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米と日本人
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)
日本には野性の稲はなく、稲作農業は南国から伝わってきたとされている。稲作の起源は弥生時代という従来の定説は、今日大きくゆれ出している。稲作の起源は、日本民族の根底に関する大問題の一つといわれてきた。昭和二十九年の暮れに、東京中野区江古田植物化石層から、イネの化石が発見され、日本に、むかし野生のイネが生えていたことが知られた。その後も、縄文遺跡から板種や焼米が一緒に出土したという報告はいくつもある。昭和四五年には、金沢市の泥炭層から稲の花粉が検出され、二千年以前の縄文時代のものと認められている。
日本米は粘りけが強く九味を帯びているが、外米はさらっとしていて形もひょろ長い。日本米と外米は、又の名をヤポニカとインディカという。ヤポニカがもとから作られていたのは、日本列島と朝鮮半島だけらしい。準内地米という配給米は、たいてい明治以後、日本から渡っていったヤポニカで、いわば外国でできる日本米にあたる。日本の米つくりは西の方からはじまって、しだいに東に広まったものとみられるが、北海道で米がとれるようになったのは、だいたい明治以後になる。朝鮮半島も、南の端の方では古くからつくられていたが、北にまで及んだのはずっと後のことである。また赤米といわれる早稲は、インド渡来のインディカで、これは南九州に多い。このインディカも、古くから渡ってきて、自然に、あるいは人為的に交配
されているから、厳密にいえば、日本でできている米はみなヤポニカである。
稲はどこから日本に渡ってきたかという説は、稲が熱帯性の植物であることに起因している。稲を作る人たちが、稲をたずさえて、どういう経路かで南の方から−黒潮に乗って? いや陸地伝いに? 伝わったという考えが支配している。
稲は熱帯性の植物だから、日本に自生したはずはないというのは、大昔の日本が今日と同じような気候であったということを前提にしている。ところが、日本にも氷河のあともあれは、ナウマン象の化石も出ているので、大昔から今と同じような気候が続いていたわけでなく、非常に寒かったこともあれば、非常に暑かったこともあることがわかる。珊瑚やインド象の化石も出ているくらいだから、稲が生えていたことも不可能とはいえない。
日本の国土の過去を考えるとき、温度と乾燥度による気候区分と、植物生長区分が大きなめどになる。日本の温暖帯の常緑広葉樹林は、ユーラシア大陸東部沿岸地域の特殊形態といわれ、同じ温暖帯の常緑広葉樹林である地中海地域の硬菓樹林とは区別されている。主となる樹木は、ブナ科の常緑樹で、東南アジアの山岳部あたりを本拠とするカシの類である。縄文時代には、日本列島の関東以南は、山岳部をのぞきカシ類におおわれていたことが考えられる。
この時代の農耕文化を、専門家の方では五つの段階にわけている。第一段階は野生の植物を採集する段階、第二段階が半栽培の段階、それ以後は栽培の段階となり、第三段階が根栽、第四段階は雑穀栽培、第五段階は水稲栽培となっている。この第四または第五段階あたりが、縄文時代から弥生時代へと移行するころと考えられる。この時期の栽培植物の特色をみると、
(一) 野性採集段階
木の実(クリ・トチ・シイ・ドソグリ・クルミ)
野性根茎(クズ・ワラビ‥アソナソショウ)
(二) 半栽培時代の品種の選択・改良はじまる(クリ・ジネンジョ・ヒガンバナ)
(三) 根栽植物栽培段階
(サトイモ・ナガイモ・コンニャク)焼畑
(四) ミレット栽培段階
ヒエ・シコクビエ・アワ・キビ・オカボ
(五) 水稲栽培段階
イネ水田栽培・潅漑その他の施設こ永年作畑
という一覧ができる。
長野県冨士見町井戸尻遺跡の竪穴中から、長さ一六糎くらいの炭化したパンが見つかっている。これは、デンプン質であることはまちがいないが、何で作られているかは、炭化しているのでたしかめようがない。ドングリ粉にヤマノイモ、またはワラビ粉などをまぜた、多分にねばりのあるものが考えられる。パンは、岐阜県の竪穴からも発見されているので、縄文時代を通じて、澱粉を水でこねて石皿で焼いた食物が利用されていたことが考えられる。奈良県の橿原方面では、イチイガシの、信州八ヶ岳周辺ではミズナラ・コナラのドングリが食用にされていた。
農業は一挙におきるものではなく、ある程度推移の状態を経て農業になってくる。野生食物の採集より一歩進んだ半栽培は、クリなどのように大きい実のものを育てたり、クズを移植したりする。樹皮をのばして衣料にするカジの木なども、集落のまわりにばらばらと植えて利用された。縄文時代に農耕があったかどうかは結論がでていないが、縄文前期ないし中期から後期にかけて、「半栽培」という考えの農耕文化はあったことが認められる。
縄文遺跡から発見された、食用植物性資料のはっきりしたものをあげると、
アラカシ・イチイガシ・イヌガヤ・コナラ・クリ・オニグルミ・ミズナラ・サンショウ・トチ・ウリ・ハス・ムクロジ・ヒシイネ・カヤ・クヌギ・クログワイ・マテシパイ・モモ・シイ(イヌジイ)・ツバキ・ヤマゴボウ・ヒメグルミとなる。
縄文遺跡の貯蔵坑からは、ドソグリが多量に発見されていて、右のようにドングリのなるブナ科の植物が多く食生活に用いられたことがわかる。焼畑による畑作農業では、アワ・キビ・シコクビエ・ヒョウタン・マクワウリなど、畑作のほとんどが栽培される。穀類では陸稲が問題になる。陸稲は水利条件の悪い山地でも生育するので、日本に水稲系の稲が導入されるよりも、ずっと早くから陸稲系があったことが考えられよう。
焼畑による畑作農業は、かなり山岳地帯に浸透し、各地に集落を作った。今日も、中部山岳地帯や、中国山脈のかなりの高所に人が住んでいるが、ながい伝統的な生産をたどることができる。遺跡から、穀類の取り入れに使う石包丁や石鎌が出土すれは、そこには穀物栽培があった有力な証拠になる。しかし、日本は南北の気候差や、東西の地域差などが交錯しているので、東北が縄文晩期といっても、九州では弥生時代が始まっていることもありうる。日本全体が同じような発展段階を進むというわけではない。ヒエ・シコクビエ・アワ・キビ・オカボ(陸稲)などの栽培段階のあとに、水稲の段階を考え、これを縄文晩期か、弥生時代初期にはじまるとしてきた。しかし、弥生時代になって、一挙にすべてが水稲栽培にきりかわったわけではなく、従来のクリ・ドングリ・球根などの半栽培的なものも重要であつた。このことは、静岡県登呂遺跡からは、ヒエ・ソバ・
マクワウリ・ヒョウタン・モモ・クリ・オニユリなどが一緒に出土し、また、岡山市津島遺跡(ともに水田をもつ)では、クリ・オニグルミ・トチ・ドソグリ・シイなどが、かなり出土していることからも知られる。
今から約一万年前に氷期が終わって、日本の気候がしだいに暖かくなると共に、針葉樹が減り、ブナなどの落葉広葉樹がふえた。四千から四、五百年前は、北半球のどこにも共通した今より暖かい時期があった。それから少し涼しくなって、AD四五〇年ころまで続いたが、それ以後は、人間の活動によって自然に手が加わるので、気候の判定がしにくくなっている。この気候帯の変遷は、地下に埋蔵された植物の花粉分析によって大体確立した。この時代は、考古学では縄文土器の時代に相当するので、土器の年代を測定する放射性炭素の含有率を計って得られた縄文土器の時代区分を、気候変化の時期区分と対応させると、縄文期における生活環境の変化も追求できる。そのはじまりから晩期までの一万年近い縄文期に、使用された各種各様の土器の用途や、その食生活との関係をあきらかにすることは、日本文化の深層を知る有力な手がかりになるものである。
山地・高地に古くから住んだのは、別章にものべたように、食生活を中心とする種々の条件が有利なためであった。穀物の栽培も、山地から始まってしだいに低地の水田へと拡張された。神話に、天照大神が、「このものは人間が食べて生きてゆくべきものだ」といわれて、栗・稗・麦・豆を畠の作物、稲を水田の作物として、天の狭田、長田にうえられたという農業のはじまりをみても、畠と水田が区別されている。中国では、田という字は陸田、日本でいう畑のことで、日本でいう田を意味するときは、水田とか津田という。畠や畑という文字は、「漢字」ではなく。日本人が作ったもので、日本では田は水田の意味で用い、水のない意味の白という字と田とをあわせて畠とし、また火と田をあわせて、焼畑耕作の意味で畑という字を作った。
米と、米以前の雑穀とが、弥生時代に急に入れ替わったとみなす人はあるまい。また、縄文文化が弥生文化へと、年号が替わるように移ったという見方もおかしい。米作りが外国から渡って釆たものだという証拠などもない、日本人が米を神秘なものとし、稲作を神聖なものとする感覚が、稲を弘法大師が海外から持って帰ったものとか、狐や鶴が天竺(インド)から運んできたというような話を育てた。理想化された異境に稲作の起源を考えるのは、宗教的な心理にもとづいている。これは神話に結びつくものである。
村の伝統的な祭は、春と秋に行なわれ、春は旧の二月、秋は十月頃が一番多い。春の祭は、今年の米がよく稔るようにというトシゴイ(祈年)で、秋の祭は、できた米を供えての感謝祭になる。夏祭は、ほとんどがスサノオ関係の神社で行なわれる祓いの行事であり、これも稲作に害のあるものを、除こうとするものである。また、いまの勤労感謝の日になった新嘗祭りは、古代部落の行なうきびしい物忌みであった。天皇が即位後一回だけ行なう大嘗祭は、唯一の国の大祀にあたり、これを執り行なうことによって、天皇の資格を完備されるといってもいいほどのものである。
さらに、中国地方や東北地方に、つい最近まで見られた「大田植」という、歌曲ではやす田植祭などをみても、米つくりがいかに古くからの由緒ある宗教的な神聖な行事であったかがおしはかられる。
大化二年(六四六)の正月に行なわれた大化の改新は、政治・経済の根本的な改革であった。農地と人民をすべて国家に直属させた公地公民の制と、里程の制、さらに戸籍・計帳・田制を定め、田の調その他の新税制を定めるなどの、画期的な制度が着手された。
それ以後の日本は、「米と人口」の歴史といってもいいほど、米の収穫高と人口の問題が政治・経済を動かしてきた。なぜなら、輸出も輸入もなかった明治時代までは、生産と消費とはいつもつり合っており、つり合っていなけれはならなかったはずである。米の収穫高と作付け反別とは相互関係にあるから、米の収穫高から人口を推しはかり、人口の数から田の面積を推定することが当然できる。そこから各時代の数字を総合すると、<一反=一石=一人一年>という基準がなりたつ。
水田墾田を中心にした不安と闘争が、二千年の歴史をつらぬいて、日本の社会を動かしてきた。将来の米づくりをどうするかという政治の「時務」も、古くて新しい問題である。
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