懐かしい高校野球

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40歳の誕生日おめでとうございます。
 
一般的には、高橋由伸選手の高校・大学時代の先輩、として知られているかもしれませんが、
 
私にとっては心に残る高校球児の一人です。
 
私は以前にも高木さんについて記事を書きましたが、
 
私が彼を最初に見たのは1991年の夏の甲子園。
 
 
神奈川県代表、桐蔭学園
 
その1番キャッチャー&キャプテンこそ、当時高校3年生の高木さんでした。
 
まず、あまりプロでは見たことのないキャッチャーでありながら打順は1番で右投左打
 
そして、いかつい、というイメージが多いポジションにあってさわやかな細身のイケメン、
 
ちょうど昭和から平成に変わって三年目、新しい時代のキャッチャーかも、と思わせてくれた選手でした。
 
なお、この年の桐蔭学園
1番は高木(3年)、3番に高橋由伸(1年)、4番副島(2年)
 
のちにプロ入りする選手が3人もいる、何気にタレントはたくさんいるチームでした。
 
 
その高木選手、そのバッティングセンスと華のある選手であることから当時からプロにマークされてましたが、
 
六大学で野球をしたいからプロはとりあえず行きません
 
といって慶応大学に進学。そこでも順調に成長し、1996年にライオンズに入団します。
 
正直、思い入れのある球児だったのでライオンズに入ってくれてうれしかったです。
 
ただ、そのバッティングセンスを野手として生かすのか、
 
伊東の後釜として育てるのか、という所でしたが、どうも捕手としてはプロとして適正に欠ける、ということもあって内野手にコンバートしました。
 
そこから後の活躍はファンなら知るところですが、私としてはもっと活躍してほしい選手でした。
 
今はフロントとして裏方に回り、活躍をしているそうです。
 
ただ、贅沢をいうなら、どうせ高校・大学、同じように先輩の後を追ったんなら、由伸もライオンズに入ってほしかったかも・・・・(同じように高校・大学の2年違いの佐々木主浩・斉藤隆は同じチームになったし)
 
いつの日か、現場に戻って監督をやってほしい人でもありますが・・・・ちょっと無理かな。

春夏連覇の名将逝く ケータイ投稿記事

戦後の昭和の高校野球をリードした箕島高校。その箕島高校を長年指導してきた名将、尾藤公さんが亡くなりました。68歳。

私が高校野球を見るようになった84年にはすでに全盛期を過ぎていたので、尾藤監督の凄さは生ではわかりませんが、

79年の春夏連覇、そして同年の星稜との延長18回の死闘は30年立った今でも伝説となっています。

今でこそ、和歌山といえば智辯和歌山ですが、和歌山県は大正時代から和歌山中―海草中と高校野球をリードしてきた県。そして、その和歌山県の強い伝統をつないできた箕島高校。その系譜は智辯和歌山に受け継がれています。高島監督はほぼ尾藤監督と同世代。今年のセンバツにはその和歌山県の強いところを天国に逝った尾藤監督に見せてあげて欲しいものです。

ちなみに、春夏連覇した学校は
作新学院(栃木)、中京商(愛知)、箕島(和歌山)、PL学園(大阪)、横浜(神奈川)、興南(沖縄)の6校ですが、唯一、公立高校なのが箕島高校なんですね。
春夏連覇を成し遂げた尾藤監督が、興南の春夏連覇を見届けてセンバツを前に逝ったのも何かの巡り合わせでしょうか?
あと3週間に迫ったセンバツの熱闘を尾藤監督も期待していることでしょう。

ご冥福をお祈り致します。
13日、新潟明訓が京都外大西を相手に磐石の戦いを見せ、去年の新潟・日本文理の活躍が引き続いてるかのような明訓の戦いぶり。
 
水島先生の名作、『ドカベン』の主人公、山田太郎が通っていた学校、明訓高校は所在地こそ神奈川県ですが、
 
モデルとなったのはこの新潟明訓高校。
 
で、明訓といえば、キャラクターが個性的で魅力的ですが、皆さんはどのキャラクターが好きですか?
 
私は、明訓では山田太郎、土井垣、敵役では、中西球道、不知火です。
2006年、ハンカチ王子と田中将大でわいた甲子園、
 
その中でも彼らとは違った魅力で甲子園をわかせた選手がいました。
 
今吉晃一(鹿児島工)
 
代打の神様と呼ばれた今吉君は元阪神の川藤さんのごとく、代打で彼の名前がコールされると
 
アルプススタンドが地鳴りのように沸き立ちます。
 
鹿児島工といえばこの年はエースの榎下君と鮫島君が今年、ドラフトの目玉になってます。
 
もちろん、その実力はこのときから光ってましたが、知名度はこの選手の方があったように思います。
 
代打の神様 登場
その4年前の高校野球、早実の斉藤佑樹投手と駒大苫小牧の田中将大投手が人気を二分してましたが、
 
私の一押しチームは八重山商工でした。
 
その中でも大嶺祐太投手とともに八重山商工甲子園出場の立役者となった金城長靖選手は
 
私にとって、野手では21世紀で一番印象に残っています。
 
まず、沖縄の高校野球では、本島以外から甲子園に出場することはまず無理だろう、といわれていました。
 
それは、本島以外の離島では高校の数が少なく、練習試合などが組むのにも苦労するということから
 
優秀な離島出身の選手は本島の有力校などに流失してしまうからです。
 
そんな中、ジンクスを破ったのが、日本最南端の高校でもある八重山商工でした。
 
甲子園では、夏、不調の大嶺投手に変わって投手も務め、大車輪の活躍。
 
特に170センチと小柄ながら、下の動画の5:30のバックスクリーンのホームランはスケールの大きさを感じさせてくれました。
 
現在22歳。沖縄電力でも野球を続けている金城選手。是非ともプロでも見たい選手であります。
 
 
センバツの決勝戦は、延長12回までもつれこみ、興南が沖縄県勢3度目の優勝をしました。
 
興南の皆さん、おめでとうございました。
 
埼玉県人の私としては、東京の日大三に勝ってほしかったですが、仕方ありません。
 
 
さて、沖縄県勢で3度目の優勝、ということですが、過去2度は沖縄尚学によってもたらされました。
 
1998年は松坂大輔擁する横浜高校の春夏連覇で幕を閉じました。
松坂のみならず、後藤、村田、杉内、森本、和田、館山、久保、藤川、寺本、新垣、赤田、上重など通常の大会ならスターになれるであろうタレント性のある選手がたくさんいたこともあって、盛り上がりました。
 
その余韻が残る1999年センバツ、前年のような盛り上がりは期待できず、あまり注目されなかった。
沖縄尚学の優勝はそんな背景の中でなされたものだった。
 
今年の興南もそうだったが、九州地区大会ベスト4の学校で、出場できるかどうかもギリギリだったこともあって、前評判は高くなかった。
しかし、左腕エース・比嘉と右腕の照屋の2枚の投手は、次々と有力校を退けていく。
2回戦、前年夏ベスト8の濱田を5−3、準決勝では前年、横浜と死闘を繰り広げたPLに延長12回の末8−6。
決勝は準決勝で投げすぎた比嘉は投げられず、照屋の右腕に託したが、水戸商に7−2.
はじめて、沖縄県勢に優勝旗が渡った。
1958年、初めて首里高校が甲子園に出てから41年、当時は日本の領土ではなかったため、検疫に引っかかり甲子園の土を持って帰ることができなかった。
そして1972年沖縄は本土復帰を迎える。
1990年、1991年、連続で準優勝、徐々にだが、沖縄は野球強豪県として成長していく。
そして、そのときはやってきた。
 
1999年初優勝時の映像です。
 
 
 
 
こちらは2008年の映像、1999年時、エースだった比嘉投手が監督として甲子園で優勝した瞬間です。

 
 
 
 
この年のセンバツの入場行進曲は沖縄出身のkiroroが歌う「長い間」
その沖縄出身のkiroroの謡う歌詞には
 
長い間、待たせてごめん
 
まさに沖縄県民が長い間待ち望んだ優勝だった。
 
そして、この話は終わらない。
9年後の2008年、比嘉投手が、比嘉監督となって2度目の優勝を飾る。
 
まさにできすぎるくらいのドラマを沖縄県民ならびに全国にもたらしてくれました。
(もっとも、決勝戦の相手は、埼玉の聖望学園だったので私としては複雑な思いでした)
 
長い間/KIRORO

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