歌も歌って、芝居もして、本も書く人の日常と言われると、非日常を思い浮かべてしまう。でも、この本のベースは地味な毎日のほうなわけだから、読んでいると、結構くだらない。でも、笑える。生きるのに必死で、ちょっと切ないところもある。テレビで歌ったり演技している、あの人が書いているのだと、作者のことを思いながら読んでいるからおもしろいのかもしれない。


退屈なのは、おまえが退屈だからなのさ。

誰が歌っていたのか、言い回しもうろ覚えだが、私の好きな歌の歌詞だ。好きというか、ずっと心に残っているというほうが正確かもしれない。そうか、退屈なのは、私が退屈だからで、退屈な私でなくなりたいなと、今より若かった私は、素直にそう思ったのである。


『そして生活はつづく』は、地味な毎日に少しでも楽しみを見出そうという本で、つまり、じゃあ、私と一緒だと思った。この人も退屈じゃなくなりたいのだろう。

この記事に

開く コメント(0)

初めに、物語とは関係のないことを書くと、この本はこの本をお勧めしてくれた人に似ていた。決して人質にされそうという意味ではない。
この人はこの本の世界に住んでいそうとか、この人はこの絵の中にいそうとか、そういうことをよく考える。その人は、まさにこの世界にいそうだと思った。


ここには共通して、名前を知らない人との出来事、この環境にならなければ、語り手とその人とで完結していた物語が語られる。

その人のことは何も知らない。その人とその時間しか共有していない。全くの他人である。

向かいのアパートに住んでいるおばあちゃんと、私は朝、挨拶を交わす。名前も知らない。誰と住んでいるのかもひとり暮らしなのかも知らない。向こうも同じだろう。でも、いつも私が「おはようございます」と言うと「おはよう。雨が降るようだけど、傘は持ったの」とか「朝早くて大変ね。えらいわね」とか、一言二言交わす。それがあるとないとでは、何となく違う。少しうれしい気持ちで出勤できる。この物語たちは、その感じに少し似ている。


田舎だとそうはいかない。大抵母だったり、父だったりの知り合いで、名前も知らない人と名前も知らない関係のままでいるのは至難のわざだ。だから、全体的に、きっと都会の人たちの話だと思った。


人は、そういうとるに足らないようなことに支えられていたりする。一話ごとに、最後に物語を語った人たちの現在の職業が書かれていて、その他人との出来事が後の人生に影響を与えていることがわかる。そういう一生を左右する、とるに足らない出来事はきっとあるのだ。ただ、とるに足らな過ぎて語られないことが多いだけで。


うちの母の看護師になったきっかけは、ボランティアで行っていた老人ホームで知らないおじいちゃんにいきなりスリッパを投げられたからだと言っていた。なぜそうされたのか、悲しいより不思議で、紆余曲折あって看護師になることにしたらしい。実際に、そういうこともある。


だから、人質が朗読会をしている非現実的な設定なのに、実際にそういうこともあるのだろうなと思って読めた。うれしくも悲しくもならない。とるに足らない。だけれども何かが心に残っている。不思議な物語だった。

この記事に

開く コメント(0)

神父が昔話をするようにさまざまな殺人の記憶を語りかけてくる、これぞミステリー小説という組み立てで、美しい。


物語はどれも、事実は、箇条書きした殺人の証拠たちを組み立てて出した答えとは、必ずしも限らないことを語る。重要参考人が黙っていたとしても、それは罪を犯したからではなく、別の信念のためかもしれない。決めつけてしまうと、真実を間違う。


ブラウン神父は犯人の気持ちに寄り添って、犯人の心になって犯人を見つけ出す。全く論理的でない方法で、証拠の積み重ねから推理したりはしない。それはとても荒唐無稽に見える。でも、なぜそうなったのかを考えるときに、そうなった事実と、そうなったときの状況だけ考えても意味がないことは多い。


いつもならしない、いつもならそうならないことも、そのときだけそうなることがある。それは、その人に心があるから、感情があるからなのだと感じることはある。
例えば働いていて、ふだんなら絶対にしないミスをしたときなどに思う。事実に感情は大事な要素で、でもそれはそのときの瞬間的なもの、その人にしかないものだし、証拠として残らない。ブラウン神父が大事にしているものは、目には見えていないそこの部分なのかなと思った。

この記事に

開く コメント(0)

『火花』感想文

人を笑わせるのは難しい。意図的に笑われる。意図的にばかにされる。しかし、笑ったほうも、笑われたほうも、うまくいったら、その数分間はかなり楽しいものになる。笑わせる快感は、どのようなものなのだろう。


ただ、私はその人を笑わせる世界に飛び込む人の気が知れない。「何かおもしろいこと言ってよ」が通常運転の職業なんて、考えただけでストレスである。


主人公の徳永は、どんな職業の世界でも生きていけるように見える。不器用でも、真面目に取り組む。四苦八苦してがむしゃらに仕事に向き合っている。もし彼が後輩にいたら、私だったらきっと好感を持つし、大切に大切に育てたいと思う。


神谷は、どこにも行けない人だと思った。後輩にいたら、1週間もしないで仕事に来なくなりそうで不安だ。きっと、このお笑いという世界の中から一歩も出られない人。かわいそう。


瞬く間に売れていった鹿谷という男もそうだろう。顔がおもしろいから、何をやってもおもしろい。ミスをしたらそのミスが笑いになる。おもしろくないのがおもしろい。ただ、ミスが笑いに変えられる世界は、ほぼない。この人もお笑いの世界でしか才能を生かせない。


ただ、それが欲しかった人にとっては、強烈に眩しい存在だ。徳永はきっと、普通の世界で普通に生きていける自分に、ずっと気がついていて、ずっと腹が立っていたのだろう。


それでも納得のいくまでお笑いの世界でがむしゃらに頑張った人には、最後の舞台まで、ちゃんと笑ってくれる人たちがついてくる。彼らにとってそれが敗北だとして、それに意味がないとは思えない。


こうして人生の第1幕を終えても、嫌でも幕が上がる。笑ってはもらえない。ばかにはされるかもしれない。多分拍手ももらえない。


それでも確かにあった火花のような人生の一瞬のきらめきが、閉じ込められた作品だった。

この記事に

開く コメント(0)

高校生のころ、どうしても太りたくなかった。それで、飲み物も食べ物も全部、何ミリリットル、何グラム、量をはかりながら飲んで食べた。夜6時までには食べて、それ以降は水分もとらなかった。


今思うとちょっとだけおかしかった。しかし、そのときはかなり真剣だった。本気だった。それを何のきっかけでやめたのかは覚えていない。ただ、そういうやり方が正しいと思っていた。


今は、そんな生活は無理だ。仕事でその時間に御飯は食べられないし、お酒は夜に飲みたいし。


この小説を読んで、大人になるのは、少し自分にだらしなくなることなのかもしれないと思った。それをいい言葉で言い直して、許せることがふえたみたいな感じでしょうか。

あのときの自分も、今となっては世間知らずでばかでかわいそうでかわいい。謎のルールの中で生きるのに必死だった。わけのわからない方向に頑張っていた。


こうありたい自分と、そうなれない自分とのギャップの中で、必死でもがく患者たち。私はこの人たちのことを笑えないし、笑わない。こういうことは、誰にでも起きる。私も一歩間違えれば、こうなっていたかもなと思う。


伊良部先生ははみ出していることを気にしていない。ばか丸出しでも気にしていない。だめな大人。ある意味、患者たちの憧れである。


だから伊良部先生が患者に教えてあげる、ちょっとはみ出した生き方は納得できた。だめな自分を許す。だめな自分を愛する。だめな自分を認識する。そうすると、自分に少し諦めがついて生きるのが少し楽になる。

きょうもまだだらだら晩酌をしている。どうだ、きょうもちゃんとだめだぞ、私は。あのときの必死な私、ごめん。でも、ありがとう。そんな気持ちになる小説だった。

この記事に

開く コメント(0)

[ すべて表示 ]


.


みんなの更新記事