミックな大我の脈動のなかに、確立されゆくことでありましょう。
日蓮大聖人の「御義口伝」には、「四相 (=生老病死)を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」( 御書740頁)とあります。21世紀の人類が、一人一人の「生命の宝塔」を輝かせゆくことを、私は心から祈りたい。そして、「開かれた対話」の壮大な交響に、この青き地球を包みながら、「第三の千年」へ、新生の一歩を踏み出しゆくことを、私は願うものであります。
その光彩陸離たる「人間と平和の世紀」の夜明けを見つめながら、私のスピーチ とさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。
(以上)
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【仏教真理・因果の壊れと中道説】
【哲】
過去(原因)など, 未来(結果)など, 今しか, 事しか存在し得ない。
原因が結果を生むのは事を物として捉え法則化した場合, 即ち【己意志】の信仰のある場合に成り立つのであって, 無限の物質が事を確定することはないし, 抑事が何かを知り得ない以上それを再び起こす再現性などあり得ない。
ただ全容を確定するのは是の裏側の【絶対無】である。
即ち法則とは⇒【絶対的意思】の信仰の道具である。
《『私は物質にも, 創造主(神)にも支配されてはいない。私は認識した物を肯定しつつ, 否定的なのであり, さらに言えば私が唯一質(事)を物として捉え造り出せる。だから己が支配を受けていると言う妄想と祈りの信仰よりも, 宗教・思想よりも尊いのは, 生きやすい【考え方】だと知っている。如何なる方法も否定は出来ない。それが生きると言うことなのだ』真・釈迦‐中道説より》
2010/1/22(金) 午前 2:06 [ 創価班 ]
…如何なるものも信じているから成り立っている。俺自身は宗教は大嫌いで、哲学とこれを基礎とする科学さえあれば、人類に宗教という最も劣悪な信仰は要らないと思う。尤も道徳的教義は必要だが、あくまで信じているからこそ相手が物か人か、はたまた両方をもつの対象なのである。
宗教こそが最も有害で、哲人はこれを粉砕し、想定される万人の自由の釣り合いを確保する為に、如何なる方法も講じなければならない。この考え方が柔軟でありつつも厳格である法哲学(ほうてつがく)の根源であり、当然だが、己意志の望みが一指導者の思想の忠実なる再現である宗教信者が国家の要職に就くことは思想の犯罪であり、これは市民に阻止する権利がある。従って教育はある程度中立な哲学者と科学者が共同で指導に当たらなければならないし、偏向の著しい思想家・宗教家は教育の場から除かれるべきである。
我々創価班は、哲人(てつじん)の考え方を説かれた池田大作先生に共鳴し、全宇宙から信仰を除くことを望んでいる。
君もそうであろう?
2010/1/22(金) 午前 2:08 [ 創価班 ]
はじめまして。
いきなりですが、この講演を転載させていただきます。
よろしくお願いします。
2010/1/27(水) 午後 6:48 [ kurahashi ]
了解です。
2010/1/27(水) 午後 7:47 [ revo2009 ]
きょうは、トランペットとドラムのジャズのCDを購入しました。法華教にトランペットとドラムがあるんですね。
2015/10/11(日) 午後 7:54 [ まりこ ]