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「凛と蘭と気まぐれ日記」にご訪問いただきありがとうございます。
このブログとは、別のブログ「りんらんぱぱの気まぐれ漫歩記(そぞろあるき)」を開設しております。
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先週の日曜日に資格試験が終わり、久々にブログに帰ってまいりました。
まず、先週の土曜日。同じ試験を受ける会社の同僚と、「やくも&ひかり」に乗って大阪に到着。「ホテル法華クラブ大阪」に投宿しました。このホテルを選んだのは、翌日の試験会場へのアクセスが良いからです。
着いたのは夕方5時だったので、早速二人で食事に行きました。ホテル近くの商店街の居酒屋で軽く一杯!適当に飲んで、明日に備えるつもりでした。しかし、これがケチのつけ始め。
一品目は「アンキモ」を注文。考えてた味より少し劣るけど、まあまあこんなもんか、と思いながら完食。二品目に注文したのは「あんこうの唐揚」。届いた唐揚を一口、口に入れて絶句しました。「ま、まずい!!」唐揚とは似て否なるのも、要するにベチャベチャでまるで揚がっていないのです。普段温厚で知られる(?)私ですが、これには我慢できず、同僚にこっそり告げて店を出ました。
納得いかないので、もう一軒行くことに。しかし、次の店でも同じような目に合い、「これは、前途多難だなあ。」と思いながら、ホテルに帰りました。
さて試験当日。試験は、朝の10時からでした。気を取り直して、9時過ぎに試験会場に到着。10時から12時までの2時間で、2400字の論文問題です。問題1は、あらかじめ暗記してきた論文を書くだけなので簡単、簡単。と思いきや、試験問題を見たとたん目が”テン”になりました。なんと、昨年までと設問が違うのです。そして、設問が変わったため、答案を書く升目の数も変更になっています。「10年以上同じ設問だったのに、なんで今年はちがうんだろう!」夕べのあんこうの祟りかもしれない、そう思いながら、なんとか答案を仕上げました。
12時から1時間の休憩。試験案内に、「大阪会場には学生食堂があります。」とあったので、一階の食堂に向かいました。しかし、なんと開いていません。不思議に思い、守衛室で聞いてみました。「今日は日曜なので休業です。」つれない返答に、ただ唖然とするだけでした。祟りはまだまだ続いているようでした。
午後は、13時5分から17時15分までの長丁場です。
問題2は、四択問題で、業務に関する一般的な問題が40問。
問題3は、業務管理に関する1600字の論文。
問題4-1は、四択問題で、専門に関する一般的な問題が20問。
問題4-2は、四択問題で、専門に関する問題20問のうち10問選択。
これを、約4時間でこなさなければなりません。
試験開始と同時に、問題3の設問を見る。「ええ!!」、なんと予想された問題が出ていない。実は、8月に高松にうどんを食べに、ではなくて、準備講習会に行った際に講習の先生が、「この問題が出ますので、確実に覚えてください。」と、ご教授を受けていたのです。真っ正直な私は言われた通りに、その問題を中心にして書けるように取り組んできたのです。なのに、なのに・・・・。2軒目のフグの祟りかもしれない。
まあ、休日のほとんどを勉強時間に割いてがんばってきたわけですから、こんなことに負けるわけにはいかない、ということで、無い頭をしぼって、書きました。あること、ないこと(?)、勉強してきたすべてを、1600字の答案にこめて、なんとか升目を埋め、終了30分前に会場を後にしました。
翌日から、インターネット上に択一問題の正解を議論する掲示板が設けられました。
それによると、問題2 68点、問題4-1 75点、問題4-2 60点のようです。足きりが50点なので、なんとか足きりは免れたようです。
あとは、論文問題がいかに評価されるかです。もう祟りが残って無いと良いのですが。
ということで、今日からブログを再開いたします。
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先週の土曜日、6月26日に父の四十九日の法要を無事に済ませたので、休んでいたブログを再開しようと思います。
ブログを再開する前に一つの区切りとして、父のことに触れておこうと思います。
父は昭和5年に、島根の片田舎に農家の長男として生まれました。
昭和19年に祖父が陸軍に招集され、それを追うように海軍の少年航空兵に志願し、予科練に入隊しました。国民学校高等科2年、今で言うと中学2年です。幸いにも予科練にいる間に終戦となり、故郷へ帰ってきました。もう少し戦争が長引けば、父の命はもちろん、子供である私達兄弟もこの世に存在しなかったことになります。
終戦後は、中国で戦病死した祖父に代わり、農業を継ぎました。7人兄弟の長男として、時には幼い兄弟の父親として、孤軍奮闘の日々を送ったようです。
その後母と結婚し、二男一女(つまり私達兄弟ですが)をもうけて貧しいながら幸せな日々を送っていました。
父は多趣味でした。旅行、カメラ、カラオケ、社交ダンスなど、仕事以外にも忙しい日々を送ったようです。特に私達が就職して身軽になってからは旅行三昧の日々で、北は北海道(利尻、礼文島)から南は沖縄(先島諸島)まで、日本国中行かない所は無いくらいに満遍なく周っています。
そんな父に病魔が忍び寄ったのは約30年前のようです。その病魔とは、C型肝炎。近年はやりのC型肝炎ですが、父の場合何処でどのように感染したのか全く不明です。まさに青天のへきれきだったと思います。5年前にはガン化していることが分かり、その後入退院の日々を過ごすようになります。
辛い治療だったようですが、父は真面目に治療を受けていました。晩年父の主治医が、『真面目に治療を受けなかったら30年近くも生きてこれなかっただろう』と父に語ったようです。考えて見れば予科練時代に一度覚悟した命、父の日頃の潔さは常に覚悟した命だったからかもしれません。
父の最期は穏かでした。まるで眠っているような死顔でした。亡くなる前日までは自宅で過ごし、容態が悪化してから亡くなるまではほんの数時間だったようです。父の希望通り無駄な延命治療は行いませんでした。
そのため、連絡を受けてからすぐに駆けつけたにもかかわらず、父の死に目には5分ほど間に合いませんでした。病室に入った時、ナースステーションから空しく聞こえてきた「ピー」という抑揚の無い機械音が、父の絶命のサインなのだという事がすぐに分かりました。まだ温かい父の手を握り、年がいもなく号泣しました。
それからの1週間は、まるで夢の中を過ごしたような感覚でした。突然の父の死を半ば受け入れられないままに、葬儀の段取りは進んでいきました。
通夜と葬儀をあわせて500人ほどの方々がご参列下さいました。みなさん口々に父の死を悼み、生前の父との係わり合いをお話くださいました。中には、数十年前にこの地から都会に移り住んだ方のご参列もありました。あまりに懐かしい顔に思わず涙し、お礼の言葉も途切れがちになりました。
参列くださった方々に感謝するとともに、「父が常に真心で人々に接していた証なのだ」と亡き父に教わった思いでありました。
余談ですが、父が亡くなったあと古い写真を整理し、スキャンしてデータ化しました。法要のあとで、テレビをモニター代わりにして参列者に披露しました。予科練に旅立つ前の記念写真や昭和時代の暮らしの写真もあり、皆さん懐かしさに涙されていたようでした。もう少し早く思いついて、生前の父に見せてあげられたらと少し悔やんでいます。
湿っぽい話で恐縮ですが、これで一区切りをつけて、またブログ生活に戻ることにします。ただ心配なのは、1ヶ月以上離れていたので、私のブログを見て下さる人がいないのではということですが、「その時はその時で」。とりあえず、再開します。
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先週の日曜日、父が他界しました。
昨年から入退院を繰り返していましたが、こんなに早く逝くとは家族の誰も想像すらしておりませんでした。
故人を偲ぶ暇もないままに、取り急ぎ通夜、葬儀を済ませ、今やっと落ち着いてきたところです。
今は、ブログ記事を書く暇も意欲もない状況なので、しばらくの間ブログをお休みいたします。
父の喪が明けるころ、また新たな気持ちで、ブログを再開しようと思います。
私のブログにご訪問くださる方々、それまでしばしのお別れです。お元気で、お過ごしください。
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庭いじりはほとんどしないのですが、庭の花は毎年りちぎに花を咲かせてくれます。今年も綺麗な花をつけてくれました。
紫蘭 サツキでしょうか 花の名前はほとんど知らないので、何の花か分かりません。 |
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