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今日は昔の思い出を語らせてください。 題名からすると、とっても美しい思い出みたいですが、もの凄〜くドロドロの思い出です。 彼と出会ったのは私が24歳、ちょうどボディビルを始めた年で、彼とは梅新(大阪)のエグザスinヒルトンプラザのマシンインストラクターとしてアルバイトで一緒に働いていました。 彼は1つ年下の美男子(ジャニーズ系)で、話し上手で楽しい人だったので女の子には人気がありました。 でも私のタイプではなかったし、年下の可愛い男の子くらいにしか思っていませんでした。 それが、どこでどうなって付き合い始めたのか、今から考えると不思議でなりません。 運命の人‥と言うには少し違うかもしれないけど、お互い好きになるのに時間はかかりませんでした。 付き合いだして半年も経たないうちに2人で家を出てアパートを借りました。 最初のアパートはボロボロで温水器もなく、洗濯機を買うお金もなくて、まるで『神田川』‥ 毎日がギリギリの生活だったけど、2人一緒に居れるだけで幸せでした。 冬の冷たい水で手を真赤にしながらする洗濯もちっとも苦になりませんでした。 それまで親元でヌクヌクと育ってきた私には何もかもが新鮮で、毎日が自由で楽しかったです。 私の親はいくつになっても厳しくて、門限だの世間体だの髪型がどうだのとうるさかったです。 半年ほど経った頃でしょうか、彼のお父さんが病気で亡くなりました。 危篤状態だと連絡が入り病院に駆けつけたとき、彼の来るのを待たずにお父さんは息を引き取りました。 たまたま先に着いた私がお父さんの最後を看取ることになりました。 お見舞いに行く度に「○○を頼みます‥」と言っていたお父さん。 私は最後にお父さんの手を握って‥ 「○○さんのことは大丈夫です、私が一生ついていますから安心して下さい。」 そう誓ったのです‥。 お葬式の日、親戚の人に「僕の嫁さんです」と紹介していた彼。親戚の人も快く迎えてくれました。 私は、おにぎりを作ったり、玉子焼きを焼いたり、お惣菜を作ったり、たいした事はできませんでしたが精一杯出来るだけのことをしました。(彼には1つ上のお兄さんがいましたが独身でした。) 火葬場で倒れそうになったお母さんの手を握り、ずっと側についていました‥。 そんな事もあり、お互いに無くてはならない存在になるのに1年も掛からなかったような気がします。 彼と私は性格はまるで違いましたが趣味が合ったし感じ方が似ていました。同じものを見て同じことを感じる‥良く同時に同じ言葉を言って笑ったものです。だから彼の考えていることも良く分かったりしました。前世のどこかでつながっていたのかもしれない‥そんな風にも思いました。 彼の好きだったセナを愛し、彼の好きだったプロレス(猪木)のファンになり、彼の好きな浜田省吾ばかり聞いて過ごしました。休みの日はバイクの後ろに乗って一緒に風を感じました‥。 ドリカムの『未来予想図』を聞くと今でも思い出して涙が出ます‥。 そんな2人の間がおかしくなり始めたのは2年経った頃からでしょうか、彼の浮気癖が出たのです。 ちょっとした事で怒っては、私に手を上げるようになりました。 喧嘩の後、何度か家を出たりもしましたが、結局いつも探し出されて連れ戻され 「もう二度と手は出さない、悪かった」の繰り返しでした。 普段はとても優しくて、喧嘩して殴られても最後には「お前しか居ないから‥」の言葉を信じてしまう私でした。 その頃は別れるなんて事は考えられず、どんな目に会わされても耐えて、いつも信じて待っているだけでした。 この人の為なら死んでもかまわない‥なんて思っていたのですから。私も純粋で若かったのですね‥。 彼から結婚という言葉が初めて出たのは、彼の念願だったプロレス界での就職が決まり東京に行くことになった時でした。 当時、私は昼は駆け出しのプログラマー、夜はスナックでバイトと毎日が忙しく、仕事を辞めて東京について行くなんて考えられませんでした。 誰も知り合いのいない東京で地方興行に出て帰ってこない彼を1人で待っているなんて、とても出来ません。 涙のお別れの後、彼は東京でヤリタイ放題の生活、私は大阪で1人待つ女の生活が始まりました。 仕事が楽しかったこともあり、寂しさはあまり感じませんでしたが。居所も分からない、連絡も取れない彼がだんだんと信用できなくなり、信じて待っている自分がバカみたいに思えて来ました。 このまま待っていても何も始まらない‥いつまでも彼に振り回されている自分が嫌になり、とうとう東京に出る決心をしました。 当時はバブルの全盛期で派遣の仕事がいくらでも在った時代でした。 東京で働きませんか?ワンルームマンション完備!の文句にとびついて、東京に行ったのが27歳の終わり頃でしょうか。 東京は本当に楽しかったです。新宿、原宿、六本木、飲んで歌って踊って‥毎日これでもか、って言うほど遊びまくり夢のような生活でした。休みの日は鎌倉の材木座でウインド。仕事にも遊びにも充実した東京生活でした。 彼とはたまに会う程度でしたが、会うたびにポロポロとボロが出て、彼女と暮らしている事や住んでいるアパートまで突き止める事ができました。 「私から別れると言ったら殺されるだろう‥」その頃、私は本気でそう思っていたので、彼女の事を知っても何もしませんでした。ただ本当の事が分かっただけで満足でした。 ある時、その彼女から電話が掛かって来てビックリしました。 「彼のせいで人生ボロボロです。一生懸命貯めたお金を持っていかれました。他に女が居るんです‥」 別れることが出来たきっかけは彼がつくってくれました。 忘れもしないクリスマスの日、逢いに行くからと言われ、久々にディナーを作って待っていました。 彼が来るとすぐベルが鳴り(ポケベルの時代)、誰かに電話をかけた後「用事が出来た、必ず戻るから‥」 と言って出て行きました。 その夜、彼は戻っては来ず、電話が掛かってきました。 「彼女と一晩泊めて欲しい」「お前しか頼れる奴がいない‥」と‥ どこまでお人好しなんだろう‥と思いながら、自分は友達の家に泊めてもらい、2人を部屋に泊まらせました。 次の日、そのままの気持ちでは仕事に手がつきそうもなかったので、駅のホームで彼を待ちました。 出会えるかどうかなんて分からなかったけど、北千住の駅で乗り換える筈だと思い、待っていました。 どれくらい待ったかは覚えていませんが‥ドラマみたいに、彼は来ました。 私は何も言えず、ただ涙が溢れて‥これまでのこと、楽しかった事、辛かった事、全てが駆け抜けて行きました。 「もう嫌だ。こんな目に遭うのはもう耐えられない‥。こんな辛い思いはもうたくさん‥。」 「もう、あなたには二度と会わない‥」 駅のホームで人目もはばからずに溢れる涙もぬぐわずに、2人で抱き合って泣きました。 その後すぐに東京を離れ、西宮の実家に帰ることになりました。 身も心も疲れ果てた私を両親は何も言わずに迎えてくれました。この時ほど親の在り難さを感じた事はありませんでした。 それから何度か恋愛もしましたが、彼以上に愛せる人はいませんでした。 私が30歳になった年に、彼から電話がありました。 「大阪に帰って来てるんやけど逢われへんか‥」 昔懐かしい友達に会うような気持ちで彼と会いました。 「辛い思いをさせたから、少しでも償いたい‥」と、彼は言いました。 それから何度か、旅行に行ったり、コンサートに出かけたり、映画を見たり、 昔に戻ったようにデートをしましたが、友達以上の関係はなかったです。 最後にはトマムにスキーに行って、2人で楽しい時間を過ごしました。(友達として) 彼がその時、私に求めたのは、たぶん「安らぎ」だったのだと思います。 「お前は天使だ‥」と言ってくれました。(笑わないで下さいね‥!) ずっと昔に約束をしたことがありました。 「いつかもし別れても、30歳になってお互いに結婚してなかったらまた会おう‥」 それから、また5年くらいして、私が離婚して西宮の家に帰っていたとき 「逢いたい‥」と電話がありました。 私は「結婚して子供がいるから‥」と言って電話を切りました。 それきり彼には会っていません、もう一度会いたいとは思いませんが‥ どこかで元気で幸せに暮らしていることだけを祈っています。 私は天使にはなれませんでした‥ 彼のお父さんに最後に誓ったことも果たすことができませんでした‥ でも、いつか死んでから、もし彼と会うことができたら‥ そのときは本当に天使になりたいと思います‥ 長々と昔話を書いてしまいゴメンナサイ‥
今でもお人好しでどうしようもないバカな私ですが‥ 今の旦那と出会えて、幸せに生きていることに感謝しています。 |
昔の思い出
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亀有って知ってますよね! 両さん(両津勘吉)のマンガで有名ですよね‥ でも亀有公園はありますが派出所はありません。 JR駅前の派出所がモデルになったそうですが‥。 亀有は何もないところでしたが、下町の情緒が残っていて、 とても好きな町でした。 少し行くと花菖蒲の綺麗な水元公園や、寅さんで有名な柴又帝釈天、 矢切の渡しなどがありました。 柴又駅前には、寅さんの像が建ち、参道脇には 「私生れも育ちも葛飾柴又です」と記された碑があります。 帝釈天への参道には団子屋、飴屋、漬け物屋、土産物屋や 江戸民芸品店などの店が軒を連ね帝釈天まで続いています。 矢切の渡しは、江戸時代初期に地元民のために徳川幕府が設けたそうです。 細川たかしの歌謡曲『矢切の渡し』は有名ですよね! 大阪の十三(じゅうそう)に住んでいた私は、商事会社の伝票入力をしていましたが、 プログラマーを目指して新大阪の某会社に就職しました。 PCのPの字もしらなかった私には、COBOLやRBGは新鮮でとても楽しかったです。 ところがその会社は信仰宗教の集団であることを知り、半年で退職! ちょうど次の仕事を探していた時です‥ ”東京で就職しませんか?ワンルームマンション完備‥” 東京?!‥おもしろそう! さっそく電話をかけました‥! 今までの生活を変えたかった事もあり、十三のマンションを引き払い、東京進出!! 時代はバブルの全盛期、仕事なんて、いくらでもあったんですね〜! 就職先は派遣会社スタッフサービス。 キーパンチャーをしていた私は、入力だけは速かったので(数字のみ) とりあえず伝票入力の会社に派遣されました。 その後は虎の門の会社でワープロ一太郎と図形ソフト花子を覚えて、 当時の時給は1,700円でした。今では考えられません‥!! 東京に居た期間は2年間と短かったのですが、仕事も遊びも充実して、 とても楽しい月日を過ごすことができ、 行ってよかったなー!いい経験になったなー!と今でも思います。 (写真は水元公園。菖蒲は6月が見ごろです。産業情報ページより転載させて頂きました)
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