grunerwaldのブログ

ドイツと音楽、歴史や旅行を楽しむ憩いの森へ

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終演の幕が下りるや、待ち構えていたようにやんやの(とは言わんか、この場合)ブーイングの声が立ちどころに場内に響いたのは想像はできた(以下ネタバレあり注意)。「何年も足繁くオペラの観劇をしてきたけれども、運がいいのか悪いのか、いままでブーイングと言うものをしてみる機会がなかった」「前から一度は半可通のようにカッコよくブーイングというのがしてみたかったけど勇気がなかった」そういう御仁には持ってこいのオペラ上演になったのではないだろうか。なにしろ神聖にして侵すべからざるベートーヴェン唯一のオペラの筋書きの最後を、こともあろうかワーグナー家当主であるリヒャルト・ワーグナーのひ孫がいじくったのである。これはもう、前評判を目にしただけでも、絶対安全圏から安心して、思いっきりブーイングを叫ぶことができるぞ!すげー!「フィデリオ」でブーイングしてるオレ、超カッケェ〜!と言わんばかりに鼻息荒く肩で風を切って会場を後にする半可通たちの、それは格好のいいことと言ったら、ありませんな。すんげえ、カッコよかったぜ!

ところで自分はブーイングするほど、腹など立たなかった。むしろ、あ、そう来たか、と。確かに最後にピツァロがフロレスタンとレオノーレを殺してしまっては、正統な筋書きからしたら大ひんしゅくですわな。しかし「レオノーレ序曲第3番」が演奏されるあいだ、主役夫婦二人の遺体をそのまま牢屋に残し、ピツァロが入口を煉瓦で徐々に塞いで行くと言うことの意味を考えていると、そら恐ろしくなってくるというか、戦慄すべきことが眼前に提示されているようで鳥肌が立った。序曲が終わる頃には、夫婦が殺された地下牢の入口は、煉瓦で完全に閉じられてしまった。あったことがなかったことにされる。うその積み重ねで真実が隠蔽されていく。煉瓦が一個、また一個と積み上げられていくごとに、今まさこの国のあちこちで起こっていることが暗示されているようで、身の毛がよだつ。そう感じるには、あまりにタイミングが良すぎて、まさか日本のこのような政治状況に関心があってこういうドラマトゥルギーが練られたとはもちろん思えないけれど、人間の悪行に洋の東西や時代の新旧は関係ないと言う普遍性が感じられて、表現としては悪くはないじゃないかと感じた。その後ピツァロがフロレスタンを装って大臣フェルナンドと絡むところでは、なんとなく大臣も一味のように感じさせるような描きかたで、大臣がアメフトの監督でピツァロがコーチにも思えた。レオノーレの身代わり役は、ちょっと取って付けたようで消化不良気味だったけど。

盛大なブーイングは多分みなカタリーナ・ワーグナーに向けてそうしているつもりなんだろうけれども、そこは相手もさる者で、ダニエル・ウェーバーというプロのドラマトゥルクが一枚間に噛むことによって、ワーグナー家の当主に直接類が及ばないように、そこはうまく配慮されている。評判がよければ彼女の仕事として持ち上げられるし、評判が悪ければドラマトゥルクの彼の責任にすれば済むわけだ。2015年にバイロイトで観た「トリスタンとイゾルデ」もこの方式だった。この時も、善良なイメージが定着しているマルケ王を不届きものに仕立てて観客の度肝を抜いていた。まあ、なにかで客をあっと言わせたい性格なんだろう。まあ、自分としては、カタリーナ・ワーグナー自身の本来のオリジナリティじゃないか感じられたのは、第一幕が開いたところの中央のマルツェリーナの部屋の光景で、なぜか「Little Princess」という子供っぽいマークがいくつも描かれたピンク色一色の壁が浮きまくっていて、これはまぁ、フロレスタンが幽閉されている地下牢の陰鬱な暗さとの対比なのだろう。ちなみにフロレスタンのステファン・グールドは第一幕での歌唱はないが、ずっと薄暗い地下牢の壁のあちこちにレオノーレの絵を描き続けている。舞台の装置は、地下一階、二階と地上階と中二階の計四層の立体的で手の込んだ仕掛けになっていて、新国立劇場の舞台装置を駆使した本格的な舞台セットでこれは大変見応えがある。演出・ステージセットともに、まったく意味不明だった2015年のザルツブルク音楽祭の「フィデリオ」に比べれば、はるかによくできたものだった。

肝心の演奏のほうだが、2014年の「パルジファル」から「指環」、「ローエングリン」と大変素晴らしいワーグナー上演を続けてこられた飯守マエストロだが、今回の東響演奏の「フィデリオ」は、ちょっと真面目一筋と言った音楽づくりで、慎重だけれども起伏と盛り上がりに欠け、金管のアラも気になったりで、いまひとつ気分がのらなかった。なにしろザルツブルクでは演出はクソだったが、それでもメスト指揮ウィーンフィルの爆演ぶりは凄まじかったので(特に序曲レオノーレ3番のもの凄かったのは、さすがにレヴェルが違う!)。歌手はもちろん主役のステファン・グールドとリカルダ・メルベートの二人が超絶素晴らしかったのは言うまでもないが、マルツェリーナ
の石橋栄実さんも健闘ぶりは立派だった。可憐さが一番のマルツェリーナにしてはちょっと声が強すぎるけれども。そう言えば他の「フィデリオ」ではマルツェリーナの存在感ってあまり大きいものではないけれど、今回の舞台ではなぜか大きなシルエットで強調されたり、なぜか看守たちから酷い虐待を受けたりと、彼女の存在がクローズアップされていたのはよく意味がわからなかった。囚人たちの最後の合唱はよかった。解放されたと思いきや、最後は再び悪漢に扉を閉じられ…

ところでこの演目を観て思い出されるのが、最近の茨城県牛久市の入国管理センターの収容者の人権状況が劣悪なことになっているという気になる報道。相手が不法滞在者という立場の弱い外国人となると、頭と口が空気のように軽いネトウヨな勢力が国の中枢で幅をきかせ始めると、とたんにそのはけ口がそういうところに向いてしまうのというのは気がかりなことだ。死者が出始めているのは最悪だが、盲腸炎や脳梗塞など緊急に適切な医療処置が必要なケースでも放置され重篤な症状に陥る事態も起こっているというのは心配なところである。21世紀の日本でこんなことが当たり前のようになってきているなんて、悲しすぎるではないか。

午後二時開演、休憩30分で午後五時前には劇場を後にし、九時には自宅着のらくらくの日帰り。帰りの新幹線の電光ニュースで突然「ワグネリアン」の文字が目に入り、すわ何ごとか!と思いきや、競馬のことかよ(笑)


【指揮】飯守泰次郎
【演出】カタリーナ・ワーグナー

【キャスト】黒田博/ミヒャエル・クプファー=ラデツキー/ステファン・グールド/
       リカルダ・メルベート/妻屋秀和/石橋栄実/鈴木准/片寄純也/大沼徹

【合唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京交響楽団

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源流と言ってももちろんこれがただひとつの源流と言うわけではなくて、様々な時代の様々な事象がその基になっているのは言うまでもないが、「日本すごい」気運のかなり大きな要因のひとつに山鹿素行という江戸時代前期の儒学者の存在があると言えよう。

なんでまた突然そう言う話しになったかをまず説明すると、今年に入ってから哲也さんと圭さんというお二人の小室さんがなにかとメディアで話題になっていて、どちらの小室さんにも縁も関心もない自分としては、小室さんと言えば自分の世代的には「等さん」か「直樹さん」くらいしか思い浮かばないなあ、などとぼんやりと思っていたところ、そう言えば「直樹さん」の書かれた本で、ソ連消滅の何年も前に、そのことをずばり予言しておられたのがあったなあ、と思い出して、カッパブックスの「ソビエト帝国の崩壊」を十数年ぶりに読み返してみたのだ。昭和55年に書かれた本だから、実際にソ連が崩壊し消滅する10年ちかく前からずばりそのことを予言しておられたわけで、それだけでもすごいのだが、その凄まじいまでの博覧強記ぶりには改めて舌を巻く。東大、京大、阪大、マサチューセッツ工科大、ミシガン大、ハーバード大ともの凄い経歴だが、その風貌や型破りな言動から、当時から「変人学者」の異名が付けられていても不思議ではなかったと思う。

そういうこともあって、あらためて小室直樹氏と山本七平氏という碩学二巨頭の対談集「日本教の社会学〜戦後日本は民主主義国家にあらず」(ビジネス社)を取り寄せて読了し、凄まじい知性と知性のぶつかり合いと融合に思わず唸った。単に博識ぶりがもの凄いというだけでなく、山本七平氏は旧制高校(青学)卒業後に召集され野砲少尉として終戦をマニラで迎え捕虜となっており、もとより敬虔なクリスチャンである。戦後を通じて世に問うてこられた「日本とはなにか。日本人とはなにか」と言うテーマに、時に軍経験者の視点から、また時には宗教学的視点から、あるいは社会学、経済学的視点から、非常に幅広く多角的な視点から、様々な事象を鋭く深く抉っておられる。すでに1991年に逝去されているが、2018年現在の日本の状況を考えるうえでも、非常に意義大きく有益な手がかりを多く遺されているのではないだろうか。

そうしたなかで、ここ数年で特にマスメディアやネット上で頻繁に目にするようになった「日本美化キャンペーン」、あるいは「日本礼賛キャンペーン」、簡単に言うと「日本すごい」キャンペーンというべき現象が生じているのは多くの人が指摘している。自分自身も、これに対してはかなり唐突でいびつで作為的な印象を受ける。なにもこんないびつな取り上げられ方をしなくとも、いままでにも日本の優れた技術や伝統美を普通に良心的に伝える番組や企画はいくらでもあった。それらには「押しつけ感」も「押し付けられ感」もなかったし、純粋にその良さを伝えたいという思いだけで成り立っていたように思う。でも、現在目に入るそうした番組や企画は、そうした作品としての純粋さが損なわれ、ある種の圧力的な背景を感じさせるような、かなり強引で押しつけがましい無神経さが感じられる。なんでもよく知っていて、だれにでもわかりやすく解説してくれる親切そうな解説者のオジサンが、「…と、言うことでして。日本ってやっぱり、すごいと思いません?」というあからさまな誘導に、ひな壇の若くてちょっと画面映えがいいだけのタレントとか芸人が、「ほんとだぁ。日本ってすごーい」という烏滸のやうな反応ばかりが延々と垂れ流されているのを見ていると、気が滅入ってくる。むかし戦争中に侵出したアジアの統治先の現地の子供たちに日本式の教育を行い、幼い彼ら彼女らに「おとーうさん、おかーあさん、ありがとうございます」とか日本語で言わせて悦に入って破顔する日本の軍人の姿が戦時中のニュース映像として放送されているのを見た時の違和感、きもちわるさとよく似ている。こうした番組を制作する現場の職員は、どういう思いなのだろうか。生活のためにはもうなにも考えないで、頭を空っぽにして上からの意向と圧力に唯々諾々と従うしかないのか。あるいはこうした国策に沿った番組を作り放送していれば、国庫から報奨金か奨励金でも出される仕組みにでもなっているのだろうか。緻密な検証や繊細な配慮を忘れ、果たしてこれで良いのかといった自省や懐疑の念などは単に煩わしいだけの他人事で、とにかく都合の良い自己肯定的態度のみで時代と趨勢におもねる浅ましさだけではほとんど思考停止状態である。

さてそこでこの思考停止的な「日本はすごい」「日本は特別な国」と言った概念の源流が那辺にあるのかを思ったとき、山本七平の「現人神の創作者たち」(ちくま文庫)を続けて読み進めるなかで、江戸時代前期の朱子学者で兵学者の山鹿素行(1622〜1685)が1669年に著した「中朝事実」の影響がかなり大きいことがわかってきた。山本はその著書のなかで、いまもむかしも日本人の政治意識に大きくあるのは慕夏主義であり慕米主義であり慕ソ主義であるとしている。慕夏は中国を慕い政治や文化のモデル、お手本とすることである。確かに江戸時代までが慕夏主義で明治から慕欧、戦後は慕米、一部慕ソ主義として見るとわかりやすい。同じ漢字文化圏の先達である中国を長い間お手本としてきたのはその通りだろう。徳川幕府も中国の儒教、朱子学によりその正統性を明らかにし権威づけるために林羅山を大学頭に任用し、他の思想には厳しい統制をかけた。ところが当の江戸時代前期には肝心の中国では明が衰え、異民族の女真族(満州)が勢力を拡大しており、1644年にはついに北京に入り清朝の中国支配が始まった。この辺りで明から逃れ日本に支援を求めてきて日本人にも大きな影響を与えたのが朱舜水であり、福州から台湾を根城に海賊として活躍していた鄭芝龍、鄭成功父子でこちらは芝居の「国姓爺合戦」の大ヒットで広く知られていたから、中国の王朝交代は当時の日本人にとっても大きな関心事であったことだろう。朱舜水は当時の日本の支配層にも思想的に大きな影響を及ぼし、水戸学にも影響を与えている。ところが肝心の中国たる明朝は滅び北狄たる女真族の支配による清朝に代わってしまった。幕府支配の正統性の根拠としお手本としている中国そのものが「中国(中つ国、世界観の中心)」でなくなり、漢人によらない異民族の国家となってしまった。いったい、そのままの慕夏主義のままでいいのか。世界の中心はなんなのか。なにを根拠に国家の基盤としての幕府の支配を正統化すればよいのか。

そこで「日本こそが中国である」という逆転の発想を打ち出したのが、山鹿素行の「中朝事実」であった。山本七平著「現人神の創作者たち・上」から一部を抜粋すると

 この「日本こそ真の中国」論とも言うべきものは、山鹿素行の「中朝事実」にはじまると言ってよい。  (中略)  「日本=中国」で、かつて中国が絶対化されたように、今度は日本が絶対化される。 だがそれは何が何でも日本はすべてにおいて「絶対正しい」という発想だから、今の体制もそのまま正しくなってしまう。そうなると朝幕併存こそ「真の中国」のあり方になってしまうから、極端な体制派になる。 (中略) そして戦時中の超国家主義の祖はだれかと言えば、おそらくこの山鹿素行で、その基本が「中朝事実」であり、彼がここに記している中国とは日本のことなのである。(p71)

要するに、それまでの捉え方であった「大陸の中国」の基準で朝幕併存が正統なのか否かをずっと議論してきたけれども、肝心のこの中国が中国でなくなってしまった。それならわが日本こそが「真の中国」と捉えて、その中で解釈して行けば、いまある朝幕併存が既定の事実なのだから、なんの文句があるか、と言う究極の現状肯定である。そうなると日本こそ中国なのだから、なんでもオッケー、自分こそがルールブック、と言うことになってしまう。そして際限のない自己肯定は、その後の「問答無用」で議論を極端に軽視する傲慢で乱暴なやり方と、その時々の曖昧な空気のようなものに阿諛追従することしかできない日本人の体質として定着して行くことになる。むかし関東軍、いま○○内閣。そう考えると、たかだか70年か80年そこらで日本人の本質がそう容易に変わるとは思えなくなってくる。喉元すぎれば戦争の悲惨さも忘れてしまうようでは悲しい。しかし、こうした際限ない自己肯定と他者軽視こそが、清朝と言う巨象を最後に断末魔に追い込んだ要因であり、19世紀末の波乱の中国史はそれを象徴する「義和団事件」で幕を降ろすと同時に20世紀の扉を開けることになる。

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来日中のベルリン・コーミッシェ・オーパのモーツァルト「魔笛」、日本ツアー最終場所となる西宮市の兵庫県立芸術文化センター(KOBELCOホール)で鑑賞してきた(4月14日14時開演)。東京ではすでにオーチャードホールにて先週末(4月7日)から始まり、その後広島と兵庫の計三か所で計8回の公演が行われた(4月15日最終日)。8日(東京)と15日(兵庫)以外の公演日は、14時と19時の一日二回上演という、オペラとしては比較的めずらしい公演スタイルだった。ここ数年で日本はすっかりと無責任で趣味の悪い衆愚社会に扇動されて来ているきらいがあるが、その元凶というか旗振り役でもあるところの読売テレビが勧進元というのが気に入らないが、同社の開局60周年記念事業ということらしい。公演に先立って、数日前に系列局のBS日テレで一時間ほどのPR番組が放送されているのを見たが、もともとドイツ特派員だった同社現専務の本田邦章氏の貢献が大きいのだろう、プログラムには製作総指揮として名前が記載されている。80年代前半もちろん壁崩壊のはるか以前の西ドイツ時代に、ボンから度々レポートを伝える映像はそう言えば記憶に残っている。記者時代から培った人脈がこうした魅力的な文化事業として活かされたとしたら、ドイツに関わる仕事をしてきた人間としては本望なことに違いないだろう。

さてこのKOBの「魔笛」は去年夏のバイロイトの新制作の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で、同音楽祭初のユダヤ系演出家としておおいに話題になったバリー・コスキーが2012年にKOBのインテンダント兼主席演出家に就いて早々に演劇集団「1927」との共働でプレミエ上演し、翌13年には「Opernwelt」誌年鑑の「最優秀オペラ劇場」と「最優秀ステージ美術」に選ばれ、米国や中国、韓国など世界11か国で上演され35万人の観客を動員するなど、大きな話題になっている。16年にはバリー・コスキー自身が同誌の「最優秀演出家」にも選ばれている(プログラムより)。

個人的には、20年以上前にベルリンを訪れた際に初めてKOBに足を運んだ。この時はヤコフ・クライツベルク指揮で「こうもり」(H.クプファー演出)と、指揮者は忘れたがドイツ語版の「カルメン」を観ている。直近では昨年末に今回の「魔笛」チームの最新作となる「ペトリューシュカ」と「子供と魔法」の二本立てを観てきた。この「ペトリューシュカ」と「子供と魔法」は、ヒットの元となった「魔笛」の上演技術をさらにブラッシュアップし、より高度で複雑なプロジェクションマッピングとより複雑でアクロバティックな身体技術を連動させた見応えのあるエンターテインメント作品となっていて、大いに驚かされた(記録はこちらの記事参照)。劇場の雰囲気は、内装は完璧なロココ調で美しい馬蹄形オペラハウスの典型だが、ウンターデン・リンデン通りの東側のシュターツ・オーパーに比べれば、客の雰囲気はぐっとカジュアルで、ご立派に盛装しているひとはほとんど見当たらない。もともと70年前にヴァルター・フェルゼンシュタインによりこの小屋が創設された時以来の、宮廷や貴族でなく「市民の劇場(フォルクス・ムジークテアター)」という心意気を感じさせる劇場である。

今回の来日公演では、その「ペトリューシュカ」「子供と魔法」の原点となる「魔笛」ということで、以前から興味津々であったので、非常にいいタイミングで観れたのは幸いだった。いやむしろ世界的には遅いと言ったほうがいいだろう。なにしろ当の読売テレビを筆頭に、本邦のあらゆるメディアはここ数年のインバウンド政策への一体化で「日本スゴイ」キャンペーンに余念がなかったのだから。話しが逸れたが、上にも書いたように最新の「ペトリューシュカ」「子供と魔法」を観た後で、その原点となったKOBの「魔笛」を観ると、同じプロジェクションマッピングと登場人物の融合と言ってもシンクロの動きはさほど複雑ではなく、映像のタッチは刺激的だけれども概して言うと映像紙芝居型のオペラ上演という感じだ。とは言え、はじめてこの舞台を目にするものとしては、もちろん画期的なアイデアと斬新な表現力に目が点になるに違いない。オペラと言えばオットー・シェンクやゼッフィレッリのような時代がかった様式美あふれる舞台しか認めたくないようなオールド・ファンが見たら卒倒しそうなスタイルである。能や狂言、歌舞伎などのように、古来からの様式の伝承にこそ最大の価値を求める日本の伝統芸能とは違って、ドイツのオペラでは現代の価値観をより強く反映させた舞台のほうが求められていて、これはどちらがよいとは決しがたい。

まあ、言葉ではなかなか伝わらないのがこの手の舞台の面白さなので、参考までに公式のPR動画を下に貼っておこう。絵本とか子供の落書きのようなタッチの映像は刺激的だがたしかに面白て、とにかくかわいい。こういうものが「かわいい」と思えなくなっていたとしたら、それはそれで日本のまっとうなオッサンとしてはいたって常識的な感性の持ち主であることの証明でもあるので、気に病むことはあるまい。パパゲーノが猿轡を噛まされるところでは、第二の侍女が彼の顔に覆った白い布を取ると、そこに大きな口のアニメーションが映写される仕掛けになっているところなど随所で笑いが満載だった。モノスタートスの雰囲気はあれだな、1920年代のドイツ映画「吸血鬼ノスフェラトゥ」だろうな。同じ頃の映画からはフリッツ・ラングの「メトロポリス」の改造人間を作る場面を想起させるのもあった。ドイツもヒトラーが現れず、20年代のワイマール時代の文化が続いていたとすれば世界はまた違ったものになっていたはずではあるが。

歌手はそれぞれKOB専属の歌手で、際立ってスター性の高い人はいないが、ザラストロのリャン・リーはベルリンのプログラムでよく目にする名前で、実際立派で素晴らしい低音で聴き応えがあった。女声ではパミーナのヴェラ=ロッテ・ベッカーは芯がしっかりしていてよかった。三人の侍女と三人の子供(テルツ合唱団)も美しい歌声で大変よかった。夜の女王は、例のアリアのところはさすがに聴かせどころだった。タミーノはまあまあと言う感じで、パパゲーノは演技のうまい役者さんで歌はいちおう歌えると言うところ。合唱団は30名程度で規模は大きくはないが、聴き応えはあった。ジンクシュピール部分はすべてカットされていて、映像に要約したドイツ語が効果的に表示され、客は日本語字幕でその翻訳を見るかたち。短くなって効率的なのはいいが、音楽的にはどうもぶつ切りのハイライト盤を聴いているようだ。オケの演奏は、このクラスのオケとしては十分に納得のKOBらしい心地よいものであった。S席が2万7千円だが、もうあと少し、2万3〜4千円くらいが妥当なプライシングだと思う。全席完売と出ていたが、数席程度の当日券はあったようだった。



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4月8日(日)東京文化会館大ホール。午後3時の定刻、冒頭のアナウンスに満席の会場は騒然となった。いきなり「本日、ローエングリン役で出演予定のクラウス・フローリアン・フォークトは、4月5日の同演目の公演後に発熱し…」とまでアナウンスがあった瞬間、会場じゅうから「えーっ!」と言う大きな悲鳴が上がり、文字通り騒然となりかけた。主役中の主役がまさかの降板?!という最悪の予想が一瞬で会場中を駆け巡ったのだ。が、その後すぐに「万全の体調ではありませんが、予定通り出演します」(大意)とのアナウンスが続くと、一転して盛大な拍手とともに会場は安堵に包まれた。いやー、あぶないあぶない… フォークトの出ないその日の「ローエングリン」なんて考えられない。絶対に代役で済むレベルではない歌手だからなぁ。やはりフォークトのファンの多さを実感した瞬間だった。




で、その日のフォークトのローエングリンはと言うと、幸いにも体調不良など感じさせない素晴らしい歌唱であった。透き通る声はいつもとおり軽やかで伸びがあって美しく、声のはりもしっかりとしていて、結果としては冒頭のアナウンスは必要なかった。まぁ、万一の場合のエクスキューズとしての保険のようなものだろう。結果としては、さすがにプロ中のプロの底力を見せつけられた素晴らしいローエングリンだった。なお、それとは真逆にプロとしてありえないような気の抜けた演奏態度でしらけさせられたのは、エルザのレジーネ・ハングラー。演奏会形式だから、歌だけ歌えばいいんでしょ、みたいな感じがありありで、まったくの無表情で歌詞や役の内面なんかお構いないといった印象。最後の最後に、エルザが名を問うたばかりにこれだけ苦悶した末に、彼女との結婚生活を断念し切々と自分の素性をあかすローエングリンのフォークトが熱演し熱唱しているその隣りで、自分の楽譜を手にしたままでプイっと横を向いたままでまったく我関せずの無表情でボケッと突っ立っているだけ。演技でやってる?たしかにエルザってのは基本、おバカなお姫様だけれども(どっかの国の○○夫人みたいに)。いやそんな必然性は今回まったく感じられなかったし、もしそうだったとしたら相当空回りの結果だったね。

たしかに演奏会形式だから、基本的に演技は不要なのは当然。しかし、ドラマと役割、何より音楽を理解して舞台に立てば、自然と身ぶりなり手ぶりがついてくるもので、実際この日の他の出演者はすべて、歌の山場では自然とちからが入り、動きとなってすばらしい表現をしていた。ところが彼女は楽譜にかじりつきっぱなしで役柄などまるでお構いなし。ただ演奏会形式だから、歌えばいいんでしょ?ギャラが不満なのか、何らかのトラブルでご機嫌斜めだったのか知らないが、プロとしてこんなパフォーマンス態度を見せる歌手なんてはじめて見た思いだ。声質はリリカルな感じで悪くはないが、表現の細部などはまるっきりコントロール不足で不安定な箇所も随所にあり、お世辞にも上手いとまでは感じられなかった。とにかく違和感の残るパフォーマンスで、終演後思わず「なんやねん、このエルザ」とつぶやいてしまった。

フォークトをはじめ、彼女以外の歌手はすべて、素晴らしい!圧巻!のひとことだった!いつもながらアイン・アンガー(ハインリッヒ国王)の腹に響くバスの声量は凄まじいし、エギルス・シリンズのテルラムントもやはり素晴らしい低音で聴き応えじゅうぶん、オルトルートのペトラ・ラングも、前回新国立の同役で観た時よりも、より鬼気迫る凄まじい歌唱と表現力で文句なしの演奏だった。甲斐栄次郎さんの伝令も大変立派な歌唱でさすがだなぁ、と実感した。独唱部分だけでなく、五重唱、六重唱の部分もとても聴き応えがあり、くぎ付けになった。東京オペラ・シンガーズの合唱とのバランスも絶妙で素晴らしかった。男性主役はタキシードに白タイだが、主役のフォークトは赤いボウタイに襟なしデザインでロング丈のタキシードで見目麗しい。演技はないので、テルラムントが決闘で負けたり、斃されたりするのは見ていてわからない。

ウルフ・シルマーの指揮は13年ほど前にベルリンのドイチュ・オーパーでアヒム・フライヤー演出のクレイジーな「サロメ」を観て以来。現在はライプツイヒで活躍中だが、風格も増してきて、何と言っても音楽のつぼをおさえた的確な指揮ぶりはすこぶる安定感がある。いい指揮者になってきているなぁ。この世代ではセヴァスティアン・ヴァイグレとともに期待をしている指揮者だ。

N響の演奏は、最初、あれ?ちょっといつもより響きが薄いかな?と思っていたら、途中から金管が後方(バルコン三階中央)と両サイドの三方に配置しているのがわかったので、なるほどそういうわけかとわかった。自席は7列目の中央付近だったので、豪快な金管のサウンドが立体的に響いてなかなかの音響効果を実感した。ただし、いまも言ったように、正面のオケの舞台からのまとまったサウンドとしてはその分が欠けてしまうのは、痛し痒しで好みは分かれるか。キュッヒルさんの快奏ぶりはいつもと違わず素晴らしい。ペトラ・ラングが鬼気迫るオルトルートを快演するすぐ後ろで、全力でトレモロを刻む姿に気合が入っている。舞台の前方は大変よく見える良い席だが、音響的にはやはりもうちょっと後ろの12列目くらいにしておいたほうが、バランスが良かったかかなと思った。

舞台奥の大スクリーンの映像は演奏とマッチしていてよかった。特に二幕のオルトルートとテルラムントが謀議をめぐらす場面はドイツらしい中世からの街の広場の映像で、深夜から早暁〜鮮やかな朝焼け、朝もやのかかる感じなど音楽に合わせて刻々と変化して行き、大変よくできていた。

午後7時半終演。体調をおして素晴らしいタイトルロールを聴かせてくれたフォークトはもちろん盛大なブラヴォー。主要な歌手もそれぞれ大きなブラヴォーだったが、エルザにブーイングしなかったのはせめてもの心配り。8時20分には新幹線に乗れ、日帰りの鑑賞となった。この日は寒の戻りでいくぶんひんやりだったが、上野の桜はとっくに散ってしまっていて、新緑の春音楽祭となった。


指揮:ウルフ・シルマー
ローエングリン:クラウス・フロリアン・フォークト
エルザ:レジーネ・ハングラー
テルラムント:エギルス・シリンス
オルトルート:ペトラ・ラング
ハインリヒ王:アイン・アンガー
王の伝令:甲斐栄次郎  /他
管弦楽:NHK交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ

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Twitterというのは手軽で便利な「社会の窓」なのだろうが、唖然とするようなデマまがいのものも含めてあまりに玉石混淆すぎてかなり危なっかしい玩具になっている感がある。そこまでしてこの社会にすがりついていたい気もないので自分から発信することはないが、PCからあれこれと覗いているだけでもそういった印象は伝わってくる。社会が分断されてしまって、根拠が不明確で極端な言説が無責任に飛び交っているのは悪夢のようだ。そんななかでプランニング企画さん(コソッと)の発信は迷妄のいまの世に一条の光を射し続けているようで、陰ながら静かな声援を送りたい気持ちだ。理解力の低い人には彼は左翼と誤解している人がいるかもしれないが、きちんと読めば彼の言説の内容は極めてオーセンティックであり保守的で、まっとうな愛国者であることがわかる。わずかここ数年で社会の右翼的なベクトルがかなり急激に極端化・先鋭化しているので、それに馴染まない普通の保守層や中間層が相対的に左翼視されかねない状況になっているだけのことであって。また既存メディアでは、あまりに突き抜けすぎた存在になってしまって腫れ物に触るような扱いを受けているのもなんだか彼には気の毒な印象だ。(なんで勝手に字体が変わるの?)

その普通の保守層や中間層ですよ。さすがにここ最近の情勢に対して、ようやくおかしいんじゃないのかと声を上げはじめたのは。このところ、金曜日の夜の官邸前で行われているミーティングの参加者が、じょじょに増えてきているという。プランニング企画さんのツイキャスで中継の模様を見たが、たしかに歩道上数百メートルにわたって多くの参加者が声を上げている。「こんな人たち」じゃなくて、「普通の人たち」ですよ。なんだったら、自分がそこにいてもおかしくはない。でもね。でもねですよ。まだまだ、あれを見ていますぐそこに駆け付けたい思いにまで駆られないんですよ、実のところ。普通の人として。

その原因ですけどね、やっぱりいつまで経っても、「非音楽的」なんですよ。あのタテのりで棒読みの単調な「お題目」の唱和が。「○○やめろ」「○○許すな」「○○するな」っていう、単調な「お題目」の繰り返しがね、どうにもセンスがいただけないのが何とかならないか。内容はどうあれ、音楽的センスで言うと、おぞましいですよ。あれは。なんか学生風の若い人らは、キャップを斜めに被ってマイク斜めに持って、ラップ調にクネクネ体を揺らしてやってるんだけど(「これがオレたち流のやりかたダゼ、Yeah〜」、みたいな?)、お題目の唱和はおんなじで変わらない。「いや、お題目は単調でないといかんのだ」ということかも知れないが、ちょっとノレないのだ。こころに火が点かないのだ。あれではそのうち、しぼむよ。おそらく。

こんな時、あれこれとお題目を声を張り上げて絶叫しなくても、こころ揺さぶる歌の一曲があって、自然にそれがひとびとの口から口を伝って行き、大きな合唱の渦となったら、ほかにプラカードとかなんだとか、一切要りませんよ!結果はすぐに出ると思う。もちろん、手垢まみれの既存の文科省推薦の唱歌でも、利権まみれの薄っぺらなキャンペーンソングでも、アイドル事務所がらみのアホみたいなものでなく、まったく新しいもので、かつ時代や世代、属性を超えて万人の魂に響く、まっとうなものでなければならない。D通にはもちろんおひきとりいただく。一部の右翼や一部の左翼を喜ばせるようなバランスの悪いものでなく、人間の本質に訴える曲と歌詞でないといけない。静かだけど、強く、深く、ひとびとのこころに沁み入り、内面からの熱いエネルギーをわき立たせるものでなければいけない。

理想で言えば、ヴェルディの「ナブッコ」の捕らわれ人たちのが合唱「行け。わが思いよ、金の翼に乗って」のような、第二の国歌と認識されるような本格的なものであってほしい。だれもがこころ揺さぶられ、ひとびとの自然な連帯につながるものであり、思想的・哲学的にも世界に誇れるものであって欲しい。もちろん「ナブッコ」はイタリアの曲だから、猿真似すればいいと言う話しではもちろん、ない。あるいは「レ・ミゼラブル」の「民衆の歌」ももっとも近いイメージとして共通する部分もあるが、なにしろこれはフランス革命由来のものだから、「行け。わが思いよ」と同様、自分自身のものとして共有され認識されるのは難しいだろう。でも、イメージとしては参考になるかも。なければつくればいい。いや、ないからこそ、つくるべきである。そういう真の才能が、いまの日本にあって欲しいという思いは、左右関係なく共通してあってもおかしくはあるまい。「巨匠」とか「マエストロ」と称される偉大な作曲家も日本にはいるだろうから、こういう時こそ最高の仕事をすべき時ではないかと思う。官邸前や国会前でそういう感動的な光景が目にできる可能性がある日数はしかし、残念ながら残すところわずかなのだ。

ところで「民衆の歌」と言うと、横浜Fマリノスのショーアップ的に使われているとか。自分はサッカーのことはまったく知らないので想像もできないが、日本のサッカーと言うと、強い地域愛に根差したファンのイメージがあるのだが、「企業タイアップだから」みたいな理由であのフランス色の強い曲を聴かされている横浜Fマリノスのファンの心理ってどういうものなんか、ようわからん。

El Coro Nacional y la Orquesta Sinfónica Nacional presentan la ópera Nabucco, de Giuseppe Verdi este 15, 17, 19, 21 y 23 de mayo en el Gran Teatro Nacional. (Flashmob)  ※歌は 1:38くらいから

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