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☆☆これは私自身が経験した実体験であり、全て、今も鮮明に残っている記憶をもとに書き起こした話ですが、現在医療からすると未だ脊椎脊髄における固定手術の実例が少なく、整形外科分野の未開な部分であった事と、けっして現在においては同様の手術内容では無く、確実に進歩している事を予めお伝えしておきます。☆☆
エアコンが切られ、硬質コルセットの下は、汗でミストサウナ状態だった。 おまけに、コルセットのエンド部分が傷口に当たり、擦れて化膿し、部分壊死を起こしていた。 「簡易手術」を行う事になったが、それは、一般病室の、自分のベットの上で行われたのだった。 多分、現在の医療においては、絶対に考えられない事なのではないだろうか。。。 こうして突発的な手術を行い、恐怖を味わい、疑問も残った訳だが、手術をおこなった傷口が綺麗になるまでは硬質コルセットを一時的に外し、腹に巻くタオルも要らなくなり、結果、ミストサウナの灼熱地獄からは解放された。 そして、抜糸が終わり、傷口が綺麗になり、再度硬質コルセットの装着が行われたのは、既に暑さのピークが過ぎ、病室の室温も下がって、夜も風が涼しくなって来た頃だった。 夏の真っ盛りに本手術、そして季節が移り、既に秋を迎えようとしていた。 コルセットの再装着は季節の移り変わりで徐々に暑苦しさは無くなったものの、寝苦しさは全く変わらなかった。 それはそうであろう、硬質プラスチックの筒が胴体を包み込んでいる訳で、その違和感と言ったら半端ではない。 ましてや、まだ移植した骨が安定していないので、自力で身体を動かす事を禁止されたままなのだ。 「いったい、いつになったら起きれるんやろう。。。?」 看護婦さんに、毎日何度となく寝返りを打たせてもらい、自分自身では身動きできない事に、少し苛立ちを感じていた。 しかし、食事だけは自分自身で出来るようになっていた。 食事については6で記した様に、ベット柵の上から延びる鏡にトレーに乗せられた食事を写し、仰向けに寝たままそれを覗き見てご飯やおかずを摘まんで食べるのだが、初めのうちは「鏡の逆さ世界」に戸惑い、チューブで汁物を吸う事に慣れず、顔の周りはこぼした食事でベトベトになっていた。 しかし、この頃には慣れて、全くと言って良いほどこぼさなくなっていた。 自分自身の力で身動き出来ない事で1番辛かったのは、下の世話(排便)まで看護婦さんに世話になっていた事だ。 (☆以下、汚い話しや赤裸々な話になりますが、事実をそのまま書く事をお許し願います。また、この記事で嫌な感じを持たれた方には申し訳なく、お詫びを申し上げておきます。) 当然、動くどころか起き上がる事も出来ないので、排便は全て病室のベット上で行う事になる。 尿は、尿道カテーテルによって常時排尿されて袋に溜められているので、看護婦さんが定期的にチェックして、袋から溜まった尿を抜いて行くため、いちいちナースコールをする事もなく、匂いも漏れず、他の患者さんに迷惑を掛ける事もない。 しかし排便は違う。 かなり迷惑をかけるし、恥ずかしく、辛い。 寝たきりなので食べる量は少ないが、便は少しずつでも必ず溜まるし、出さなくてはいけないものである。 そこで、便意をもよおすとナースコールをする訳だが、 Nr「はーい、何ですか?」 私「RMPPですが、便をお願いします。」 6人部屋に、スピーカー1つなので、看護婦さんとのやり取りが全て筒抜け。 それだけではなく、フルオープンされた病室のドアと窓から、廊下や両隣の病室にまで聞こえてしまう。 ナースコールの後、看護婦さんが3人やって来て、「せーの、1、2、3、ゴロン」と横向きに転がされる。 そして2人が、私の腰から太腿にかけて厚めのビニールシートを敷き、1人がお尻に大人用オムツを広げて当てがい、カーテンを閉めて、 Nr「さぁ良いですよ。終わったらナースコールして下さい。」 と言って出て行く。 ベットの上に下半身むき出しで、オムツを当てがわれて、「さぁ、どうぞ。」と言われても、出せるものではなかった。 いや、出したくても、出なくなるのだ。 それは、排便の音や匂いが病室に広がって他の患者さんに不快感を与えるのが申し訳なく、また、いくら看護婦さんと言っても、自分のマル秘部分を見られ、汚物処理をしてもらうのは恥ずかしい事から、精神的な要因が働いて出なくなるのだろう。 そして、さらにこんな事があった。 ある看護婦さんにされた言動に、かなりのショックを受け、それ以降、超便秘になってしまったのだ。 それは。。。 Nr「はーい。」 私「RMPPですが、終わりました。」 Nr「はーい、直ぐ行きます。」 看護婦さんは、排便の用意は3人で来るが、処理にはいつも1人で来ていた。 まず、便で汚れた臀部と肛門を「ちり紙」でザッと拭き、便と一緒にオムツに包んでビニール袋に捨てる。 次に「水に浸したコットン」で、再度、臀部と肛門を綺麗に拭きあげる。 そして、最後に「アルコールを浸したコットン」で肛門周辺を中心に吹き上げて終わり。 一番見られたくはないものであり、さらしたくはない姿を、仕方ないからとは言え、見せて、さらして、成すがままにならざるを得ない自分が情けなくなっていた。 この状況に、その看護婦さんは、さらに追い打ちをかけたのだ。 Nr「はい、皆さん済みませんでしたね〜、終わりましたからね〜、臭いから窓を全開にして空気を入れ替えましょうね〜。」 私は、この言動に痛烈なショックを受けた。 確かに今までも排便後は開窓して、病室の換気を行っていた。 しかし、普段から「申し訳ない」と思って心を痛めているのに、「臭いから。。。」の言葉をモロに発せられて換気されたのは初めてだった。 その看護婦さんには、何気無い一言だったのかもしれない。 しかし私には、痛烈なショックだったのだ。 この事で私は、便意を催しても、できるだけ我慢する様になってしまった。 すると、この我慢が逆効果をもたらしてしまった。 出来るだけ我慢をする上に、ただでさえ寝たきりで動けないので腸の動きも弱いから、本当に便秘になってしまったのだ。 便秘になり、何日も便が出ないと、まず便秘薬を飲まされる。 そして、お腹を、「の」の字を書くように押されて便秘マッサージをされる。 しかし、私の便秘は既に超頑固便秘なっていて、これくらいの処置では出なかった。 すると次にされるのは「浣腸」なのだが、浣腸の前にとんでもない検査をされた。 看護婦さん3人でゴロンと横向きに寝かされ、いつもの様に排便の準備をして、担当看護婦さん1人残って、こう言った。 Nr「浣腸の前に、どの位まで便が下りて来ているのか調べてみます。」 私には、何をしようとしているのか想像もつかなかった。 すると担当看護婦さんが、薄いビニール手袋をはめ、手袋の上からゼリーを塗って、さらにこう言った。 Nr「ゆっくり、大きく息をして、身体に力を入れずにリラックスして下さい。」 リラックスして下さいって言われても、何をされるのか分からないのに、できる訳がない。 すると看護婦さんは、 Nr「力んでると痛いですよ〜。」 と言いながら手袋に塗ったゼリーを延ばしている。 私は「痛い?、痛い事をするのか?」と、痛いと言う言葉が頭から離れずに、ますます力んでしまう。 すると、看護婦さんはいきなり、私の肛門に指を「ズブッ」と差し込み、直腸をかき回し始めた。 私は痛みと苦しさと恥ずかしさから、思わず「ウウッ」と唸ってしまったが、看護婦さんは、 Nr「力を脱いて下さ〜い。」 と言いながら、御構い無しにグイグイと指を突っ込んで、便の位置を確認している。 Nr「指先に当たる所までは下りて来てるけど、掻き出しは出来ない位置ですね。苦しいでしょうから浣腸しておきましょうね。」 私は、いきなりの事に唖然として、何の反応もできなかった。 それから数分後、私の下腹部に強い便意が起こり、一気に溜まったものが排出された。 それ以降の私は、臭かろうがどうだろうが、人の事を気遣う余裕など無くなった。 指を突っ込まれ、掻き回されて、浣腸までされるなんて、もう2度とゴメンである。 人の事など気遣う前に、出すものは出す事にした。 10に続く。。。 |
恐怖と苦痛のヘルニア手術
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☆☆これは私自身が経験した実体験であり、全て、今も鮮明に残っている記憶をもとに書き起こした話ですが、現在医療からすると未だ脊椎脊髄における固定手術の実例が少なく、整形外科分野の未開な部分であった事と、けっして現在においては同様の手術内容では無く、確実に進歩している事を予めお伝えしておきます。☆☆
プラスチック製の硬質コルセット、それはまるで剣道の胴を前後で合わせた様な代物。 所々に、現在の500円玉くらいの穴が空いているだけで、全くの筒状。 真夏の夜、こんな代物をタオルを巻いた身体に装着して寝るとどうなるか。。。 簡単に想像が付くと思う。 熱帯夜地獄の始まりだった。 21:30 エアコンが切れるので、病室内が若干静かになる。 05分経過。。。身体が汗ばむ 10分経過。。。額が汗ばむ 20分経過。。。首に汗が流れる その後は。。。サウナ状態。 これでは、眠れる訳がない。 右手にタオル、左手には吸い飲みを持ち、汗を拭き拭き、水をゴクゴク。 飲んだ水が、即、汗になる感じで、あっという間に身体に巻いたタオルが湿ってくる。 もう、コルセットの中はミストサウナ状態。 暑くて息も上がるし、たぶん、体温も上がっていたと思う。 暑くても暑くても身動き出来ないので我慢するしかない。 さらに、唯一のアイテム「吸い飲み」の水が無くなると、身動きの出来ない自分では水を足せないので最悪な状態になる。 当然、看護婦さんの助けが要るのだが、最初の頃は、ナースコールを夜中に押して他の患者さんに迷惑をかけるのが嫌で、看護婦さんの定時巡回を待っていた。 すると、口はカラカラ、汗はベトベト、脱水症状一歩手前状態になり、看護婦さんから「ちゃんと水分を取らないとダメですよ。」と叱られた事もある。 私の頭の中では「エアコン切らんやったら、こげな事には成らんったい。。。!!」と叫んでいた。 そんな事もあり、最初の対策として、吸い飲みの数を3個に増やした。 しかし、それでも足りない。 次の対策は。。。 ポカリスエットのストロー付きボトル!! これだと1リットル入るので大丈夫。。。では無かったので、2本用意していた。 これで脱水状態にはならずに済む。 しかし、水分を取ればその分汗もかく。 コルセットの下のタオルは汗でじっとりとなり、傷口が乾く妨げになっていた。 抜糸後、いつまで経っても傷口の消毒と絆創膏の取りかえが続いていた。 看護婦さんは消毒に来る度に、傷口が塞がらない事を、私自身以上に嘆いていた。 なぜなら、私にしてみれば背中の傷は見えない箇所だし、幸いに傷口周囲が痺れていて痛みを感じ難くなっていたので、どんな状態なのか計り知る事が出来ないが、看護婦さんは毎日傷口の様子を確認し、治りが遅いどころか悪化している様子に戸惑っていたからだ。 とうとうある日の事、看護婦さんが傷の具合をみかねて診察を依頼した様で、回診曜日でも回診時間でもないのに、主治医が病室までやって来た。 「カーテンを閉めて、RMPPさんを横向きに寝かせなさい。」 Drが、低い声で静かに指示を出した。 私は自分で動く事が出来ない(動く事を禁じられている)ので、体位を変えてもらう場合はいつも、看護婦さんが肩の位置、腰の位置、足の位置にそれぞれ1人ずつ立って、「せーの!」と掛け声を合わせ、3点一斉にゴロンと転がされていた。 このやり方は、腰部骨移植部分が捻れて、移植した骨がズレたり固定してあるボルトが外れたりするのを防ぐためだった。 なので今回も同様に、 「せーの!。。。ゴロン!」 私を、何度も寝返りさせているうちに、「ゴロン」まで掛け声に入るようになっていた。 主治医は横向きに寝かされた私の傷口の診察を始めた。 腰上部から順番に臀部まで消毒をしながら触診。 周囲から切開部に向かって軽く押したり摘まんだりしている様だった。 そして、腰椎と腸骨の境目部分で主治医の手が止まった。 約7〜8cmくらいの幅だろうか、集中的に強く押したり引っ張たりしている。 そして主治医は脱脂綿を少し小さく丸め、消毒液を含ませ、そこへピンセットで押し込んでいる様だった。 普通に考えると、治っていない傷口に消毒液を押し込まれればかなり痛いはずだと思うが、先にも書いた様に、幸いに傷口周囲が痺れていて痛みを感じ難くなっていたので、さほどでもなかった。 そんな治療を10分くらい続けていただろうか、主治医はピンセットを置き、看護婦さんに指示を出した。 Dr「切除術と縫合を行うので直ぐに局所麻酔とオペの準備をしなさい。」 RMPP「え〜!!、オペ???」 私の頭の中には「オペ」と言う言葉が山彦の様に響き渡り、心臓の鼓動が急速に早くなった。 Nur「はい分かりました。オペ室は?」 Dr「今からオペ室の確保は出来ないので、ここでします。簡易手術なので大丈夫でしょう。」 RMPP「えっ、え〜っ?、こ、ここで〜???」 オペという言葉だけでも恐怖なのに、「ここで」と聞いて一気に身体中から汗が吹き出した。 しかも、「大丈夫でしょう」の言葉。 「。。。でしょう」???、 「。。。でしょう」とは推測であって、もしかすると大丈夫ではないかもしれないって事??? 再度説明しておくが、「ここで」とは、6人部屋の一般病室の事で、手術台は私のベットであり、直ぐ横には別の患者さんが寝ている。 こんな環境下で、カーテンを全閉しただけで、「切除術」をする事になったのだ。 突然の展開に、私の頭も心臓もバクバクで、何が何やら理解不能となっていた。 主治医の指示から何分くらい経っただろうか。 動揺している私の頭には時間経過の記憶がないが、いつの間にかベットの上に汚れ防止の抗菌ビニールシーツが敷かれ、ベット脇にはメスやピンセットや、何やかんやの器具が乗せられたワゴンが用意されていた。 8月真夏なのに、いつも暑くてたまらないのに、なぜか身体が小刻みに震えて止まらなかった。 主治医が言った。 「RMPPさん、切除術を始めます。手術内容は、圧迫と感染で化膿および壊死した肉を切除して縫合し直す手術です。原因は、硬質コルセットのエンド部分が、偶然にも切開した傷に沿って当たってしまい、擦れて炎症を起こし、そこから雑菌が入って化膿と部分壊死を起こしています。手術時間的にはそれほど掛からないと思います。局所麻酔をして行いますので、痛みはさほど無いと思います。安心して下さい。それでは始めます。」 先生のこの説明は、この日に偶然に見舞いに来てくれていた母に後から聞いた内容で、「痛みはさほど無い」と言う部分を除いて、全く私の耳には入って来なかった。 手術が開始された。 Dr「麻酔打ちますよ」 何かが触る感覚はあるが、傷口周囲の「痺れ」で、局所麻酔の注射も痛くは無かった。 この事が私の気持ちを少し落ち着かせた。 しかし、「痛みはさほど無い」という言葉を、何度も何度も繰り返しつぶやき、自分自身に暗示を掛けていた。 主治医は終始無言でメスを振るっていた。 「ジョリ、ジョリ、ゴツゴツ」と、傷口を再切開し、肉を削り落とす小さな音が聞こえた。 その音が、想像しなくても良い手術風景を想像させ、恐怖心をどんどんと募らせて行った。 「痛みは無い。。。痛みは無い。。。」 私は、念仏のように唱え続けていた。 主治医の説明では、それほど時間は掛からない手術のはずだった。 しかし、実際は1時間以上掛かってしまった。 いざ化膿した部分を切開したところ、想像以上に悪い箇所が深く、広範囲に渡って深く切除しなければならない状態で、局所麻酔を追加しながら手術を行ったらしい。 結果、約10cmに渡り切開後壊死した肉を除去し、11針を縫い直した。 しかし、自己暗示のおかげか、麻酔の効果と元からの痺れのおかげか、痛みは本当にほとんど感じなかった。 それだけが助けだった。 こうして突如「簡易手術」をされた訳だが、疑問がどうしても残る。 まず一つ目。 ここまで悪くなる前に手の打ち様があったはずである。 当然、毎日傷の消毒をしていたのだから様子は把握していたはずだし、消毒をしていたのに雑菌感染するのか?と言う事だ。 二つ目。 簡易手術とは言え、一般病室で手術をして良いのだろうか? もしも、手術中に菌感染した場合、どう責任を取るのか? 多分、現在の医療においては、絶対に考えられない事なのでは無いだろうか。。。 9に続く。。。 |
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☆☆これは私自身が経験した実体験であり、全て、今も鮮明に残っている記憶をもとに書き起こした話ですが、現在医療からすると未だ脊椎脊髄における固定手術の実例が少なく、整形外科分野の未開な部分であった事と、けっして現在においては同様の手術内容では無く、確実に進歩している事を予めお伝えしておきます。☆☆
一般病室に戻り、介助もなく全て自力で食事をさせられていた私は、箸やスプーンを使うにも痛みに耐え、神経を使い、それは楽しみではなく、ただ空腹を満たすだけの作業となっていた。 さて、四苦八苦奮闘しながらも食事を摂り始めると、少しずつ体力も戻り始め、腕に刺されていた点滴が1本、また1本と外してもらえた。 そして、ついに左の手の甲に刺された1本だけになった。 しかし、最後まで残ったのは何の点滴だったのか分からない。 今思えば、点滴薬については、一切の説明がなかった様に思う。 さてこれで、かなり腕が動かし易くなった。 しかし、まだうかつに動かすと、腰に電撃痛が走る。 前にも書いたかもしれないが、身体の調子が良い普通の日には分からないが、身体中、全ての動きは腰につながっていると思う。 腕は動かし易くなっても、腰を動かす事はまだ出来なかった。 なぜなら、除去した椎間板の部分に、削った腸骨を骨移植しているので、骨が繋がるまでは、動かすと移植した骨がずれて大変な事になるからだ。 もしそうなれば、直ちに再手術になるらしい。 再手術なんて絶対にNG!!! 2度と、今までの様な苦しみは味わいたくない、 なので、まだ両脇のサンドバックが外せない。 いつになれば外せるのか主治医に聞いたのだが、 「一ヶ月経ってからレントゲン検査をして、それからになります。」 と言う事だった。 この時点で、まだ半月以上あった。 8月、真夏日の続く毎日で、両脇のサンドバッグは風を通さず、体温は逃がさず、蒸れて湿疹まで出来るほどだった。 こんな状況だったが、昼はまだ院内にエアコンがついているのでましな方だった。 本当に辛いのは夜だった。 9時消灯後、9時30分にエアコンが切られると一気に蒸し暑さが高まり、中庭側の2階の部屋で、おまけに1番通路側だったので風通しが悪く、痛みの他にも暑さで眠れない日々が続いた。 こうして、痛みに耐え、食事に苦労し、暑さに耐えながらの2週間が過ぎた。 そしていよいよ抜糸とドレーン抜管の日がやって来た。 それに、最後の点滴も抜けると言う事だった。 抜糸までに通常よりも日数が掛かったのは、大きく切開していた事と、暑さで蒸れて(?)傷のふさがりが悪かったからだった。 よって普通よりも長い日数を縫っていたのだが、傷は完全には塞がっていないのに糸の周りの糸が肉に食い込んで糸が抜け辛い状況になっていた。 実際に、この傷のふさがりが悪い事で、想定外な簡易手術を受ける事になるのだが。。。 さてさて、やっとの思いで体に繋がれたチューブ類が無くなった。 いや違う、まだ1本残っていた。 尿道カテーテル!! これはまだ抜けないらしい。 何せ、まだ体を動かせないので尿瓶も使えず、抜く訳にはいかないのだ。 スッキリしない思いだったが、諦めた。 背中のドレーンが抜けた事で喜んだのも束の間、さらなる苦痛の始まりだった。 それは、脇の下から腰骨まである、プラスチック製の硬質コルセットを装着されたからだった。 それはまるで、戦国時代の鎧の様な代物で、止め金具が付いていて「ガッチャン」と止めて装着する。 所々に、現在の500円玉くらいの穴が空いているだけで、全くの筒状。 それに、入院前の体型に合わせて作っていたので、装着開始時には身体が痩せてコルセットが大きくなっていて、タオルを巻かなければ全くフィットしなかった。 入院前に型を取った時には、こんな代物になるとは思いもしなかった。 真夏の夜、こんな代物をタオルを巻いた身体に装着して、サンドバッグに挟まれて寝るとどうなるか。。。 簡単に想像が付くと思う。 簡易手術へと続く、灼熱地獄の始まりだった。。。 8に続く。。。 |
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☆☆これは私自身が経験した実体験であり、全て、今も鮮明に残っている記憶をもとに書き起こした話ですが、現在医療からすると未だ脊椎脊髄における固定手術の実例が少なく、整形外科分野の未開な部分であった事と、けっして現在においては同様の手術内容では無く、確実に進歩している事を予めお伝えしておきます。☆☆
術後7日を境に痛みは日に日に治まり、痛み止めの注射は常習性の懸念から飲み薬と座薬に切り替わった。 そして一般病室へ移された。 一般病室は6人部屋の、1番入り口に近いベットだった。 電動で、高さ調節と、頭と足に角度が付けられる様になっていた。 ベットには薄い布団が敷いてあり、汚れても直ぐ替えられる様にビニール製のカバーとシーツが敷かれていた。 さらにその上に、看護婦さんからの指示で、家から持って来た大きなタオルケットを敷いて寝かされた。 (このタオルケットが、重要な役割を持っていた。) ベットはフラット状態で、枕はさせてもらえず、バスタオルを畳んだだけの薄い物だった。 当然、両脇はサンドバックに挟まれていた。 痛みが弱くなって行くと、食欲も徐々に出てきた。 重湯から始まり、三分粥、五分粥、七部粥、全粥、白飯と変わって行き、普通食に戻るのに、10日ほど掛かった様に思う。 さて、食欲が戻った事は回復している証拠なので喜ばしい事だが、身動き出来ない状態で、どの様にして食事をとっていたかという事。 お分かりになるだろうか? 看護婦さんが食べさせてくれた?。。。違う。 看護婦さんは、一切食事の介助はしてくれなかった。 家族に食べさせてもらった?。。。これも違う。 実は、全て自分で食べていたのだ。 私は仰向けで寝ており、動かせるのは両腕のみ。 身体を起こす事はまだ出来ない。 食事はトレーに乗せられ、胸元に引き寄せた食台に置かれる。 私の目の位置からは、トレーの上の様子は一切見えない。 この状態で、唯一手助けになるのが、頭側のベット柵に取り付けられた鏡だ。 鏡は、角度の変えられる金属製のアームに取り付けられていて、トレーの上までアームを伸ばし、鏡越しに食事の内容や食器の位置を確認した。 食事に使う道具は、一般的なスプーン、フォーク、箸。 鏡越しに覗きながらご飯やおかずを掴むのだが、鏡越しだと左右が逆に映るため動きが逆になり、慣れないうちは全く思う様に掴めないのでイラつく。 それと重要なのは、長さは40cmくらいのビニールホース。 これを口にくわえ、ストローの様に使って汁を飲むのだが、これも使うのにコツがいる。 このコツをマスターしていなければ大変な事になってしまう。 そのコツとは、飲むのを一時止める時に先に口を離すのではなく、必ず先に汁椀に入れたビニールホースを抜く事 。 そして、ホース内に残っている汁を飲み切ってから口を離す事だ。 もし口を先に離してしまうと、高低差による圧力でお椀の中にある汁が全部自動的に流れ出てくる。 顔もベットもビショビショになってしまう事になる。 顔の横にはタオルが欠かせないアイテムとなっていた。 腕を動かせるほど痛みが弱くなったとは言え、切開した傷の痛みが弱くなっただけで、本来の患部である腰椎部分は、うかつな腕の動かし方をするとズキンと痛む。 そんな訳で、「食事」には神経を使い、楽しみではなく、ただ空腹を満たすだけの作業となっていた。 7に続く。。。 |
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☆☆これは私自身が経験した実体験であり、全て、今も鮮明に残っている記憶をもとに書き起こした話ですが、現在医療からすると未だ脊椎脊髄における固定手術の実例が少なく、整形外科分野の未開な部分であった事と、けっして現在においては同様の手術内容では無く、確実に進歩している事を予めお伝えしておきます。☆☆
手術による3000ccの輸血。 約半分が他人の血と入れ替わったわけだ。 20年前の事なので、考えただけでも危険度MAXだ。 私は、「下肢麻痺、勃起障害、肝機能障害」の三重苦になった自分を想像して恐怖に怯え、手術をした事に大きな後悔をした。。。 さて、話は少しさかのぼる。 痛みに苦しんだ術後だが、手術の翌日、麻酔も完全に切れ、痛みで意識も完全に戻っていた。 するとどうだ、両手肘関節内側、両手の甲、両足首に、6本も点滴の針が刺さっていた。 さらに、尿道カテーテルが差し込まれ、背中からは血抜きのドレーンが出ており、結局、身体から合計8本の管が出ていた訳だ。 術直後は痛みで身体が動かせなかった訳だが、これでは痛みが無くても動かせる状態では無かった。 私は、痛みに耐えるのに、身動き一つできずに我慢するしか無かったのだ。 身動き出来なかった理由がもう一つある。 それは、両脇の下から腰骨まである、直径15cmくらいの丸い筒状のサンドバックが置いてあったからだ。 これは、無意識のうちに身体をひねったり寝返りを打つなどをして、移植した骨がズレるのを防ぐための防護壁の役割を果たしていた。 集中治療室での痛みに耐えた日々は、身動きできないまま、天井だけを見て過ごした日々だった。。。 手術から6日目、両足首に刺さった点滴は抜かれていたが、両肘裏と両手の甲、カテーテルとドレーンの6本の管は刺さったままで、両脇のサンドバックにも押さえられ、依然として身動きができないままだった。 しかし、少しずつ少しずつではあるが、痛みは弱まり、痛み止めを打つ間隔が長くなっていた。 そして、看護婦さんの言った言葉を信じて痛みに耐えていた。 その言葉とは。。。 「1週間すれば楽になるから、必ず楽になるから。。。」 この言葉を信じて6日間痛みに耐えてきた。 6日目の夜は、痛みを我慢しながらも「朝になったら楽になる。」と言う期待感と、「本当に楽になるのだろうか。。。」と言う不安感でいっぱいだった。 7日目の朝。 今までの朝は痛みで時間に関係なく目が覚めて、次に注射が出来る時間になるまで我慢しなくてはならない辛い朝だった。 しかしこの日は違った、明らかに違ったのだ。 「RMPPさん、検温ですよ。」 看護婦さんの声で起こされた。 私は少し朦朧とした頭のまま体温計を何気なく受け取った。 「自分で計れますか?」 看護婦さんの言葉に「ハッ」とした。 昨日までは腕を上げられず、看護婦さんに検温してもらっていた。 それがこの日から腕が少しあげられ、体温計を受け取る事が出来る様になっていたのだ。 「本当やった!、看護婦さんが言った事は本当やった!」 しかし、さすがに自分で脇まで持って行くことはできずに、看護婦さんにお願いした。 痛みが無くなった訳ではなかったが、腕を動かせる事が、痛みが緩和している証だった。 そしてこの日を境に、痛みは日に日に治まり、痛み止めの注射も打たなくなった。 いや、常習性が強くなる恐れから打ってもらえなくなり、飲み薬と座薬に切り替わった。 そして一般病室へ移された。 一般病室へ移されてからも辛い日が続いた。 確かに痛みは日に日に弱まり、食欲も徐々に出てきた。 腕も動かせる様になり、少しずつできることが増えて行った。 しかし、それらが逆に辛い思いをさせる事にもなった。。。 6に続く。。。 |





