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先週の土曜日、6月26日に父の四十九日の法要を無事に済ませたので、休んでいたブログを再開しようと思います。
ブログを再開する前に一つの区切りとして、父のことに触れておこうと思います。
父は昭和5年に、島根の片田舎に農家の長男として生まれました。
昭和19年に祖父が陸軍に招集され、それを追うように海軍の少年航空兵に志願し、予科練に入隊しました。国民学校高等科2年、今で言うと中学2年です。幸いにも予科練にいる間に終戦となり、故郷へ帰ってきました。もう少し戦争が長引けば、父の命はもちろん、子供である私達兄弟もこの世に存在しなかったことになります。
終戦後は、中国で戦病死した祖父に代わり、農業を継ぎました。7人兄弟の長男として、時には幼い兄弟の父親として、孤軍奮闘の日々を送ったようです。
その後母と結婚し、二男一女(つまり私達兄弟ですが)をもうけて貧しいながら幸せな日々を送っていました。
父は多趣味でした。旅行、カメラ、カラオケ、社交ダンスなど、仕事以外にも忙しい日々を送ったようです。特に私達が就職して身軽になってからは旅行三昧の日々で、北は北海道(利尻、礼文島)から南は沖縄(先島諸島)まで、日本国中行かない所は無いくらいに満遍なく周っています。
そんな父に病魔が忍び寄ったのは約30年前のようです。その病魔とは、C型肝炎。近年はやりのC型肝炎ですが、父の場合何処でどのように感染したのか全く不明です。まさに青天のへきれきだったと思います。5年前にはガン化していることが分かり、その後入退院の日々を過ごすようになります。
辛い治療だったようですが、父は真面目に治療を受けていました。晩年父の主治医が、『真面目に治療を受けなかったら30年近くも生きてこれなかっただろう』と父に語ったようです。考えて見れば予科練時代に一度覚悟した命、父の日頃の潔さは常に覚悟した命だったからかもしれません。
父の最期は穏かでした。まるで眠っているような死顔でした。亡くなる前日までは自宅で過ごし、容態が悪化してから亡くなるまではほんの数時間だったようです。父の希望通り無駄な延命治療は行いませんでした。
そのため、連絡を受けてからすぐに駆けつけたにもかかわらず、父の死に目には5分ほど間に合いませんでした。病室に入った時、ナースステーションから空しく聞こえてきた「ピー」という抑揚の無い機械音が、父の絶命のサインなのだという事がすぐに分かりました。まだ温かい父の手を握り、年がいもなく号泣しました。
それからの1週間は、まるで夢の中を過ごしたような感覚でした。突然の父の死を半ば受け入れられないままに、葬儀の段取りは進んでいきました。
通夜と葬儀をあわせて500人ほどの方々がご参列下さいました。みなさん口々に父の死を悼み、生前の父との係わり合いをお話くださいました。中には、数十年前にこの地から都会に移り住んだ方のご参列もありました。あまりに懐かしい顔に思わず涙し、お礼の言葉も途切れがちになりました。
参列くださった方々に感謝するとともに、「父が常に真心で人々に接していた証なのだ」と亡き父に教わった思いでありました。
余談ですが、父が亡くなったあと古い写真を整理し、スキャンしてデータ化しました。法要のあとで、テレビをモニター代わりにして参列者に披露しました。予科練に旅立つ前の記念写真や昭和時代の暮らしの写真もあり、皆さん懐かしさに涙されていたようでした。もう少し早く思いついて、生前の父に見せてあげられたらと少し悔やんでいます。
湿っぽい話で恐縮ですが、これで一区切りをつけて、またブログ生活に戻ることにします。ただ心配なのは、1ヶ月以上離れていたので、私のブログを見て下さる人がいないのではということですが、「その時はその時で」。とりあえず、再開します。
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