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(前記事よりの続き)
【朝鮮半島は日本の生命線】
その日本が、もっとも恐れていたのが、領土野心に燃えるロシアの南下であった。
当時のロシアは不凍港(ふとうこう)を求めて、朝鮮半島を狙っていたのです。ロシアは領土は広大であったが、冬になるとすべての港が凍ってしまう。そこで不凍港を求めて朝鮮半島に南下して来たのです。
もし朝鮮半島がロシアの手に落ちれば、次は日本が侵される。ゆえに朝鮮半島こそ日本の生命線であった。そこで日本は、ひたすら朝鮮の自主独立を望んだのです。
【日清戦争】
当時の朝鮮は、中国大陸の「清(しん)」という国の属国になっていた。この清は大国ではあったが、自国の領土保全もままならぬ老廃国たった。だからもしこの清に朝鮮を任せて放置すれば、必ず朝鮮半島はロシアに領有されてしまう。
そこで日本は、何とか朝鮮が独立を保(たも)ったしっかりした国になってくれるようにと、明治九年に「日朝修好条約」を結んだのです。その条約の第一条にはこうあった。
「朝鮮は自主独立の国であり、日本と平等の権利を有する」と。
この修好条約が結ばれたことにより、日本と朝鮮の双方に喜ぶべき状況が生まれたのです。
ところが、日本を小国と蔑(あなず)っていた清国は、あくまでも朝鮮を属国にしようとして、口実をもうけて朝鮮に出兵してきた。そこで日清戦争が始まったのです。
どちらが正義であるかは一目瞭然でしょ。日本は「朝鮮を独立させたい、何とかしっかりした国になってもらいたい」との目的しかない。清国は「属国になれ」ということですよ。どちらに正義があるかは明らかであります。
当時、清国は老廃国ではあったが、世界からは「眠れる獅子」といわれ、小さな日本と比べればたいへんな強国だった。そこで勝つことは難しいと思われていたのです。
だが、日本が勝った。そして日本はその講和条約において、清国にはっきりと、朝鮮を独立国として認めさせた。日清戦争の目的はここに達成されたのです。これが明治二十八年のことであります。
【日露戦争】
そしてこの九年後に、日露戦争が始まる。
清国が朝鮮半島から手を引いたあと、こんどは最も恐ろしいロシアが、朝鮮半島に南下して来たのです。
ロシアは対馬の正面に位置する巨済島にまで要塞を築こうとした。日本はこれを何とか中止させようと、必死の抗議を重ねた。しかし日本を軽視していたロシアは抗議を全く無視した。
もし巨済島に要塞が設けられたら、日本は存立の危機に陥る。ここに、自衛のためやむなくロシアと戦わざるを得なくなったのであります。
当時のロシアは、世界最強の大国だった。とうてい勝ち目はない。だからこの宣戦布告を決する御前会議で、明治天皇は落涙されている。「勝つ見込みのない戦争だが、戦わなければ日本は亡びる。もし負けたら皇祖・皇宗に対し、そして国民に対し・・・」――この悲痛な思いが、涙となったのでありましょう。世界各国も、日本は必ず負けると思っていた。
【小国日本が勝った】
だが、日本の陸軍は奉天の会戦で、あのコザック騎兵で有名な世界最強のロシア陸軍を打ち破ったのです。日本の司令長官は大山巌元帥であった。
また海軍は日本海海戦において、これも世界無敵といわれたロシアのバルチック艦隊を潰滅させた。日本海軍連合艦隊の東郷平八郎司令長官は、戦闘開始に当って旗艦「三笠」のマストに、Z旗の信号を挙げた。
「皇国の興廃この一戦に在り、各員いっそう奮励努力せよ」と。
まさにこの一戦こそ、日本の命運を賭した一大海戦だったのです。
当時の日本は明治天皇のもと、政治家も、官僚も、軍人も、国民も、みな「お国のためなら」と命を投げ出していた。いまの腐敗堕落、魂のぬけたような日本とは天地雲泥であった。
この日本の勝利は、全世界を驚嘆させた。何しろ、アジアの有色人種の小国が、世界最強の白人国家・ロシアを打ち破ったのだから、まさに驚天動地だったのです。
これが世界にどんな影響を与えたかというと、日露戦争以降、白人の植民地は世界で一つも増えていない。まさしく白人による世界植民地争奪戦は、コロンブス以降四百年にして、ここに完全に挫折したのであります。
【日中戦争】
次に、いま中国がもっとも重視している日中戦争について述べます。
中国は「日本が侵略した、侵略した」と盛んに宣伝して、日本人の心に自虐史観を刷り込んだが、この戦争はどうして起きたのであろうか。
その発端が「盧溝橋(ろこうきょう)事件」であったとすることは、日中両国の共通認識です。
だから中国は、盧溝橋のすぐ傍に広大な「中国人民抗日戦争記念館」を建て、日本軍の残虐ぶりを写真や人形で示し、この日本兵と戦って中国人民を守ったという中国共産党軍の「雄姿」なるものを宣伝しております。しかし実際は、日本軍は蒋介石の率いる国民党軍とは戦ったが、中国共産党軍とは戦っていないのです。つまりこの展示は、中国人民に日本への敵意を懐かせることを目的にした捏造なのです。
しかし、訪中する日本の政治家のほとんどはここを訪れる。いや訪れさせられるのです。歴代総理の多くもここを訪れ記帳しては、謝罪の意を表わしております。
では、この盧溝橋事件というのはどういうものかというと――昭和十二年七月七日の夜、廬溝橋付近において、条約に基づく国際平和部隊の一部として駐屯していた日本軍の一箇中隊に対し、何者かが発砲したという事件であります。
そして中国は、この事件を、日本が侵略戦争を開始するために自ら仕組んだもの、これが侵略の始まりだといっているのです。
【盧溝橋事件の真相】
だが近年になって、重大な事実が明らかになってきた。それはこの事件が、実は中国共産党が仕組んだ罠であったということです。
当時の中国は、蒋介石(しょうかいせき)が率いる中国国民党と、毛沢東(もうたくとう)の率いる中国共産党の二大勢力が中国大陸で激しく争っていた。そして毛沢東の中共軍は蒋介石の国民党軍に完膚なきまでに叩き潰され、十万の兵力がわずか六千にまで減り、命からがら延安(えんあん)まで逃げのびたのです。
この逃避行が中国共産党でいうところの「大長征(だいちょうせい)」です。
「大長征」といえば格好いいが、実のところは命からがら逃げのびたのです。
この中国共産党が勢力挽回・起死回生の策として考え出したのが、国民党軍と日本軍とを戦わせて漁夫の利を得ようとするものだった。―その謀略こそが、盧溝橋事件だったのであります。
謀略はこのように実行された。中国共産党のスパイが国民党軍の中に入り込み、まず日本軍に発砲した。さらに国民党軍に対しても発砲した。
双方とも相手が攻撃したと思い込み、やがてこれが全面戦争にまで発展していったのです。
このことは、中国共産党の教科書といわれる「戦士政治課」の中に、「劉少奇(りゅうしょうき)指揮のもとに抗日救国青年隊が、中共の指令に基づいて実行した」と記されているし、
また日本側でも、事件の直後、中共軍司令部に向けて「成功せり」という緊急電報が打たれたのを傍受したという証言が出ている。まさに日本軍は盧溝橋事件に「巻き込まれた」のであります。
【コミンテルンの謀略】
だが、盧溝橋事件には、その背後にさらに大きな謀略が潜んでいた。それがコミンテルンの指令、すなわちソ連首相・スターリンの謀略であります。
コミンテルンとは、ソ連が結成した国際共産主義の組織です。
ソ連という国は、日ロ戦争に敗れた帝政ロシアにおいて、レーニン等が共産革命を起こして作った国ですが、レーニン等は、共産主義の革命団体を世界中に作り出し、そのすべてをモスクワの指令によって動かし、各国の内部を混乱に陥れて共産革命を世界に広げることを企てていた。かくて結成されたのがコミンテルンです。そしてこのコミンテルンの指令は、各国の共産主義団体に対し、絶対の権威を持っていたのです。
コミンテルンはロシア革命の立役者・レー・ニンによって一九一九年に結成され、その後、スターリンがこれを引き継いだ。
スターリンは共産主義の水門を大きく世界におし広げ、結果、三つの大陸に十三の共産主義国家を誕生させ、人類の三分の一以上を共産化することに成功したという政治的天才であり、謀略と残忍性を兼ね備えた、史上稀に見る奸物(かんぶつ)であります。
彼は冷酷無比な血の粛清、その犠牲者は数百万人にもおよぶが、その粛清でソ連国内を震え上がらせると共に、ソ連の国益を求めて国際的な謀略を駆使したのです。
当時のソ連は、ドイツのヒトラーとの戦争に備えていた。この戦争を有利に進めるには、ソ連の東部国境の満蒙に配置されている日本の精鋭・関東軍を無力化する必要があった。そのため、日本軍と蒋介石が率いる国民党を戦わせることを、スターリンは謀ったのです。
この戦略が成功すれば、国民党軍に追われて延安まで逃げ、全滅に近い状態になっている毛沢束の中国共産党をも救うことになる。そこでコミンテルンは中国共産党に、「国民党と妥協し、日本軍と戦え」との指令を発した。
(続く)
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