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第三に申し上げたい「智慧」のメッセージは、「"智慧"よく"知識"を活かす」という価値創造の道であります。
貴大学で、最先端の学問を修得なされた皆さまの姿に、私は、カピラバストゥの城で、学びに学んだ釈尊の青春を想起するのであります。
若き王子たる釈尊は、天文学・医学・法律学・財政学・文学・芸術等々、あらゆる学問に取り組みました。
「他人を苦しめるような呪法を学ばず、すべての民のためになる知識を学べ」――これが、釈迦族の帝王学だったのであります。
私が感嘆するのは、人々の苦悩を救いゆく釈尊の一生にあって、青年時代までの学問が、ことごとく活かされているという事実であります。
だからこそ釈尊は、王にも、農民にも、当時、勃興しつつあった商人層にも、「随宜説法(機根にしたがって法を説く)」「応病与薬(病気に応じて薬を与える)」というように、それぞれにふさわしい譬喩や道理を駆使しながら、法を説くことができたと思うのであります。
「核」と「遺伝子」に象徴される現代の科学知識の発展は、それを人類全体の幸福のために使うか、それとも個人や民族や国家のエゴのために使うかを、今、厳しく問われております。
いまだに、核抑止論という自らつくった"恐怖の均衡"政策から脱却もできない世界の現状は、残念ながら、エゴを克服できないまま、暴力、武力等に屈服している哀れな、悲しい姿といわざるをえません。
釈尊の遺誡に、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(「曾谷入道殿御返事」御書1025頁)とあります。
心に渦巻く煩悩(暴力性や貪欲性)に左右されず、支配されず、またそれを無理やり消滅させるのでもない。自らが「心の師」となって、煩悩をも価値創造の方向へリードしていきなさい、との教えであります。
その「心の師」となるのが、人間生命の内奥より薫発されゆく「智慧」なのであります。そして、この「智慧」は、人間のために、民衆のためにという「慈悲」の泉があって初めて、限りない作用があることを知らなければなりません。
2. 慈悲の大海
次に、 釈尊の人格を構成するもう一本の柱は「慈悲の大海」の姿であります。
慈悲の第一のメッセージは、「人類の宇宙的使命は慈悲にある」という使命論であります。
釈尊にとって、まさに「宇宙は慈悲の当体」であり、自らの振る舞いは、その慈悲の体現でありました。
宇宙の森羅万象は、一切が「縁起」、すなわち、縁りて起こっている。お互いに支え合っているがゆえに、何ひとつ無駄なものがない。また意味がないものはあり得ないというのであります。
その相互依存の「糸」を活用して、宇宙は生命を育み、この地球上には、人類をも誕生させたわけであります。
仏法では、現代天文学の知見とも一致して、この大宇宙の他の天体にも、知的生命が活躍していると論じております。
まさしく、宇宙それ自体が創造的生命体であり、尊い慈悲の顕在化であると見ることができるのであります。
釈尊は、生まれ故郷である貴国を目指していたとも推察される"最後の旅"の途上、訪れた町で豊かに生い茂る木々を見つめながら、繰り返し、「楽しい」「楽しい」 、「美しい」「美しい」との感慨を漏らしておりました。
生涯、広大な大地を歩きに歩き、民衆救済の平和旅を貫いた釈尊の慈悲が、宇宙生命の永遠なる慈悲の律動と共鳴していた姿であると私は信ずるのであります。
翻って、近代が直面している一番大きな課題は、「生きる意味の喪失」であります。
何のために生きるか。人間とは、一体、何か、人間は何のために生きるのか――。
生きる「意味」を見失った現代人は、「意味への渇望」に身を焼きながら、社会からも、自然や宇宙からも孤立し、疎外感のなかを、さまよい続けております。
仏法の慈悲論は、この地球上に誕生した人類の使命は、宇宙の慈悲の営みに参画し、その創造のダイナミズムを高めつつ生き抜くことにあると明示しております。
つまり、万物を育み、繁栄と幸福に導く慈悲の行動こそ、宇宙より人類に託された使命であり、この使命の自覚と達成にこそ、「生きる意味」があると釈尊は呼びかけているのであります。
このような慈悲論は、今日において、一人一人の人間を尊重しゆく「共生の文化」を養い、地球環境と共栄しゆく「自然観」を培っていくことでありましょう。
そして、更には、「分断」から、「結合」へ、「対立」から「融和」へ、そして「戦争」から「平和」へと人類史を軌道修正させゆく、菩薩道の行動を促してやまないのであります。
釈尊の慈悲が送る第二のメッセージは「ヒマラヤのごとく悠然と」であります。
すなわち、確立された「不動の自己」こそが、大慈悲の基盤となるからであります。
一切衆生を潤す釈尊の慈悲の大境涯は、まさしく、嵐があろうと何があろうと厳然として微動だにもしない、ふるさと「ヒマラヤ」の秀峰をほうふつさせております。
「善き人たちは、雪の山(=ヒマラヤ)のように、遠くから輝かせる。だが、悪しき者たちはここにあっても見られない。夜放たれたもろもろの矢のように」(宮坂宥勝 『真理の花たば法句経』 筑摩書房)と述べているように、釈尊が目指した理想の人間像とは、白雪をいただきながら、いつも悠然とそびえ立つヒマラヤの不動の姿がイメージされていたにちがいありません。
多くの識者が指摘するように、自由や平等が主張されると、良い意味でも悪い意味でも社会は変動常なき状態に置かれます。
そうであればあるほど「不動の自己」が確立されないと、他人と比較することばかりに気をとられ、知らずしらず嫉妬や怨嫉という情念に支配されてしまうのであります。
ゆえに、こうした縁に紛動されぬ「不動の自己」は、いつの時代にあっても、社会に安穏をもたらす原点であります。
そして、現代ほど、その原点の要請が重要なときはないと感じるのは私一人ではないと思うのであります。
だからこそ、「自らを依所とし、 法を依所とすべし」という釈尊の弟子への遺訓は、そのまま、宇宙究極の法と一体化した「不動の自己」(大我)へと導く、人類への遺訓であるといえないでしょうか。
最後に、第三の慈悲のメッセージは、「自他ともの幸福を目指せ」という行動論であります。
近代人権思想の勝ち取ってきた最大の遺産が「個」の尊厳であることは論をまちません。しかし、この問題は、制度的な保障だけですむものではない。
それどころか、現代人は、自らの主張にのみ専念するあまり、他者の存在を見失い、その結果、肝心の自分自身の依って立つ基盤さえぐらついてしまっているのであります。
他者と自身の関係性を、釈尊は次のような言葉で表現しております。
人はおのれより愛しいものを見出すことはできない
それとおなじく他の人々にも、自己はこのうえもなく愛しい
されば
おのれのこよなく愛しいことを知るものは
自愛のために、 他のものを害してはならない
(増谷文雄 『仏陀のことば』 角川書店)
人間、「自分」ほど大切なものはない。 ゆえに、「我が身に引き当て」、「他者」を大切にすべきである――まことに無理のない自然な語り口のなかで、相互に「他者」の存在、相手の立場に立ち、共感することこそ慈悲の第一歩であると釈尊は説いているのであります。
孤独な現代人の心の病を癒す「良薬」は、ここに求める以外にないと思うのは私だけではないでありましょう。
釈尊は、成道してから、その法を人々に説こうか、説くまいか、大いに躊躇し、葛藤しております。
説けば必ず、無理解な批判や迫害が沸き起こるであろう。あえて人に語らず、自分一人で、静かに法悦を味わってもよいのではないか……。
皆さま方のほうがよくご存じと思いますが、仏伝によれば、この逡巡する釈尊の前に、梵天(ブラフマン)が現れ、「前進か後退か」「幸福か不幸か」「栄光か悲惨か」、そうした分岐点に立たされている人々のために、ぜひとも、教えを説くよう懇請したといわれております。
この「梵天の勧請」が、釈尊の「自己」の中に「他者」を復活させ、自他ともの崩れざる幸福へと進みゆく、真の「仏」の誕生の契機となったとされているのであります。
「一切衆生の病むがゆえに我病む」
釈尊の心の中には、常に、生老病死の苦悩に喘ぐ民衆の呻き声が響いておりました。時を超え、国を超え、釈尊は、こう呼びかけているのであります。
「汝の心のうちに『他者』を復活し、自他ともの幸福を満喫せよ」 と。
ゆえに、13世紀の日本の日蓮も、「法華経」を解釈しつつ、「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」( 「御義口伝」御書761頁) ――自他ともに、智慧と慈悲をもっているのが、本当の「喜び」である――と応えているのであります。
それは「第三世代の人権」、すなわち「平和な国際秩序」と「健全な地球環境」を創出しゆく「連帯権」にも通じていると、私は思うのであります。
こうした人間主義の連帯こそが、それぞれの国に個性豊かな繁栄を築きながら、人類全体の栄光を開きゆく光源となるでありましょう。
使命深き皆さま方が、大鵬のごとく、智慧と慈悲の翼を広げ、「平和と生命尊厳の21世紀」へ飛翔されゆくことを、私は念願し、また確信する次第であります。
結びに、皆さま方のこれからの人生が、「希望」と「健康」と「幸福」に包まれゆくことを心から祈りつつ、私の大好きな貴国の詩人ギミレの雄渾なる「青年よ」の一節を申し上げ、私の祝福のスピーチを終わらせていただきます。
夜明けの光が雪の山頂を照らし
清新な活力が
英雄の腕に湧き出ずる
おお青年よ
その朝日の光の矢をたぐり寄せ
君が触れることによって
新しい波を起こしたまえ
そして君の指で
世界を覚醒させたまえ
新たな躍動の世界へと
ご清聴、 ありがとうございました。
ダンニャバード (ありがとうございます)。
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