創価学会員ですが、何か?

批判と擁護と中立と、いろんな御意見、お聞かせ下さい! ただし、ある程度のレベルのものを。

池田大作名誉会長

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パートナー・シップといったところで、そうした精神面での裏打ちがなされていなければ、所詮、絵にかいた餅に終わってしまうでしょう。
また、それを欠いたがゆえに、近代日本は、ある時は外国に対していたずらに自らを卑下したり、そうかと思うとGNP大国など些細なことで傲りたかぶったりして、不信と過信との間を揺れ動いてきました。
一言にしていえば、自己規律の哲学を欠いているのであります。

その無残なカタストロフィー (破局)が、今年でちょうど50年目を迎えた、かの真珠湾攻撃であったことを、私は深い胸の痛みとともに思い起こすのであります。

ちなみに『武士道』といえば、この小さな本が、日露戦争終結のためのポーツマス会談で、なかなか小気味よい役割を演じたことを、皆さまはご存じと思います。
開戦直後、来るべき講和への仲裁の労をセオドア・ルーズベルト大統領に期待した日本政府は、大統領とハーバード大学の同窓生で、その後、交際を深めていた貴族院議員の金子堅太郎をアメリカへ派遣しました。
大統領は、快くその依頼を受けたうえで「日本人の性格やその精神教育面での原動力となっているもの等について紹介した書物」(松村正義 『日露戦争と金子堅太郎』新有堂)を所望したところ、金子が渡したのが『武士道』であった。
数カ月後、金子に会った大統領は「この本を読んで、日本人の徳性をよく知ることができた」とも言い、喜んで講和への働きかけをしてくださったのであります。

このエピソードは、決して波穏やかでなかった日米近代史にさわやかな彩りを添えております。
新渡戸が先駆的な教育者であったことを思うにつけ、モンゴメリー教授に所長をお願いしている私どもの創価大学ロサンゼルス分校の環太平洋平和・文化研究センターも、日米新時代に虹をかける労作業の一端を担うべく、全力の貢献を期するものであります。

*対立と二律背反を超える縁起の智慧

さて、往昔のそうした内発的なパワー、エネルギーを、世紀末の枯渇した精神の大地に、いかにして蘇生させていくか。
日本においてもアメリカにおいても、それは容易ならざる作業であります。
その意味からも、私は仏法哲理の骨格中の骨格ともいうべき「縁起」という考え方に、少々言及させていただきたいと思います。

周知のように仏法では、人間界であれ、自然界であれ、森羅万象ことごとく、互いに"因"となり"縁"となって支え合い、関連し合っており、物事は単独で生ずるのではなく、そうした関係性のなかで生じていく、と説きます。
これが"縁りて起こる"ということであり、端的にいって"個別性"よりも、むしろ"関係性"を重視するのであります。
また関係性を重視するといっても、そのなかに個が埋没してしまえば、人間は社会の動きに流されていくばかりで、現実への積極的な関わりは希薄になってしまいます。

仏教史にその傾向が著しく見られることは、ベルクソンや貴大学で長く教鞭をとっていたホワイトヘッドなどの知性が鋭く指摘するところであります。
しかし真の仏教の真髄は更にその先に光を当てております。
すなわち、真実の仏法にあっては、その関係性の捉え方が際立ってダイナミックであり、総合的であり、内発的なのであります。

先ほど、異文化同士の接触がもたらす嫌悪と反目に触れましたが、関係性といっても、必ずしも友好的なものばかりとは限らない。 "あちら立てれば、こちら立たず"といった敵対関係にあることも、しばしばであります。
その場合、調和ある関係性とは一体、何なのか――やはり、エピソードによるのが一番よいと思います。

ある時、釈尊がこう問われた。「生命は尊厳だというけれども、人間だれしも他の生き物を犠牲にして食べなければ生きていけない。いかなる生き物は殺してよく、いかなる生き物は殺してはならないのだろうか」と。
だれもがジレンマに陥りやすい素朴な疑問ですが、これに対する釈尊の答えは「殺す心を殺せばよいのだ」というものであります。
釈尊の答えは、逃げ口上でもなければ、ごまかしでもありません。
「縁起」観に基づく見事なる解答であります。

生命の尊厳という調和ある関係性は、「殺してよい生き物」と「殺してはならない生き物」といった、時に敵対し反目する現象界の表層ではなく、深層にまで求めなければならない。
それは単なる客観的な認識の対象ではなく、「殺す心を殺す」という人間の主体的生命の内奥に脈打つ主客未分化の慈しみの境位であります。
このダイナミック、総合的、内発的な生命の発動は、ベルクソンやホワイトヘッドが指摘しているような、単なる自我の消滅(無我)ではなく、自他の生命が融合しつつ広がりゆく、小我から大我への自我の宇宙大の拡大を志向しているのであります。

私どもの信奉する聖典には「正報なくば依報なし」(「瑞相御書」 御書1140頁)とあります。
「正報」すなわち主観世界と「依報」すなわち客観世界が二元的に対立しているのではなく、相即不離の関係にあるとするのが、仏法の基本的な生命観、宇宙観であります。
と同時に、その相即の仕方は、客体化された2つの世界が一体となるといったスタティック(静的)なものではない。
「依報」である森羅万象も、「正報」という内発的な生命の発動を離れてあり得ないという極めてダイナミックかつ実践的色彩が強いものであります。

要は、その「正報」である"内発的なるもの"をどう引き出すか――。
「良心例学」にならって、ごく身近な例で言えば、私も仏法者として、この精神にのっとって、例えば離婚の問題で相談を受けたような場合、「離婚する、しないは、プライベートな問題で、当然、本人の自由です。しかし"他人の不幸のうえに自分の幸福を築く"という生き方は仏法にはない。それを基準に考えてください」と答えております。

ジレンマをともなうそうした苦悩と忍耐と熟慮のなかにこそ、パスカル的意味での良心の内発的な働きは、善きものへと鍛え上げられ、人間関係を分断し、破壊する悪を、最小限度に封じ込めることができるのではないでしょうか。
そして、このような内発的精神に支えられた自己規律、自己制御の心ほど、現代に必要なものはないと思われます。

それは、生命の尊厳のみならず、人間関係が希薄化しゆく世界に、ともすれば死語化さえ憂慮されている友情、信頼、愛情など、かけがえのない人間の絆をみずみずしく蘇生していくために、貴重な貢献をなしうるにちがいないからであります。
ソクラテスにおいてそうであったように、その労作業は、広い意味で哲学の復権であり、またそのような哲学の土壌の上に、ソフト・パワーの時代は、真にたわわな果実を実らせるでありましょう。
とともにそれは、ボーダーレス時代にふさわしい世界市民の勲章ではないでしょうか。

私の敬愛してやまぬエマーソン、ソロー、ホイットマン等"アメリカ・ルネサンス"の旗手たちもまた、そうした世界市民の一員だったのではないでしょうか。
最後に、私が青春時代に愛誦したエマーソンの、友情を謳い上げた美しい詩の一節を皆さま方に捧げ、私の話とさせていただきます。

私の胸は言った、 おお友よ、
君ひとりゆえに空は晴れ、
君ゆえにバラは赤く、
万物は君ゆえに姿は気高く、
この世ならぬものに見える。
宿命の水車のみちも
君の貴さゆえに日輪の大道となる。
君の高潔さは私にも教えた
私の絶望を克服すべきことを、
秘められたわたしのいのちの泉は
君の友情ゆえに美しい。

(「友情」入江勇起男訳、『エマソン選集』2所収、日本教文社)   
ご清聴、ありがとうございました。


(終了)

1991年 (平成3年) 9月26日 ハーバード大学 (アメリカ)での、池田大作名誉会長の講演


「ソフト・パワーの時代と哲学」

本日は創立355年というアメリカ最古の伝統を誇る貴大学のお招きを受け、スピーチの機会を賜り大変光栄に思っております。
ただ今、私を紹介してくださったモンゴメリー教授、この後、私のスピーチにコメントをしてくださるナイ教授、カーター教授をはじめ、本日ご列席の諸先生方に深く感謝の意を表するものであります。

さて、世界を震撼させたソ連の政変は、大河のうねりのような歴史の動向――近年、ナイ教授等が指摘しておられるソフト・パワーの台頭という現象を一段とクローズアップさせました。
すなわち、歴史の動因として、かつては軍事力や権力、富といったハード・パワーが決定的要素であったが、最近はその比重が落ち、知識や情報、文化、イデオロギー、システムなどのソフト・パワーが、著しく力を増しつつあるということであります。

このことは、ハード・パワーが主役であったかのような湾岸戦争においても、はっきり見てとれます。ハード・パワーの行使も、現代では、国連というシステムや、その背後にある国際世論というソフト・パワーを無視しては不可能であった。そうした時流を、不可逆的なものにしていくことこそ、現代に生きる私どもに課せられた歴史的な使命といってよい。
その際、ソフト・パワーの時代を切り拓く最も大切なキー・ワードとして、私は"内発的なるもの"ということを申し上げてみたいと思います。

*内発の力 育む哲学の復権

ハード・パワーというものの習性は"外発的"に、時には"外圧的"に人間をある方向へ動かしますが、それとは逆に、人間同士の合意と納得による"内発的"な促し、内発的なエネルギーを軸とするところに、ソフト・パワーの大きな特徴があります。
このことは古来、人間の精神性や宗教性に根差した広い意味での哲学の本領とするところでありました。
ソフト・パワーの時代とはいえ、そうした哲学を欠けば、つまり、人間の側からの"内発的"な対応がなければ、知識や情報がいかに豊富でも、例えば容易に権力による情報操作を許し、 "笑顔のファシズム"さえ招来しかねないのであります。

その意味からも、ソフト・パワーの時代を支え、加速していけるか否かは、あげて哲学の双肩にかかっているといっても過言ではないでしょう。
この"内発性"と"外発性"の問題を鋭くかつ象徴的に提起しているのが、有名な「良心例学」 ―― 事にあたっての良心の在り方を、あらかじめ判例として決めておくこと ――をめぐるパスカルのジェスイット攻撃ではないでしょうか。

周知のようにジェスイットは、信仰や布教に際して、良心の従うべき判例の体系を豊富に整えておりますが、パスカルは、内なる魂のあり方を重視するジャンセニストの立場から、ジェスイット流のそうした外面的規範や戒律が、本来の信仰をどんなに歪めているかを力説してやまないのであります。

例えばインドや中国における「良心例学」を、パスカルは、こう攻撃します。
「かれら(=ジェスイット)は偶像崇拝を、次のような巧妙なくふうをこらしてさえ、信者たちに許しているのです。
衣服の下にイエス・キリストの御姿をかくしもたせ、公には釈迦や孔子の像を礼拝するとみせて、心のなかではイエス・キリストの御姿を礼拝するように教えているのです」(『プロヴァンシアル』中村雄二郎訳、『世界文学大系』 13所収、筑摩書房)と。

パスカルは、異国におけるそのような信仰の在り方そのものを、必ずしも非難しているのではない。確かに、そのような、やむを得ぬ選択を余儀なくされる場合もあるかもしれないが、そこに至るまでに多くの良心の苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断があるはずである。それは、良心の内発的な働きそのものである。にもかかわらず、そうした選択の基準を、あらかじめ判例として外発的に与えられてしまうと、安易にそれに依存する結果、良心の働きは逼塞させられ、マヒし堕落してしまう。
「易きをもとめる多数」へのおもねりでしかない「良心例学」とは、従ってパスカルにとって、良心の自殺的行為にほかなりませんでした。

こうしたパスカルの論難は、単にジェスイットやジャンセニストの争いという次元を超えて、広く人間の普遍的な良心の在り方という点で、実に多くの示唆を含んでいると私は思います。パスカルほどの純粋さは望みうべくもないにしても、こうした内発的な魂の働きが一個の時代精神に結晶し、社会に生気を与えている例は、史上極めて稀ではないでしょうか。

その数少ない例証の一つを、私は1830年代のアメリカ社会を訪れ比類のない分析を加えた、フランスの歴史家トクヴィルの古典的名著『アメリカの民主政治』の描写に見いだすのであります。

いうまでもなく、19世紀初めの建国後半世紀のアメリカを訪問したトクヴィルに最も印象深かったのは、母国フランスとは様変わりした、かの地の宗教事情、宗教的様相であった。
その驚きを彼は、「宗教は外見的な力をへらすことによってその実力を増すようなことにどうしてなりうるのか」(井伊玄太郎訳、 講談社学術文庫)という疑問として投げかけております。

すなわち、フランスでは、宗教が教会のもとでの多くの煩瑣な儀礼、形式と化し、ややもすれば、魂の桎梏となるきらいがあった。 ゆえに、宗教の外見的な力を減らすことは、そのまま宗教からの解放、信仰心の衰弱を意味していた。
しかし、新興国アメリカでは、逆に儀礼や形式を少なくすればするほどに、人々の信仰心は横溢してくるようである。

彼は言います。「アメリカ連邦においてほどに、キリスト教が形式と儀礼と像とを少ししか含んでいない国は他にどこにもない。そしてまたここほどに、キリスト教が人間の精神に対して明確で単純な、そして一般的な理念をあらわしている国も、他のどこにも見られない」(同前)と。

トクヴィルの指摘は、一応、フランスにおけるカソリシズムの形骸化と、アメリカにおけるピューリタニズムの隆盛を言っているもののようですが、もう一歩敷衍して考えれば、信仰における"内発的なるもの"が、最も純粋な形で時代精神へと結晶していることへの感嘆といえましょう。
ともあれ宗教の名に値する宗教であるかぎり、パーソナル(個人的)な側面とインスティテューショナル(制度的)な側面とをもちます。
高等宗教は、必ず、何らかの絶対的なるもののもとに、すべての人種、身分、階級を超えた個の尊厳を説きますが、それと同時に、宗教が運動体として展開し始めると、必然的に制度化の要請が生じてくる。

しかし、制度的側面は、時代とともに刻々と変化するものであり、個人的側面を「主」とすれば、どちらかといえば「従」であります。
にもかかわらず、ほとんどの宗教が陥ってきたのは、制度的な側面が硬直化することによって、制度が人間を拘束し、宗教本来の純粋な信仰心が失われてくるという本末転倒であります。
制度や儀礼などの外発的な力が、信仰心という内発的な力を抑え込んでしまうわけであります。

トクヴィルが特筆大書していることは、当時のアメリカの宗教事情ほど、こうした本末転倒の悪弊に陥らず、信仰そのものの純粋さが毀たれていない社会は稀であるということです。
そうした時代精神を背景にして初めて「私のうちに神を示すものが、私を力づける。私の外に神を示すものは、私を、いぼや瘤のように、小さなものとする」(『エ
マソン選集』1、斉藤光訳、日本教文社) といった、エマーソンの"内発的なるもの"を謳い上げたおおらかな楽観主義も生まれたと思われます。

確かにそうした事情は、海の凪にたとえられるかもしれない。
おそらく、それ以前の公認宗教としての政教一致的色彩の強い流れと、それ以後の世俗化のなかで内面的な私事へと矮小化されゆく流れとの間に生じた、幸運にして幸福な凪にも似た状況ともいえましょう。
とともに、それは単なる過ぎ去った一時期ではなく、アメリカの人々の歴史意識の深層に貴重な伝統として蓄えられているものと私は信じております。

さて、近代の日本に、そのような精神の内発的発露の例証を求めても、やや無理があるようです。
明治の開国以来、日本は、欧米先進国に追い付け追い越せをスローガンに、近代化の道をひた走ってきました。
そこでは、文豪の夏目漱石がそのものずばりに「外発的開化」と名付けたように、目標や規範は、常に外から与えられ、内発的なものを育んでいく余裕も時間もなかった。

ここでも、一つのエピソード、明治時代の新渡戸稲造をめぐるエピソードを紹介させていただきたい。
ご存じのように新渡戸は"太平洋に友好の虹をかけよう"と、 揺籃期の日米関係の改善に奔走した人物でありますが、彼がベルギーの知人と宗教について話していたとき、「あなたのお国の学校には宗教教育はないのか」と聞かれ、内省の果てに見いだしたのが、宗教に代わって江戸期に形成され明治の末年まで日本人の精神形成にあずかって力あった武士道でした。
そこで彼は『武士道日本の魂』という本を著し、副題に「日本思想の解明」と銘打ったのであります。
その内容は略しますが、広い意味での武士道の精神性が、プロテスタンティズムやピューリタニズムと、幾つかの共通点をもっていたことは、明治の日本での、フランクリンの熱狂的な迎えられ方に象徴されております。
それにもまして、私が本論の文脈で強調しておきたいのは、武士道による精神形成が、日本人にとって内発的であったということであります。

内発的とは自制的ということであり、他から強制されて何かをするのではなく、自律的にそうするのであります。
武士道が形成されていった江戸時代の日本で、汚職や犯罪が現代とは比較にならぬくらい少なかったということは、社会に内発的な力が働いていた証左といえましょう。
そのことは、また私に「アメリカ連邦におけるほどに、刑法が寛大に施行されているところは、他にはない」(井伊玄太郎訳、 前掲書、 趣意) とのトクヴィルの言葉を想起させるのであります。

精神の働きが内発的であったがゆえに、人々は自己を律するに過つこと少なく、人間の証ともいうべき克己のかたちに無理がなかった。
ゆえに、人間関係はさしたる摩擦も不安もなく円滑に営まれ、そこに形成される文化のかたちは、日本独自の美しさと魅力をたたえていました。

貴大学出身で、大森貝塚の発見者のE・S・モースが日本の庶民社会の中に見いだした驚くべき美風も、W・ホイットマンが、 マンハッタンの大通りを行く日本の使節から感じ取った気品も、みなこの文化のかたちに根差していたのであります。

以来、百幾星霜、ともあれ現在の日米間には、基本的に友好関係が保たれているとはいえ、日本の経済力の増大につれて、とみに不協和音が目立つようになりました。
最近の構造協議などを通じて浮かび上がってくる問題は、貿易摩擦というよりも、文化摩擦の次元にまで及んでいる。
文化といっても、必ずしも友好を促すとは限らず、固有の生活様式に深く根差した部分に及んでいくとき、異文化同士の接触は、しばしば嫌悪と反目を呼び起こすものであります。
異文化同士が衝突し、そうした一種のハレーション(混乱状態)を起こした時ほど、深く、内発的な自己規律、自己制御の心が人々に要請される時はない。


(続く)

〔世相・教育〕〜同苦を教育に〜

北村    :今回のテロ事件でも一番の特徴は命の軽視だと思うのですが、この風潮はテロに限らず、最近の日本の社会でいろいろあります。どうしてそんなに簡単に人を、子供を殺すのだろう、ということがあります。

池田氏   :希望がないからではないでしょうか。社会全体にトンネルの出口が見えない閉塞感が高まっています。人生に意味を与えるのは哲学であり、宗教です。ところが今、真剣に暴力、戦争はいけない、と教育する信念がありません。もうみんなあなた任せ、自分は関係ないと。使命感、責任感がなくなってしまっている。

北村    :自分たちに対する攻撃と受け取らずに、私のところが関係しなくてよかったと。平和が、社会が脅かされている、それは自分たちへの攻撃だという感じがちょっと薄らいでしまう。

池田氏   :そこなんです。全部あなた任せです。仏法は同苦です。人が不幸である。人が苦しんでいる。同じ苦しみを持って助け合おう。これが人間の真実の生くべき道でしょう。同苦が大事です。

北村    :なかなか理解し合えない人間同士を、どうやって同苦というものに持っていくのでしょう。

池田氏   :一番大事なことは、教育です。不幸、戦争、恵まれない……。その人と同苦する。同じ目線でどのように擁護するか、また平等に扱うか。その点、日本は遅れています。

岩見    :歴代政権は教育改革と必ず言う。実際に政府機関で議論しても妙案が出てこない。そこでお聞きしたいのは教育基本法です。変えるべきじゃないかという意見の人もいますが、名誉会長は慎重と聞いています。

池田氏   :国家主義に持っていく色彩が見え見えですから。もっと斬新な展望を持てる学者に、議論してもらいたい。なんでも政治の機関でやらせるのは、政治至上主義です。人間至上主義ではありません。長らく日本の教育は、その時々の国家目標に振り回されてきました。軍事優先や経済優先だった国家目標に沿って、役割を狭められてきたのです。教育基本法は「人格の形成」を教育の目的として掲げていますが、私は「子供の幸福」と読み換えたらどうかと訴えたい。「教育は子供の幸福のためにこそある」。これは、私の敬愛する、戦時中に獄死した教育者の言葉です。

岩見    :私は教育における宗教の役割は非常に大きいと観念的には思っています。しかし、現実的に日本の教育の中で、宗教の比重は高くない。

池田氏   :そうですね。しかし、今でも欧米では、宗教を持たない家庭は少ない。日本の宗教的権威者が悪いんです。宗教は空気や水みたいなもので、本来人間にとって必要なものです。

[政治〕〜もう一度本格再編が〜

北村    :7月の参院選は大変な小泉フィーバーで、その後も内閣支持率はあまり下がらない。高い時には90%近くです。危ないという人もいますが。

池田氏   :私も同感です。日本人の、はっきりしないものに対する何となくという人気。強い哲学性も政治観もなくして、付和雷同する。その表れの一つだと思います。90%の支持率は明らかに異常です。時代、謝意、未来に対する閉塞感が強かった分、人々は改革という言葉に、実態も分からないままひかれている。そこが気になります。人気はイコール政治の力ではありません。人気があるといって、何もまだ仕事はしていない。

岩見    :小泉さんは「自民党をつぶしてもよい」なんて言うもんですから。そういうパフォーマンスに人気が行った。

池田氏   :少しずつ見が覚めてきた人もいるが、まだ続くでしょう。次がいないから。今は、日本が改革を必要としている。頑張ってほしいものです。

岩見    :名誉会長はずいぶん歴代総理に接触が多いようですが。

池田氏   :私から「会いたい」と言って、会った方はおりません。先方から「懇談したい」と言うので、すべてお断りすることもできませんし、以前はほとんどの総理にお会いしています。公明党の国会議員は一切関係していません。私個人として会っています。一番多かったのは福田(赳夫)さんでしょうね。

岩見    :福田さん、あるいはその前後と、ここ十数年のリーダーを比べていかがですか。

池田氏   :やはり佐藤(栄作)さんとか、池田(勇人)さんは格式がありました。政治家らしい人格、信念、風格でしょう。

岩見    :信念ということで言うと、この夏は靖国参拝騒動がありました。靖国問題に関しては、どういうご見解でしょう。

池田氏   :一国の総理が、一宗教法人に参拝することは間違いです。靖国参拝そのものは、憲法違反の疑いが強いことも事実です。戦没者を悼む気持ちは分かりますが、一国の宰相たるもの、心情論だけに流されることは危険です。

岩見    :公明党は最近、宗教政党らしい純潔性とか寛容さが感じられなくなって、自民党や民主党と同じ普通の政党という印象ですね。惜しいなあと感じているんですが。

池田氏   :全く同感です。私もそう思っています。そうなると何の魅力もなくなる。

岩見    :最近は衆院の選挙制度自体を変えたらどうだと公明党も提唱しているようです。

池田氏   :中選挙区制が日本に一番当てはまるんじゃないか。公明党に有利とか不利とかいう問題じゃなくて、多様化した日本社会にあって、その方が幅広く皆が選択できると思うからです。

岩見    :今、自民党と連立を組んでいますが、自民党は相当くたびれてきたなあと私は思っていますけれども、どうですか。

池田氏   :いつかはもう一度、本格的な政界再編のときが来るのではないでしょうか。

岩見    :そういう意味でも公明党が日本の政界に刺激を与える役割はあるんじゃないかと。

池田氏   :そうでなければ公明党の存在価値がなくなります。自民党の補完勢力みたいになってしまうから。

岩見    :今の自民党だとそう展望はありません。

池田氏   :再編があっても長続きするかどうか……。だけど自民党単独内閣は、当分できそうもありませんね。連立は時代の流れと思います。

北村    :創価学会は今後、政治とのかかわりをさらに深めるのでしょうか。

池田氏   :宗教は人々の幸せと世の中の平和と繁栄を願うものです。政治が腐敗、堕落し、危機的状況にある限り、異議申し立てをするのは、宗教者として当然の責務です。政治への監視を庶民の目線で行うことは、非常に大切なことと思います。

〔憲法〕〜9条を変えてはいけない

〜岩見    :首相公選制について、名誉会長はいいんじゃないかというお考えとうかがっていますけど。

池田氏   :否定はしません。新しい日本の何かを生み出してもらいたいという意味で。何だか全然、政治が面白くないから。

岩見    :仮に首相公選制を導入するとなると、憲法改正を必要としますね。

池田氏   :そうなんです。私は絶対に第9条だけは変えてはいけないと思います。その他は、やむを得ない場合があるかもしれないが。

岩見    :憲法を見直すこと自体はいいと。

池田氏   :その通りです。議論は結構だ。9条は変えてはいけない。

〔創価学会〕〜独裁などあり得ない

〜北村    :創価学会は70年を超えました。今、創価学会はどういう段階にあるのでしょうか。長年、指導者の立場にある点をどうお考えですか。

池田氏   :ほぼ日本の1割に(会員数が)なりました。基盤が出来上がったと見ています。当然指導者がいなければ、組織は正しい方向に動きません。とともに、皆に責任を持たせ、青年を育てていかなければ、どんな団体であっても安定と発展、持続はできなくなるものです。独裁などあり得ないし、時代遅れです。学会の運営は、役員会議・中央会議などを中心に、民主的にみんなの意見を最大に尊重して行っています。会議も私があまり出ると皆が遠慮してはいけないと思い、原則として出ないように心がけています。

岩見    :何か新しい独裁みたいな感じもしますが。(笑)

池田氏   :どう見られても、私は構いません。全部、自由ですから。ただ、私も名誉会長として、会則通りに働いています。独裁であれば人は育ちません。世界にも開けません。独裁は臆病です。必ず滅びます。

北村    :名誉会長、最近までずっとマスコミに登場しなかったのですが、最近、朝日新聞への寄稿から始まり、登場が続いています。何か思うところがあってですか。

池田氏   :創価学会というと、すぐに公明党と見られがちです。その公明は自民と一緒になってます。一般の方々は学会も同じように、つながってしまっていると思われかねません。そのように思われることは学会にとっては非常に迷惑なことです。心ある会員にしかられます。また離れていきます。そこで、創価学会の主体性を明確にしておかないと、内部的にも納得を得られないと思って発言を多くするようにしました。私たちは、公明党を支援するために信仰しているのではない。宗教は人間と人間との心の連帯です。もはや党派性の時代ではない。それでは必ず行き詰まる。あくまでも人間です。人間のための、人間による宗教活動を、私たちは進めていきます。


(終わり)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
名誉会長は、この他にも、田原総一郎氏などインタビューを過去に受けている。

最近の方には、知らない方も多いようなので紹介した。

インタビュアーの岩見氏や田原氏などは、最近では創価学会のご機嫌取りをしているかのように言われたりしているが、それはこの記事内容から判断して欲しい。

古いものになるが、池田大作名誉会長が、毎日新聞のインタビューを受けた記事をお読み頂けたらと思う。

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毎日新聞掲載(2001/9/25)記事 池田大作・創価学会名誉会長インタビュー

「あらゆるテロは絶対悪」 毎日新聞 2001/9/25(火)1面掲載

【「国連特別総会でテロ対策」を提唱 創価学会池田名誉会長】

 創価学会の池田名誉会長(73)はこのほど毎日新聞の取材に答え、米国の同時多発テロ事件について「仏法者の立場から、あらゆるテロを絶対悪として許さない」と厳しく批判した。また、首相公選制の導入は容認したが、憲法改正議論で9条改正には反対の姿勢を明確にした。(21面に詳報)

 池田名誉会長は今回のテロ事件を受け「大勢の人を巻き込んで殺すことは、殉教ではない」「これほど残酷な宗教ならば、この世にある必要がない」と語った。一方で日本政府の対応については「後手後手」と指摘し、国連で「国際テロ対策のための特別総会」開催を検討するべきだと唱えた。
 また、創価学会が指示する公明党が与党の一角を占める小泉内閣の高い支持率について「90%の支持率は異常。人気があると言っても、まだ仕事はしていない」と指摘。小泉首相の靖国神社参拝に対しても「憲法違反の疑いが強い」と批判した。

毎日新聞 2001/9/25 (火) 21面掲載
  創価学会の池田大作名誉会長(73)は、毎日新聞のインタビューに対し、米国の同時多発テロ事件と宗教の問題をはじめ、世相、教育、政治、憲法、創価学会の現状など幅広い分野に関して約1時間半にわたり考えを語った。問答の主な内容を紹介する。聞き手は、毎日新聞の北村正任・主筆と、岩見隆夫・特別顧問。(1面参照)

〔同時多発テロ事件〕〜大勢を巻き込み殺すことは殉教ではない

〜北村主筆  :同時多発テロ事件では、創価学会の方も安否が分からなくなっているようですが。

池田名誉会長:アメリカSGI(創価学会インターナショナル)の経理部長です。世界貿易センタービルに突入した航空機に乗っていました。大変、優秀な人物です。

岩見特別顧問:20世紀は戦争の世紀といわれましたが、こういう事件があると、21世紀もまた新たな形の戦争の世紀になるのではという不安を、全世界が持っています。テロリズムと宗教がどこかで関連しているのは間違いない。宗教界の指導者の立場で、事件をどう受け止めましたか。

池田氏   :大変に暗い気持ちになりました。本来、宗教は、人の魂を救い、人間が人間らしく幸福に平和に暮らすための役割を持っています。その宗教が、人間を殺し、破壊し、不幸のどん底に陥れる。これほど悪い残酷な宗教ならば、この世にある必要がない。それが、一般の方々の心情だと思います。私もそう思います。今回の事件は文明社会への挑戦であり、平和に生きる人類の権利の破壊です。私どもは「人間の生命は全宇宙の財宝よりも尊い」という仏法者の立場から、あらゆるテロを絶対悪として断じて許しません。宗教が、政治、利害、宗教家の権威に利用される。この悪循環を、今回の事件にも感じます。

岩見    :宗教者を残酷非道なテロに駆り立てている根っこにあるものは、何なのでしょう。

池田氏   :権力です。利害です。宗教それ自体の延長の戦争も、ないとは言えません。しかし、つぶさに分析してみると、どうしても政治、利害、陰謀が絡んでくる。

岩見    :イスラム原理主義の、原理主義ということも解しかねる面があります。

池田氏   :原理主義は、そのままの法義や教義を実行するという次元で解釈すれば、正統のように見えます。しかし、時代は刻々と変化しています。もとは1000年以上も前の宗教です。それをそのまま持ち込んでいくことは、一見、宗教者としてはとてもきれいに見えますが、大変な時代錯誤、間違いを起こします。原理主義はとても神聖で崇高という、その錯覚が恐ろしいです。「このようなテロは、イスラムの原理に反する」と指摘する教徒もいます。

岩見    :日本はオウム事件を経験していますが、ちょっと似ているんじゃないでしょうか。

池田氏   :似ています。もちろん無宗教のテロリストが多いわけですが。大勢の人を巻き込んで殺すことは、殉教ではありません。それは、破壊、暴挙、戦争です。

岩見    :名誉会長も、この問題でアクションを起こそうとお考えですか。

池田氏   :絶対にすべきです。学会は、真剣に取り組んでいます。アメリカSGIはただちに緊急対策本部を設置し、救援活動の応援、義援金の寄託、献血などを始めました。平和、戦争反対、暴力をなくす。これは教義を超越した、人間本来の道であり、幸福への道です。そこに宗教の発生があったわけですから、宗教界は一致すべきです。

岩見    :日本の仏教界が連帯して何かをやることはないのでしょうか。

池田氏   :日本の他宗教は他宗教として、行動すればいいと思う。今、学会が主導しても、まとまるまで時間がかかります。また反発が起きます。それは愚の骨頂です。

岩見    :日本も同盟国の立場から米国を支援しなければならない。小泉純一郎首相も支援を約束していますが、政治の動きはどうご覧になりますか。

池田氏   :はがゆくて話しになりません。日本の政治家は後手後手です。率先して平和への国際世論をつくるべきです。国連で訴えてもいい。今こそ、国連が大事です。国連加盟国は一丸となって「国際テロ対策のための特別総会」開催を検討してはどうでしょうか。日本も、そうした方向で努力すべきです。キリスト教とイスラム教は平和的に共存してきた長い歴史を有しています。現在は、宗教的対立というより政治的対決の色彩が強い。文明全体が試練に立たされている今こそ「徹底した対話を」と訴えたい。

2、人間復権の機軸

第二に「人間復権の機軸」という視点であります。これを平易に言うならば、再び宗教の時代が叫ばれる今こそ、はたして宗教をもつことが人間を強くするのか弱くするのか、善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか、という判断を誤ってはならないということであります。

社会主義諸国の崩壊により、マルクスの権威は地に堕ちた感があるとはいえ、彼の宗教阿片説が全く無意味であったとはいえません。洋の東西を問わず、復活しつつある、もろもろの宗教が、阿片的側面をぬぐい去っているとはとうてい言えず、先にテキサス州銃撃事件を起こした教団などは極端な例でありますが、世紀末の"神々"の中には、相互依存と文化交流の進展を逆行する閉鎖的、独善的なものも多いようであります。

そのためにも、私は仏教で言う「他力」「自力」と ――キリスト教流に言うと「恩寵」「自由意志」との問題になると思いますが、その両者のバランスの在り方を改めて検証してみたいのであります。

ヨーロッパ主導の中世から近代への流れを、大まかに俯瞰してみれば、物事の決定権がもっぱら神の意志にあった、神中心の決定論的世界から、その決定権が人間の側に委ねられ、自由意志と責任の世界へと徐々に力点が移行してくる過程であります。いってみれば、「他力」から「自力」への主役交代であります。

それは、確かに科学技術を中心に大きな成果を積み上げてきましたが、同時に、その理性万能主義が、人間が自力ですべてを為しうるという思いあがりを生み、現代文明を抜きさしならぬ袋小路に追い込んでいることは周知の事実であります。

かつての他力依存が人間の責任の過小評価であるとすれば、近代の自力依存は人間の能力の過信であり、エゴの肥大化であります。袋小路の現代文明は、自力と他力の一方へ偏重するのではなく、今や「第三の道」を模索しているといえるのではないでしょうか。

その点「自力も定めて自力にあらず、他力も定めて他力に非ず」( 「一代聖教大意」御書403頁)と精妙に説く大乗仏教の視点には、重要な示唆が含まれていると思います。そこでは2つの力が融合し、両々相まって絶妙のバランスをとっていくことが慫慂(さそい勧める)されているからであります。

少し立ち入って述べれば、かつてデューイは 「誰でもの信仰」を唱え、特定の宗教よりも「宗教的なもの」の緊要性を訴えました。なぜなら、宗教がともすれば独善や狂信に陥りがちなのに対し、「宗教的なもの」は「人間の関心とエネルギーを統一」し、行動を導き、「感情に熱を加え、知性に光を加える」。そして「あらゆる形式の芸術、知識、努力、教育と、働いた後の休息、親しい交わり、友情と恋愛、心身の成長、などに含まれる価値」(魚津郁夫編 『世界の思想家20デューイ』 平凡社)を開花、創造せしむるからであります。

デューイは他力という言葉は使いませんが、総じて「宗教的なもの」とは、善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な生き方を鼓舞し、いわば、あと押しするような力用といえましょう。まことに「"宗教的なもの"は、自ら助くる者を助くる」のであります。

近代人の自我信仰の無残な結末が示すように、自力はそれのみで自らの能力を全うできない。他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全に働く。しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである―― デューイもおそらく含意していたであろう、こうした視点こそ、宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺であると私は思うのであります。

私は、仏教者に限らず全宗教者は、歴史の歯車を逆転させないために、この一点は絶対に踏み外してはならないと思います。そうでないと、宗教は、人間復権どころか、再び人間をドグマや宗教的権威に隷属させようとする力をもつからであります。

その点、コックス教授が私どもの運動を「ヒューマニズムの宗教の方向を示そうとしている」として注目してくださっていることに深く感謝申し上げます。

仏典には「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念 念に起るなり」(「御義口伝」 御書790頁)とあります。仏教は観念ではなく、時々刻々、人生の軌道修正を為さしむるものであります。 "億劫の辛労を尽くす"とあるように、あらゆる課題を一身に受け、全意識を目覚めさせていく。全生命力を燃焼させていく。そうして為すべきことを全力で為しゆく。そこに、「無作三身」という仏の命が瞬間瞬間、湧き出してきて、人間的営為を正しい方向へ、正しい道へと導き励ましてくれる。

法華経には、しばしばドラムやトランペットのような楽器が登場するのも、それらの響きが生きんとする意志への励ましであるとすれば、よく納得できます。そして、その仏の命の力用が、「君よ、強くあれ。君よ、善くあれ、賢明であれ」との、人間復権へのメッセージであることは申すまでもありません。


3、万物共生の大地

第三に「万物共生の大地」という視点を申し上げたい。法華経には数々の譬喩が説かれておりますが、その中に、広大なる大地が等しく慈雨に潤い、大小さまざまな草木が生き生きと萌え出ずる描写があります。一幅の名画を見るように雄大にしてダイナミック、いかにも法華経らしい命の躍動は、直接的には、仏の平等大慧の法に浴して、すべての人々が仏道を成じていくことを示しています。

しかし、それにとどまらず、人間並びに山川草木に至るまでが、仏の命を呼吸しながら、個性豊かに生を謳歌している「万物共生の大地」のイメージを、見事に象っているように思えるのであります。
ご存じのように、仏教では「共生」を「縁起」と説きます。「縁起」が、縁りて起こると書くように、 人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。すなわち、事象のありのままの姿は、個別性というよりも関係性や相互依存性を根底としている。

一切の生きとし生けるものは、互いに関係し依存し合いながら、生きた一つのコスモス(内的調和)、哲学的にいうならば、意味連関の構造を成しているというのが、大乗仏教の自然観の骨格なのであります。

かつて、ゲーテは『ファウスト』で「あらゆるものが一個の全体を織りなしている。一つ一つがたがいに生きてはたらいている」(大山定一訳、『ゲーテ全集』2所収、 人文書院)と語りました。この仏教的ともいうべき知見を、若き友人エッカーマンは「予感はするが実証がない」( 『ゲーテとの対話』 下巻、 神保光太郎訳、 角川文庫) と評しましたが、その後、百数十年の歳月とともに、かのゲーテの、更には仏教の演繹的発想の先見性をうかがわせつつあるようです。

因果律を例にとれば、縁起論でいう因果律は、近代科学でいう、人間の主観から切り離された客観的な自然界を支配している機械論的因果律とはおよそ異なり、人間自身を含む広義の自然界に渉っております。

例えば、ある災害が起こったとする。その災害がどのようにして生じたのか。その一定の原因究明は、機械論的因果律で可能でしょう。しかし、そこには、なぜ自分がその災害にあったのかといった類の問いは、決定的になじまない。むしろ、そうした実存的問いを切り捨てたところに成り立つのが機械論的自然観であります。

仏教で説く因果律は「何に縁りて老死があるのか。生に縁りて老死がある」( 『仏教の思想』1、増谷文雄・梅原猛 角川書店)との釈尊の原初の応答が示しているように、そうした「なぜ」という問いを真正面に受け止めているのであり、「一念三千」論のように、近代科学とも十分に整合性をもつ、雄大にして精緻な論理を展開しているのであります。

時間の関係で詳論はいたしませんが、現代の生態学、トランスパーソナル心理学、量子力学等は、それぞれの立場で、そうした仏教的発想と親近しつつあるように思えてなりません。

さて、関係性や相互依存性を強調すると、ともすれば主体性が埋没してしまうのではないかと思われがちでありますが、そこには一つの誤解があるようです。仏典には、「己こそ己の主である。他の誰がまさに主であろうか。己がよく抑制されたならば、人は得難い主を得る」。「まさに自らを熾燃(=ともしび)とし、法を熾燃とすべし。他を熾燃とすることなかれ。自らに帰依し、法に帰依せよ。他に帰依することなかれ」(『真理の花たば 法句経』宮坂宥勝 筑摩書房)等とあります。

いずれも、他に紛動されず、自己に忠実に主体的に生きよと強く促しているのであります。ただ、ここに「自ら」「己」というのは、エゴイズムに囚われた小さな自分、すなわち「小我」ではなく、時間的にも空間的にも無限に因果の綾なす宇宙生命に融合している大きな自分、すなわち「大我」を指しております。

そうした「大我」こそ、ユングが「自我(エゴ)の奥にある 」大文字の「自己(セルフ)」 と呼び、 エマーソンが「あらゆる部分や分子が平等に結びつく普遍的な美、永遠の『一なる者』」(『エマソン論文集』 酒本雅之訳、 岩波書店)と呼んだ次元と強く共鳴し、共振し合いながら、来るべき世紀へ「万物共生の大地」を成していくであろうことを、私は信じて疑いません。

それはまた、ホイットマンの大らかな魂の讃歌の一節を想起させるのであります。
わたしはふり向いてあなたに呼びかける、「おお、魂よ、あなたこそ本当のわたし」、するとあなたは、何とまあ、いとも優しげに一切の天球を配下におさめ、あなたは「時間」の伴侶となり、「死」 に向かっては満足の微笑を投げかけ、そして「空間」の広大な広がりをくまなく満たし、たっぷりと膨脹させてみせる (『草の葉』 鍋島能弘 酒井雅之訳、 岩波文庫)

大乗仏教で説くこの「大我」とは、一切衆生の苦を我が苦となしゆく「開かれた人格」の異名であり、 常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げるのであります。こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる「近代 的自我」の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平があるといえないでしょうか。そしてまた、「生も歓喜であり、 死も歓喜である」という生死観は、このダイナミックな大我の脈動のなかに、確立されゆくことでありましょう。

日蓮大聖人の「御義口伝」には、「四相 (=生老病死)を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」( 御書740頁)とあります。21世紀の人類が、一人一人の「生命の宝塔」を輝かせゆくことを、私は心から祈りたい。そして、「開かれた対話」の壮大な交響に、この青き地球を包みながら、「第三の千年」へ、新生の一歩を踏み出しゆくことを、私は願うものであります。
その光彩陸離たる「人間と平和の世紀」の夜明けを見つめながら、私のスピーチ とさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。


(以上)

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