さぶやんの何でも古事伝承研究”山神様からの伝言

失われていく民間伝承や史跡などを記憶していきます。

山村の暮らし

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米と日本人

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米と日本人
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 日本には野性の稲はなく、稲作農業は南国から伝わってきたとされている。稲作の起源は弥生時代という従来の定説は、今日大きくゆれ出している。稲作の起源は、日本民族の根底に関する大問題の一つといわれてきた。昭和二十九年の暮れに、東京中野区江古田植物化石層から、イネの化石が発見され、日本に、むかし野生のイネが生えていたことが知られた。その後も、縄文遺跡から板種や焼米が一緒に出土したという報告はいくつもある。昭和四五年には、金沢市の泥炭層から稲の花粉が検出され、二千年以前の縄文時代のものと認められている。
 日本米は粘りけが強く九味を帯びているが、外米はさらっとしていて形もひょろ長い。日本米と外米は、又の名をヤポニカとインディカという。ヤポニカがもとから作られていたのは、日本列島と朝鮮半島だけらしい。準内地米という配給米は、たいてい明治以後、日本から渡っていったヤポニカで、いわば外国でできる日本米にあたる。日本の米つくりは西の方からはじまって、しだいに東に広まったものとみられるが、北海道で米がとれるようになったのは、だいたい明治以後になる。朝鮮半島も、南の端の方では古くからつくられていたが、北にまで及んだのはずっと後のことである。また赤米といわれる早稲は、インド渡来のインディカで、これは南九州に多い。このインディカも、古くから渡ってきて、自然に、あるいは人為的に交配
されているから、厳密にいえば、日本でできている米はみなヤポニカである。
 稲はどこから日本に渡ってきたかという説は、稲が熱帯性の植物であることに起因している。稲を作る人たちが、稲をたずさえて、どういう経路かで南の方から−黒潮に乗って? いや陸地伝いに? 伝わったという考えが支配している。
 稲は熱帯性の植物だから、日本に自生したはずはないというのは、大昔の日本が今日と同じような気候であったということを前提にしている。ところが、日本にも氷河のあともあれは、ナウマン象の化石も出ているので、大昔から今と同じような気候が続いていたわけでなく、非常に寒かったこともあれば、非常に暑かったこともあることがわかる。珊瑚やインド象の化石も出ているくらいだから、稲が生えていたことも不可能とはいえない。
 日本の国土の過去を考えるとき、温度と乾燥度による気候区分と、植物生長区分が大きなめどになる。日本の温暖帯の常緑広葉樹林は、ユーラシア大陸東部沿岸地域の特殊形態といわれ、同じ温暖帯の常緑広葉樹林である地中海地域の硬菓樹林とは区別されている。主となる樹木は、ブナ科の常緑樹で、東南アジアの山岳部あたりを本拠とするカシの類である。縄文時代には、日本列島の関東以南は、山岳部をのぞきカシ類におおわれていたことが考えられる。
 この時代の農耕文化を、専門家の方では五つの段階にわけている。第一段階は野生の植物を採集する段階、第二段階が半栽培の段階、それ以後は栽培の段階となり、第三段階が根栽、第四段階は雑穀栽培、第五段階は水稲栽培となっている。この第四または第五段階あたりが、縄文時代から弥生時代へと移行するころと考えられる。この時期の栽培植物の特色をみると、

(一) 野性採集段階
 木の実(クリ・トチ・シイ・ドソグリ・クルミ)
 野性根茎(クズ・ワラビ‥アソナソショウ)
(二) 半栽培時代の品種の選択・改良はじまる(クリ・ジネンジョ・ヒガンバナ)
(三) 根栽植物栽培段階
 (サトイモ・ナガイモ・コンニャク)焼畑
(四) ミレット栽培段階
 ヒエ・シコクビエ・アワ・キビ・オカボ
(五) 水稲栽培段階
 イネ水田栽培・潅漑その他の施設こ永年作畑
という一覧ができる。
 長野県冨士見町井戸尻遺跡の竪穴中から、長さ一六糎くらいの炭化したパンが見つかっている。これは、デンプン質であることはまちがいないが、何で作られているかは、炭化しているのでたしかめようがない。ドングリ粉にヤマノイモ、またはワラビ粉などをまぜた、多分にねばりのあるものが考えられる。パンは、岐阜県の竪穴からも発見されているので、縄文時代を通じて、澱粉を水でこねて石皿で焼いた食物が利用されていたことが考えられる。奈良県の橿原方面では、イチイガシの、信州八ヶ岳周辺ではミズナラ・コナラのドングリが食用にされていた。
 農業は一挙におきるものではなく、ある程度推移の状態を経て農業になってくる。野生食物の採集より一歩進んだ半栽培は、クリなどのように大きい実のものを育てたり、クズを移植したりする。樹皮をのばして衣料にするカジの木なども、集落のまわりにばらばらと植えて利用された。縄文時代に農耕があったかどうかは結論がでていないが、縄文前期ないし中期から後期にかけて、「半栽培」という考えの農耕文化はあったことが認められる。
 縄文遺跡から発見された、食用植物性資料のはっきりしたものをあげると、
アラカシ・イチイガシ・イヌガヤ・コナラ・クリ・オニグルミ・ミズナラ・サンショウ・トチ・ウリ・ハス・ムクロジ・ヒシイネ・カヤ・クヌギ・クログワイ・マテシパイ・モモ・シイ(イヌジイ)・ツバキ・ヤマゴボウ・ヒメグルミとなる。
 縄文遺跡の貯蔵坑からは、ドソグリが多量に発見されていて、右のようにドングリのなるブナ科の植物が多く食生活に用いられたことがわかる。焼畑による畑作農業では、アワ・キビ・シコクビエ・ヒョウタン・マクワウリなど、畑作のほとんどが栽培される。穀類では陸稲が問題になる。陸稲は水利条件の悪い山地でも生育するので、日本に水稲系の稲が導入されるよりも、ずっと早くから陸稲系があったことが考えられよう。
 焼畑による畑作農業は、かなり山岳地帯に浸透し、各地に集落を作った。今日も、中部山岳地帯や、中国山脈のかなりの高所に人が住んでいるが、ながい伝統的な生産をたどることができる。遺跡から、穀類の取り入れに使う石包丁や石鎌が出土すれは、そこには穀物栽培があった有力な証拠になる。しかし、日本は南北の気候差や、東西の地域差などが交錯しているので、東北が縄文晩期といっても、九州では弥生時代が始まっていることもありうる。日本全体が同じような発展段階を進むというわけではない。ヒエ・シコクビエ・アワ・キビ・オカボ(陸稲)などの栽培段階のあとに、水稲の段階を考え、これを縄文晩期か、弥生時代初期にはじまるとしてきた。しかし、弥生時代になって、一挙にすべてが水稲栽培にきりかわったわけではなく、従来のクリ・ドングリ・球根などの半栽培的なものも重要であつた。このことは、静岡県登呂遺跡からは、ヒエ・ソバ・
マクワウリ・ヒョウタン・モモ・クリ・オニユリなどが一緒に出土し、また、岡山市津島遺跡(ともに水田をもつ)では、クリ・オニグルミ・トチ・ドソグリ・シイなどが、かなり出土していることからも知られる。
 今から約一万年前に氷期が終わって、日本の気候がしだいに暖かくなると共に、針葉樹が減り、ブナなどの落葉広葉樹がふえた。四千から四、五百年前は、北半球のどこにも共通した今より暖かい時期があった。それから少し涼しくなって、AD四五〇年ころまで続いたが、それ以後は、人間の活動によって自然に手が加わるので、気候の判定がしにくくなっている。この気候帯の変遷は、地下に埋蔵された植物の花粉分析によって大体確立した。この時代は、考古学では縄文土器の時代に相当するので、土器の年代を測定する放射性炭素の含有率を計って得られた縄文土器の時代区分を、気候変化の時期区分と対応させると、縄文期における生活環境の変化も追求できる。そのはじまりから晩期までの一万年近い縄文期に、使用された各種各様の土器の用途や、その食生活との関係をあきらかにすることは、日本文化の深層を知る有力な手がかりになるものである。
 山地・高地に古くから住んだのは、別章にものべたように、食生活を中心とする種々の条件が有利なためであった。穀物の栽培も、山地から始まってしだいに低地の水田へと拡張された。神話に、天照大神が、「このものは人間が食べて生きてゆくべきものだ」といわれて、栗・稗・麦・豆を畠の作物、稲を水田の作物として、天の狭田、長田にうえられたという農業のはじまりをみても、畠と水田が区別されている。中国では、田という字は陸田、日本でいう畑のことで、日本でいう田を意味するときは、水田とか津田という。畠や畑という文字は、「漢字」ではなく。日本人が作ったもので、日本では田は水田の意味で用い、水のない意味の白という字と田とをあわせて畠とし、また火と田をあわせて、焼畑耕作の意味で畑という字を作った。
 米と、米以前の雑穀とが、弥生時代に急に入れ替わったとみなす人はあるまい。また、縄文文化が弥生文化へと、年号が替わるように移ったという見方もおかしい。米作りが外国から渡って釆たものだという証拠などもない、日本人が米を神秘なものとし、稲作を神聖なものとする感覚が、稲を弘法大師が海外から持って帰ったものとか、狐や鶴が天竺(インド)から運んできたというような話を育てた。理想化された異境に稲作の起源を考えるのは、宗教的な心理にもとづいている。これは神話に結びつくものである。
 村の伝統的な祭は、春と秋に行なわれ、春は旧の二月、秋は十月頃が一番多い。春の祭は、今年の米がよく稔るようにというトシゴイ(祈年)で、秋の祭は、できた米を供えての感謝祭になる。夏祭は、ほとんどがスサノオ関係の神社で行なわれる祓いの行事であり、これも稲作に害のあるものを、除こうとするものである。また、いまの勤労感謝の日になった新嘗祭りは、古代部落の行なうきびしい物忌みであった。天皇が即位後一回だけ行なう大嘗祭は、唯一の国の大祀にあたり、これを執り行なうことによって、天皇の資格を完備されるといってもいいほどのものである。
 さらに、中国地方や東北地方に、つい最近まで見られた「大田植」という、歌曲ではやす田植祭などをみても、米つくりがいかに古くからの由緒ある宗教的な神聖な行事であったかがおしはかられる。
 大化二年(六四六)の正月に行なわれた大化の改新は、政治・経済の根本的な改革であった。農地と人民をすべて国家に直属させた公地公民の制と、里程の制、さらに戸籍・計帳・田制を定め、田の調その他の新税制を定めるなどの、画期的な制度が着手された。
 それ以後の日本は、「米と人口」の歴史といってもいいほど、米の収穫高と人口の問題が政治・経済を動かしてきた。なぜなら、輸出も輸入もなかった明治時代までは、生産と消費とはいつもつり合っており、つり合っていなけれはならなかったはずである。米の収穫高と作付け反別とは相互関係にあるから、米の収穫高から人口を推しはかり、人口の数から田の面積を推定することが当然できる。そこから各時代の数字を総合すると、<一反=一石=一人一年>という基準がなりたつ。
 水田墾田を中心にした不安と闘争が、二千年の歴史をつらぬいて、日本の社会を動かしてきた。将来の米づくりをどうするかという政治の「時務」も、古くて新しい問題である。

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火の発生

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火の発生
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 日本の祭には、火が重要なものとして登場する。神楽のかがり火、田楽祭のたいまつをはじめ、火を燃やすことが祭であるものも多い。夏祭にも、提灯や行灯や花火などが、宵祭を火で彩る。
 水の禊ぎによって汚れをはらい、別火の物忌精進をすることによって神聖を保つことが、日本の祭を成立させる主要な条件になっている。火は人類の生活に欠かすことのできない要素であるから、祭に火を使うのだという常識だけでは、祭りの火の意味を説明したことにはならない。数千年に及ぶ歴史をもつ日本人が、原初的な神聖を保持する儀式として伝承してきた祭は、また人類に共通な深い感情がこめられてもいる。
 紀元前の縄文時代には、シャーマニズム的な信仰が行なわれ、種々な儀式のあったことは、遺物や遺跡をまつまでもなく考えられる。われわれの遠い先祖が、火に対していかに感じ、火といかなる精神関係をもっていたかを、考えることによって祭りを見直してみたい。近代科学的な知識によってではなく、素朴な感情で火を考えることによって、祭りの意味をみてみょう。
 風雨をしのぐだけの竪穴式住居のなかで、人びとは、炉の火をみつめながら何を考えただろうか。山から集めた薪の火は、それを見つめる人間にとっては迅速な生命の生滅でをり、完璧な生成の一例である。流れる水の単調さでもなく抽象的でもない。繁みのなかに毎日見守る小鳥よりもすみやかに育ち変わってゆく火は、時間を変えて人間を駆りたてる欲望の、全生命をその終末へ、死の彼岸へとつれてゆこうとする欲望の暗示をもつ。その時こそ、夢想が人間の運命を押しひろげる。それは小さなものを大きなものに、炉を火山に、一本の薪の生命をひとつの世界の生命に結びつける。火に魅せられた者は「焚火の死の呼び声」に耳を傾ける。彼にとって破滅とは、ひとつの変化以上のもの、まさに再生なのである。火に対する愛と尊崇とは、生の本能と死に向かう本能とを互いに結びつける心理を導き出す。
 原初的な生活のなかで、人間は五官の機能を動員して、身近なものや環境のできごとから宇宙の構成要素を想像する。そしてその体験を、自然が人間に好意的であるよう願うために工夫する。例えば、乾いた木の二片をすり合わせることによって火をうみだすことを思いついた理由を、木と木の磨擦による山や森の火事からだと説明するのは、帰納的合理主義にほかならない。これは素朴な観察の諸条件を追体験するのではなくて、ひとつの既知の科学から出発した推論によって判断を下しているのである。現在でも人びとは、山火事について、これといって他に原因を見出すことができないとき、不明の原因とは、摩擦作用かもしれないとつい考える。摩擦作用というよりは、ひとつの「衝撃」であって、発火をひきおこすはずである摩擦と同じように、ながい準備された漸進的な現象を暗示するものは他にはない。
 噴火している火山、落雷によって燃えあがる森を人間が認めたとすれは、きびしい不順な季節に裸体のまま耐えてきた人が、そこで身を温めようとすぐに駆けだしていっただろうか。むしろ逃げ去っただろう。火の光景は、大部分の動物を怖れさす。自然がさし出した火の有難い効果を経験した後でさえ、人はどのようにしてそれを保持したのであろうか。一度消えてしまったら、人はどのようにして再びそれをともすことができたであろうか。もし、乾いた二切れの木片がはじめて野性の人の手に入ったとしても、いかなる経験が、速くてながい継続的な摩擦によって火を呼ぶことができるということを教えるであろうか。磨擦によって火をうみだす「客観的」な試みは、人間の全く内的な経験によって示唆されていることに気づくのである。火の
現象とその再生産は、人間自身の発火=男女の愛という、もっとも身近な体験を無視することはできない。愛された肉体を火と燃えあがらせる、情愛のこもった摺り合せの内的な経験のことである。愛の衝動との認識が発火の類推的思考を育てたので、人間は火の文化を保持し得たのである。松の枝木で男女の人形をつくって結嬉式をさせる神事は、私にはイザナギ・イザナミ男女神そのものを思わせる印象があった。
 数年前訪れた滋賀県栗東町上砥山の「山の神祭」を私と一緒に見学したフラソスの芸術家は、その純粋なこころと表現に感激して、帰国後早速<日本の恋人たち>という見学記事を、かの地の雑誌に発表した。
 永遠の愛は、男女の松の肉体を打ちあわせる深夜の結婚によって発火を可能にする。聖なる抱擁によって一年間燃えつづける火は、森の祭場に風雨のなかに消えるにまかせられる。そして新しい年がくるごとに新しい発火が準備される。
 年に一度の祭りは、神の「みあれ」を季節の回帰ごとに火の生滅と人間の生に交流させている。この中心に火というテーマが包まれている。
 また、植物の神性が古代人の心中に大きな場所を占めることは、賢木(さかき・榊)や笹葉や森の社、神木などに表われているが、これも常緑の生気を身につけるという二次的なことよりも、木の人間的機能である火のためである。発火の生命をもつものとして、人間の生命に加わる素材だからである。
 古い神社には、火を磨擦にょって鏡り出すことが大切な神事として伝えられている。出雲大社や三河一宮砥鹿神社では、桧の台板に空木(うつき)の棒をさしこんで発火させる。伊勢や熱田の神宮では、棒に糸と玉をつけた上下旋回の方法をとっている。砥鹿神社の火鑚(ひきり)神事は二月七日の夜に行なわれ、少女巫女が、発火した火から移した燃える松のたい松を持って神剣をまたいで、の字に廻る火の舞が、八束穂神社の前で行なわれる。
 神楽舞には、かならず火が焚かれるのが本来の古式である。夜通し燃えつづける火に誘われるように、祖神たちが出現する。神面をつけた神々の舞が、あるいは村の未来の吉凶をつげたり、あるいは魔払いの足どりをふんで行なわれる。中国地方から九州へかけては、火の神を荒神として具体化させた荒神神楽が多く見られる。火による生産性は、神話にも語られ、農耕儀礼のほとんどに応用されている。田楽踊りの楽器に木片を数十枚つないで鳴らす「ビンザサラ」という特殊なものがある。これは、溝を刻んだ堅木の樺を割竹でこすって鳴らす「ササラ」とはちがって、左右から圧を加えて鳴らす。この「ビンザサラ」を使用する祭は、年のはじめの農作祈願に多い。私はこの楽器「ビンザサラ」は発火のための乾いた木片を表わしたものとみている。佐賀市の「川久保田楽」は秋十月に行なわれるが、四人の少年が女装して、金属の円板と花串をつけ、母親の丸帯二本を結んでたらした花笠をつけ、忌みごもりの姿でビンザサラ舞を行なう。かもじをたらしたうしろに切り筋を入れた半紙をつけて、風雨よけといっている。舞の途中で二人の年上の少年が、白扇をひらいて焔をあおぐ振りがある。忌異にこもって熟饌を炊く童女をかたどったこの舞は、まさしく火の神聖を表現している。
 また、九州の宮崎県には、五ツ木村の近くの山中(西都市銀鏡・しろみ軋)に銀鏡神楽という、二十二曲の神楽を二日にわたって奉納する祭りがある。夜明け近くの二十二曲目に、屏風囲いに坐る女装禰宜を太陽神に見立て、二本の日の丸扇でさそい出す手刀男命の舞がある。このあとに、女面をつけ、摺りこ木・杓木・飯つぎ・飯しゃもじを膿のてごに入れた女神が出て、楽人と問答しながら擂り粉木を陽物の代用品にして、天地陰陽の初めの神話を語る。陽物の働きをカリュビンという鳥より教えをうけて使いわけ、東西南北をさしてしぐさをする。この「室の舞」につづきオキッヒコ・オキツヒメの男女の神が、竃の罪汚れを祓い清めるという火の神(おきえ)の舞がある。岩戸開きの手刀男舞の前には、縄の雌雄の大蛇を真剣で三つに斬る「縄の神楽」があり、スサノオの蛇退治を思わせる。まことに、神話を立体的に演劇化したすぐれた神楽が山中によく伝えられたものと驚く。ことに出雲・大和系の天体神話よりも、陰陽の交わりの由来と竃の燠(おき)の汚ればらいのあるのは、火に対するより純粋な信仰を知ることができる。天ツ神や太陽神崇拝などという抽象観念でなく、根源的であり具体的である民俗要素に対する崇敬を祭りに見出すことを忘れてはならない。
 火の祭りは、山地山村の人びとの間によく固有の伝統を伝えているので、山の祭りという言葉におきかえることができる。例えは、天竜川流域の中部山岳地帯の冬に数多く見られる神楽と田楽は、徹夜の舞処に大たいまつや湯釜の火を焚きつづけて、湯による清めを中心にしているので、火祭りでもある。その詳細は第九章に紹介してあるが、火の内的な感覚を形式に表現するために、修験道的要素や陰陽道的要素が渾合し、さまざまの形を見せている。祖霊観念を表わした鬼や火の王とよぶ火神などの面形の神を登場させている。男女交合の身振りは喜劇的な笑いに組まれ、はらみ女は豊作を暗示する。宮崎県の高千穂盆地の夜神楽には、五穀を司る神々の舞のあとに、男女神の酒こしの物真似が笑いを誘い、つづいて「地割り問答」という荒神=竜神が、台所の竃前の視膳を女主人から受けて座敷に舞い込み、神の身分と働きをおごそかに告げる高千穂神楽のハイライトがある。山村各地の祭りの夜は、男女の交際が自由で、あるいは「木の根」祭りといわれたり、結婚のきまる機会であったことがいわれている。
 早乙女たちが、赤い腰裳もなまめかしく田の神に奉仕する神事の田植祭や、男性陽物をふり廻す豊年祭りなどは、すべて豊作祈願のための感染呪術といわれている。臼と杵に見立てられた男女の性や、木の男根などが登場すると、見物人は寒さも忘れてくつろいだ気分になる。このもっとも具体直接的な反応は、火熱の祭式的認識をもとにしている。「相生の松」や神社の神木・能舞台の松羽目なども、火から出発する人間心意のシンボルが、聖樹崇拝という定義におきかえられていることがわかる。祭のさまざまの表現には、祭式のもつ本質がかくされているので、数多くの体験によって、その祭のポイントをつきとめなけれはならない。古くからつづく祭は現代のいわゆる商工祭やショウ・娯楽などとは全くちがう。生存維持に対する精神的な体験であり、原初の哲学である。したがって、祭は神話を具体化した演出をもち、神話は、祭の存在することによって意義をもつことになる。それゆえ、一国の文化の性格を知るには、祭と神話をまず知ることである。現象の背後に横たわる根源的なものをとらえる時に、民族固有の信仰は時間と空間をこえて、人間の文化として認められるのである。

山の神の舞

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山の神の舞
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

楽屋--センヤアおもしろし山の神の由来をくわしくたずぬるに、父をば山砥(ねぎ)の命とは申し、母をば山野茅の姫御前と申し、御妻となって持たせ給ふ、大郎の御子山神宮とは自らがこと--
胴前--おもしろし御声--
楽屋「センヤアおもしろし、自らは一年一度、二年にふたたび降るべくにはなけれども、岳々越しを遊事巡らせ給う、大旦那小旦那の災難よけの祈藤を相誓ってとらすべし--

 山伏神楽(ここでは岩手県稗貫郡大迫町大償)の山の神は、力強く、威風堂々と、ヌサ(幣)のぬき足を早拍子三下りにのって舞う。後段では、面や衣裳をぬぎ、シャグマを頭上に、山の神幣をふって修験特有のクズシ舞いをする。
舞手--山の神は、そだつはいづくと人問はば--
胴前--とやまがさきのさかきばらのもともと--
 ここで、ぬさ打ちの拍子はよねづくらいの拍子にかわる。
胴前--ぬさ立つるここも高天の原なればなれば、集り給へ人吉の神々〈エヘハイオモシロエヘ--
 この山神舞は、衷式舞六番のうち、鶏舞・翁舞・三番叟につづく重要な式舞とされているだけあって、迫力演技も一段と優れている。したがって人気も強く、人びとに愛好されている。
 大償の法印(山伏)たちは、明治維新の神仏分離令により帰農したが、氏神大償神社の禰宜として尊敬されてきた。彼等のいつく早池峯大権現は、北上山脈の主峯早池峯山(一、九一四米)の霊山の神であり、早池峯祭(八月一日)には必ずでかけて、岳神楽はじめ他の山伏神楽の主賓として、神楽を奉納している。歴史のより古い遠野ロの早池峯神社よりも地の理を得た上に、盛岡南部藩の後援もあって、大迫口の宿坊は近世いんしん(殷賑)をきわめた。現在は、夏季の登山者の民宿宿坊として復活しているが、かつての信仰は、里人の心のかたすみに押しやられている。
私は年に二、三回はでかけて、大償と岳の神楽を保持する人びととの親しいつきあいを十年近く続けているが、この神楽は、何度見ても飽きない芸術性を伝えていて、日本の無形文化財のトップにあげてもよいとさえ思っている。全国の神楽、ことに東北地方の山伏神楽(日本海側では番楽という)は、随分数多く見学した。陸前浜の法印神楽は、出雲神楽に近いが、出雲神楽には山の神舞はない。
 北上・平泉付近から、北は下北・津軽方面へかけて散在する山伏神楽は数知れない。マタギで名高い根子の隠れ里にもある。また、八戸の鮫町には、盆に墓地の仏前で行なう「墓獅子」を含む山伏神楽がある。これは、念仏を神楽ばやしで舞うというより、一人でうつ伏せたまま、ときどき頭をあげて上体をおこすという簡単な身振りだけで、祖霊供養の精霊自身と化す鎮魂式である。山伏神楽の呪法の中心に、権現舞の火伏せや胎内くぐりがある。シシとはいわないで、権現様としてあがめる神体の黒頭は、山犬とも半獣とも見える山の神秘と威厳を体現している。人が死ねば、その霊魂はお山に逗留して、三三年過ぎると昇天するというので、身内の男は、一生に一度ほお山参りをしなければならないという信仰のお山は、早地峯ばかりではな
い。かつて、祖先は山に住み、山を心のふるさととし、霊魂の奥津城(おくつき)としてきたから、永い歴史を通じて山々は日本人の信仰の対象となった。蔵王山を西に仰ぐ宮城県丸森町には、山伏問答や柴灯護摩と共に山伏神楽がある。秋田県大森町の羽宇志別神社の、保呂羽山に捧げる霜月神楽の古風のなかにも、山の神舞がある。これは、徹夜で続く巫女の湯立神楽のあとに、鳥甲・素面にクッツケ袴・タスキがけの神官が、人形を切抜いた旗様の二本幣を持って舞う。一般に山の神のマスクは、金泥の眼に、ロを開いた、見るからにおそろしい憤怒の男神面で、その緋色は見物人を興奮させる。蔵王権現の表情に能のベシミと火の王(三河地方の田楽面)をミックスした印象が強い。それらの各要素がこの舞にはこめられているともいえよう。
 里へ降りてくる人びとがふえてきて、修験者らの手によって山の神が生まれた。遠い日の自然神は形を与えられ、田の神・野神・サへの神にまで分布した。山の神は、東北地方の山の神舞を見る限りでは女性ではない。しかし、火まつりや狩猟民俗では女神とされている。女の山の神が海神と出合って交合するという、イザナミ流神道の祭文なども知られている。豊穣を祈るための男女一対の裸形の木神を、鈴鹿山地や信州盆地では山の神とよんでいる。これは、双体石像の道祖神サへの神につながっている。
 山の神は、男性か女性か、あるいは第三の性かについては、読者の皆さんにおまかせしょう。
 まつりは、男女の性別をこえた、純粋無垢な生命のエネルギーの発露表現である。沖縄八重山では、たくましい老女が、俵ミコシにあぐらして、まつりの音頭をとり、山草を頭に飾り馬上神官をつとめて、生活世俗のことは男に委せるという意気ごみがすさまじい。生身の肉体が神であれば、肉体派の女性がリーダーになろうし、豊穣除災を約束する祖霊が神なら、松の又木の双神が、イザナギ・イザナミだといってもよいだろう。

踊る山の神

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 山の随想(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 踊る山の神
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 東北地方一帯に見られる修験の徒の伝えた神楽−いわゆる山伏神楽と番楽にかかせない主要なレパートリイに、「山の神」というのがある。山の神は、クワッと口を開き、爛々たる金色の眼を見開いた真紅の面をつけ、足音もとどろに踏みならして、力強く舞う。ところが、民族学でいう山の神とは、子だくさんで気が荒く、顔のへちがんだ醜女(しこめ)ということになっている。これでは山の神は一体男なのか女なのかという疑問がでてくる。女性上位の現代では言う人もないだろうが、「うちの山の神」といえば、女でなくてはならないし、年中台所の火を管理し、子供を多産してきた過去の日本女性には、山の神の尊称がたてまつられていたものだ。
 山の女神が、ことのほかオコゼ(長さ三粧ほどのキセル貝の一種と、魚のオコゼの両方)を好み、オコゼを見せると、狩猟の獲物を授けてくれるといい、また、山中で男が前をまくって一物をチラリと見せれば、山の神の御機嫌がよくなるなどといわれている。山の神がオコゼに血道をあげることは、すでに鎌倉時代からいわれ、金沢文庫の『名語記』には、「山の神ノ見テヨロコブナルヲコゼ如何」と記されている。
 そうなると、日本の農耕儀礼の民俗でいう春の耕作季になると、山の神は山から里へ降りてきて田の神になり、秋の収穫が終わると田から山へ帰られるという説は、一体どうなるだろう。田のほとりにまつられる田の神は男性とされており、早乙女たちは、赤い腰巻もなまめかしく、田の神の花嫁の仕度で田植えをする。山の神は季節ごとに女性から男性へ、そして男性から女性へと、性の転換手術をするというわけのものではあるまい。田の神=山の神という考えはさらに検討される必要がある。山の生産と田の生産の、歴史的民俗的テーマが追求されねばならない。
 私たちは、山に何をみるか。また山に住む人たちやその民俗、手芸品などに、どんな興味の示し方をしているのだろうか。どうも、日本人の観光族行や民芸好みは、利己的享楽的であるように思えてならない。ただ行った、見た、買っただけでは、心に何を学んだという反省は育たない。民俗採集にしても、学生が卒論のために見聞したものをまとめたとか、学者が出版の資料に強引に発掘してきたという作業だけでは何にもならない。調査団が訪れたあと、村の人びとの中に、非難や不平の声が残ることもある。私はまつりを尋ねて地方へ出かけるが、そこに住む人びとや老人たちと、たとえわずかな時間でも、親しく語りあい、ふれあうことを心がけている。美しい環境のなかで受けつがれてきた祭りは、そこに住む人びとの、深く豊かな伝統の心を伴なわずにはいないのである。私はつねづね、環境・人情・まつりの三位一体説を信じ、そのことを現代批評の基準にしている。学ぶということは、人間から得るものを、大切に心底に貯え続けていくことであり、人間性は、遠く山村・漁村の異った環境で精いっぱい生き続ける人びとを、心の友として交際できる喜びが積っていくことによって、身につくものだと思う。
人間を自然と対立させてきたのは、西欧の文明である。自然と人間を渾沌のままにしておく日本文化は、もう一度、人間尊重、人間仲介の方法を意識しないでは、発展する文化とはならない。抽象的精神は、自然や工芸品を人間性の表現=創造としてとらえ、生きている人間から学ぶものと同様に、感動・愛情・専重をつみかさねていくときに義なわれる。体験と総合、批評と分析を続けて学び考えることがなければ、芸術も学問も伝統も生まれないだろう。
 国家体制の時代になって、宗教という甘い麻薬が必要になり、人間の堕落がはじまる。律令や戒律などをこしらえなければやっていけない時代になっても、山は活気と生産力を失わず、人間には無関心で存在する。変わるのは、制度と社会現象に影響される人間の側である。木地師は、山々を移住して、ロクロを回さなければ生きていけない。マタギは、厳冬の山に分け入らなければ、献上する毛皮が求められない。出家は、山で修行しなければ、世俗や他宗に対抗する自信がつけられない。ついに、山の神は、修験者たちに彫像されて、里を回り歩くようになった。

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