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パートナー・シップといったところで、そうした精神面での裏打ちがなされていなければ、所詮、絵にかいた餅に終わってしまうでしょう。
また、それを欠いたがゆえに、近代日本は、ある時は外国に対していたずらに自らを卑下したり、そうかと思うとGNP大国など些細なことで傲りたかぶったりして、不信と過信との間を揺れ動いてきました。
一言にしていえば、自己規律の哲学を欠いているのであります。
その無残なカタストロフィー (破局)が、今年でちょうど50年目を迎えた、かの真珠湾攻撃であったことを、私は深い胸の痛みとともに思い起こすのであります。
ちなみに『武士道』といえば、この小さな本が、日露戦争終結のためのポーツマス会談で、なかなか小気味よい役割を演じたことを、皆さまはご存じと思います。
開戦直後、来るべき講和への仲裁の労をセオドア・ルーズベルト大統領に期待した日本政府は、大統領とハーバード大学の同窓生で、その後、交際を深めていた貴族院議員の金子堅太郎をアメリカへ派遣しました。
大統領は、快くその依頼を受けたうえで「日本人の性格やその精神教育面での原動力となっているもの等について紹介した書物」(松村正義 『日露戦争と金子堅太郎』新有堂)を所望したところ、金子が渡したのが『武士道』であった。
数カ月後、金子に会った大統領は「この本を読んで、日本人の徳性をよく知ることができた」とも言い、喜んで講和への働きかけをしてくださったのであります。
このエピソードは、決して波穏やかでなかった日米近代史にさわやかな彩りを添えております。
新渡戸が先駆的な教育者であったことを思うにつけ、モンゴメリー教授に所長をお願いしている私どもの創価大学ロサンゼルス分校の環太平洋平和・文化研究センターも、日米新時代に虹をかける労作業の一端を担うべく、全力の貢献を期するものであります。
*対立と二律背反を超える縁起の智慧
さて、往昔のそうした内発的なパワー、エネルギーを、世紀末の枯渇した精神の大地に、いかにして蘇生させていくか。
日本においてもアメリカにおいても、それは容易ならざる作業であります。
その意味からも、私は仏法哲理の骨格中の骨格ともいうべき「縁起」という考え方に、少々言及させていただきたいと思います。
周知のように仏法では、人間界であれ、自然界であれ、森羅万象ことごとく、互いに"因"となり"縁"となって支え合い、関連し合っており、物事は単独で生ずるのではなく、そうした関係性のなかで生じていく、と説きます。
これが"縁りて起こる"ということであり、端的にいって"個別性"よりも、むしろ"関係性"を重視するのであります。
また関係性を重視するといっても、そのなかに個が埋没してしまえば、人間は社会の動きに流されていくばかりで、現実への積極的な関わりは希薄になってしまいます。
仏教史にその傾向が著しく見られることは、ベルクソンや貴大学で長く教鞭をとっていたホワイトヘッドなどの知性が鋭く指摘するところであります。
しかし真の仏教の真髄は更にその先に光を当てております。
すなわち、真実の仏法にあっては、その関係性の捉え方が際立ってダイナミックであり、総合的であり、内発的なのであります。
先ほど、異文化同士の接触がもたらす嫌悪と反目に触れましたが、関係性といっても、必ずしも友好的なものばかりとは限らない。 "あちら立てれば、こちら立たず"といった敵対関係にあることも、しばしばであります。
その場合、調和ある関係性とは一体、何なのか――やはり、エピソードによるのが一番よいと思います。
ある時、釈尊がこう問われた。「生命は尊厳だというけれども、人間だれしも他の生き物を犠牲にして食べなければ生きていけない。いかなる生き物は殺してよく、いかなる生き物は殺してはならないのだろうか」と。
だれもがジレンマに陥りやすい素朴な疑問ですが、これに対する釈尊の答えは「殺す心を殺せばよいのだ」というものであります。
釈尊の答えは、逃げ口上でもなければ、ごまかしでもありません。
「縁起」観に基づく見事なる解答であります。
生命の尊厳という調和ある関係性は、「殺してよい生き物」と「殺してはならない生き物」といった、時に敵対し反目する現象界の表層ではなく、深層にまで求めなければならない。
それは単なる客観的な認識の対象ではなく、「殺す心を殺す」という人間の主体的生命の内奥に脈打つ主客未分化の慈しみの境位であります。
このダイナミック、総合的、内発的な生命の発動は、ベルクソンやホワイトヘッドが指摘しているような、単なる自我の消滅(無我)ではなく、自他の生命が融合しつつ広がりゆく、小我から大我への自我の宇宙大の拡大を志向しているのであります。
私どもの信奉する聖典には「正報なくば依報なし」(「瑞相御書」 御書1140頁)とあります。
「正報」すなわち主観世界と「依報」すなわち客観世界が二元的に対立しているのではなく、相即不離の関係にあるとするのが、仏法の基本的な生命観、宇宙観であります。
と同時に、その相即の仕方は、客体化された2つの世界が一体となるといったスタティック(静的)なものではない。
「依報」である森羅万象も、「正報」という内発的な生命の発動を離れてあり得ないという極めてダイナミックかつ実践的色彩が強いものであります。
要は、その「正報」である"内発的なるもの"をどう引き出すか――。
「良心例学」にならって、ごく身近な例で言えば、私も仏法者として、この精神にのっとって、例えば離婚の問題で相談を受けたような場合、「離婚する、しないは、プライベートな問題で、当然、本人の自由です。しかし"他人の不幸のうえに自分の幸福を築く"という生き方は仏法にはない。それを基準に考えてください」と答えております。
ジレンマをともなうそうした苦悩と忍耐と熟慮のなかにこそ、パスカル的意味での良心の内発的な働きは、善きものへと鍛え上げられ、人間関係を分断し、破壊する悪を、最小限度に封じ込めることができるのではないでしょうか。
そして、このような内発的精神に支えられた自己規律、自己制御の心ほど、現代に必要なものはないと思われます。
それは、生命の尊厳のみならず、人間関係が希薄化しゆく世界に、ともすれば死語化さえ憂慮されている友情、信頼、愛情など、かけがえのない人間の絆をみずみずしく蘇生していくために、貴重な貢献をなしうるにちがいないからであります。
ソクラテスにおいてそうであったように、その労作業は、広い意味で哲学の復権であり、またそのような哲学の土壌の上に、ソフト・パワーの時代は、真にたわわな果実を実らせるでありましょう。
とともにそれは、ボーダーレス時代にふさわしい世界市民の勲章ではないでしょうか。
私の敬愛してやまぬエマーソン、ソロー、ホイットマン等"アメリカ・ルネサンス"の旗手たちもまた、そうした世界市民の一員だったのではないでしょうか。
最後に、私が青春時代に愛誦したエマーソンの、友情を謳い上げた美しい詩の一節を皆さま方に捧げ、私の話とさせていただきます。
私の胸は言った、 おお友よ、
君ひとりゆえに空は晴れ、
君ゆえにバラは赤く、
万物は君ゆえに姿は気高く、
この世ならぬものに見える。
宿命の水車のみちも
君の貴さゆえに日輪の大道となる。
君の高潔さは私にも教えた
私の絶望を克服すべきことを、
秘められたわたしのいのちの泉は
君の友情ゆえに美しい。
(「友情」入江勇起男訳、『エマソン選集』2所収、日本教文社)
ご清聴、ありがとうございました。
(終了)
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