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『メキシコ市の人形工房にお目見えしたメキシコの著名な画家、フリーダ・カーロ(1907―54年)の人形。価格は1体約2万4000円で、15日に同国や英・仏・独・日本などで同時発売される(9日、メキシコ)』の記事がありました。 人形になるフリーダ・カーロは、どんな女性なのでしょうか。 フリーダ・カーロ(Frida Kahlo 1907-7-6〜1954-7-13) メキシコの女流画家。メキシコやラテンアメリカの女性憧れと尊敬の対象で、理想像にもなっています。 インディオの血を引く母親とドイツ系ユダヤ人移民の父親の間に生まれ、メキシコの革命の息吹を背に成長していきます。 6歳のときポリオに罹り右足が不自由になったフリーダは、医師をめざし、国立予科高等学校に入学しますが、18歳のとき、電車に乗っていて事故に遭い、瀕死の重傷を負います。その後遺症で生涯に30回以上の手術を受け、金属製コルセットなしには生活が出来ず、痛みには生涯苦しみます。 事故に遭う前のフリーダは、男装をしたり、レズビアンの体験をしたりと、“手に負えない”生徒であったようです。 入院中に、天井に鏡をとりつけ、独学で絵を描くようになります。2年近くの寝たきり生活から解放されたフリーダは、当時メキシコで起きていた新しい芸術運動に加わり、そのリーダーである壁画家のディエゴ・リベラ(Diego Rivera 1886〜1957)と出会い、才能を認められ、恋愛、1929年に結婚をします。フリーダ22歳とリベラ43歳でした。 結婚したフリーダは、民族衣装をまといリベラ好みの妻になろうとしますが、夫リベラは性を謳歌するタイプでした。リベラとの子供を望んでも流産の繰り返し、他の女ならまだ我慢も出来たろうに、夫と自分の妹クリスティーナとの不倫が発覚します。 それでもフリーダは、孤独を味わいながら画家として成長していきます。しかし、身も心も傷ついていました。傷を癒すようにカメラマンのニコラス・ムライ、ロシアからの亡命革命家レオン・トロツキー、彫刻家のイサム・ノグチと恋愛をします。 1939年、フリーダはパリで作品展を開き、ピカソやカンディンスキーから絶賛され、自画像『額縁』がルーブル美術館に買い上げられます。ヨーロッパ的感性をもった知的な独特のシュルレアリスムの創作は、フランスでも高く評価されました。フリーダにとって画家としての成功は、何よりの喜びでした。 この年リベラと離婚します。フリーダはリベラと離れたくない、リベラを失いたくない思いの中で苦しみ続け、傑作『二人のフリーダ』を完成させます。 翌年、リベラと再婚します。 この頃のフリーダは画家として活動するだけでなく、美術学校で教鞭をとり、芸術家の育成に励んでいました。 フリーダはメキシコ共産党に入党。アメリカのグアテラマ介入に対する抗議デモにも参加しています。 フリーダ・カーロは、肉体と精神の痛みに耐え、自分自身を描くことに情熱を降り注いだ、自画像の画家です。「私は、決して夢は描かなかった。私自身の現実を描いただけ」とフリーダは言っています。 フリーダ・カーロは1954年の初夏、47歳の生涯を閉じます。最後の作品は『スイカの静物画』、そこに記された言葉は「ヴィバ・ラ・ヴィーダ=いのち万歳」でした。 フリーダの人生の望みは、絵を描くこととディエゴ・リベラを愛することでした。 フリーダの日記にこんな一節があります。 『ディエゴ…始まり ディエゴ…建設者 ディエゴ…私の子 ディエゴ…私の恋人 ディエゴ…画家 ディエゴ…私の愛する人 ディエゴ…私の夫 ディエゴ…私の友 ディエゴ…私の母 ディエゴ…私の父 ディエゴ…私の息子 ディエゴ…私 ディエゴ…宇宙 統一の中の多様性 なぜ私のディエゴと呼ぶの? 今までも、そしてこれからも決して私のものとはならない人なのに あの人は彼自身のものなのだから』 現在フリーダ・カーロの生家「青の家」(La Casa Azul)は、「フリーダ・カーロ博物館(Museo de Frida Kahlo)」となっています。 また、フリーダの生涯は何度か映画化されていますので、ご覧になった方がいるかもしれませんね。 映画フリーダ公式ホームページ きょうのlivedoorは交換だって??です。
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2005年12月12日
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