grunerwaldのブログ

ドイツと音楽、歴史や旅行を楽しむ憩いの森へ
先月はクナッパーツブッシュが1950年から60年にかけて録音を残した「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のCDを各種聴くのに多くの時間を費やした。先日は未出荷のまま長らく待たされていた55年のバイエルン国立歌劇場(プリンツレーゲンテン劇場)でのライブを収録したオルフェオのCDもようやく届き、これで古い順に①50-51年ウィーンフィルとの演奏(楽友協会でのセッション録音)、②52年バイロイトでのライブ、③55年バイエルンのライブ、④60年バイロイトでのライブと、4種類のクナッパーツブッシュの「マイスタージンガー」を聴くことができた。直近で聴いた55年のバイエルンのライブもなかなか良い演奏で音質も良好だったが、結果的に演奏内容と音質ともにもっとも聴きやすかったのはやはりそのなかでは新しいほうの60年のバイロイトライブ(オルフェオ)のように感じられた。③の55年バイエルンの演奏は冒頭の前奏曲の演奏からものすごい快速スピードで、普通は9分半から10分強の前奏曲が、なんと8分38秒という驚異のテンポで驚かされる。全体的にもなかなか白熱した演奏で、フェルディナント・フランツのザックス、ゴットリープ・フリックのポーグナー、ハインリッヒ・プファンツルのベックメッサー、リーザ・デラ・カーザのエーファなど歌手陣も安定感がある。おもしろいのはダーフィト役のパウル・クーエンが3幕最初の「Am Jordan Sankt Johannes stand」の途中で完全に一拍入りを間違えてしまっているところで、その後それに気づいたクナがしらけてしまったのか、急に「巻き」が入ったように淡々としたテンポになってしまったように感じられた。3幕終盤もちょっと荒っぽくなったような印象だが、ライブと言えばライブらしい。(①〜④のクナの「マイスタージンガー」は過去記事参照→こちら

これで、なにしろ一曲あたり5時間ちかい「マイスタージンガー」をひと月とちょっとの間に4種類も、それも一曲あたり二回は聴いている。あまつさえ、それに加えて「トリスタンとイゾルデ」も、バーンスタインとバイエルンの演奏とバレンボイムとベルリンフィルの演奏のCDも通して聴いているし、東京でのキリル・ペトレンコとバイエルンの「タンホイザー」の公演も2回観に行っている。なんと言うか、もうワーグナー以外はどうでもいい状態になりつつある。ひとつには、これらの50-60年代のクナのモノラル録音のCDが、(52年のバイロイトライブは別として)どれもいままで想像していた以上に音質がよく、生理的に心地よく体感できていることも大きい。いままで何がなんでもステレオ高音質にこだわってきたのはなんだったんだろう。古いモノラル録音なのに、まったく違和感なく、雄大で厚みのある演奏が、太く大きく、立体的で奥行きの深い音響で心地よく再現できているのだ。自分の手持ちのオーディオ・システムは、アンプは管球式ではないしスピーカーも現代的な特性のものなので、そもそも70年代以前の古い録音を聴こうと思って構成したわけではまったくないのだ。とは言っても、やはりそこそこのハイパワーのアンプと表現力の高いスピーカーで再生すれば、そうした過去のモノラル演奏も心地よく再生できるということに、感慨を新たにしている。

そんなところに、今度はこれらのCDを購入した通販サイトから、「よかったら、こんなのもあるけど、どうよ?」みたいな感じで、あらたに別の「おすすめのCD」のメールだったか、ウェブ画面上の広告だったか忘れたが、とにかく誘導された先にあったのが、ルドルフ・ケンペ指揮ドレスデン国立歌劇場演奏、1951年録音の「マイスタージンガー」のCD(PROFIL発売)。こちらの購買心理を見計らったように、このように言葉巧みに弱いところを突いてくるあたり、「おニイさん、イイのがありますよ」とか言って袖を引っ張ってくる商売上手な売人と、基本は同じだな。

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CDの詳細なブックレット解説によるとケンペは1939年に兵役に召集され、戦後は45年から3年間ケムニッツで指揮、その後ワイマールでアーベントロートのもとで指揮活動。49年にヨーゼフ・カイルベルトからシュターツカペレ・ドレスデンの仕事を任され、50年からカイルベルトの後継としてドレスデンの音楽監督に就任したとある。ちなみに建物としての初代ゼンパーオーパーはワーグナーがドレスデンに居た当時の1841年完成だが、30年経たずに1869年9月21日に火災で焼失する。これは、その前年1868年6月21日にミュンヘン宮廷歌劇場で「マイスタージンガー」が世界初演されてから半年後の1869年1月21日に初代ゼンパーオーパーで「マイスタージンガー」がドレスデンで初演されてから、わずか8か月後のことだった。ゼンパーオーパーと縁のあったワーグナーの「マイスタージンガー」は、火事で無くなる直前ぎりぎりのところでドレスデンのその劇場で上演されたわけである。その後、1878年にその息子により二代目ゼンパーオーパーが完成するまでの8年間は、木造の急ごしらえの仮設劇場で演奏が行われていたようである。このブックレットにはそうした経緯が、この仮設の小屋の外観と劇場内部のスケッチ(これが悲しいほど、しょぼい)とともに詳しく解説されていて、大変参考になる。このバラックのような小屋でワーグナー存命時にその壮大な楽曲が名門ドレスデンで演奏されていたと思うと、ちょっと複雑な気持ちになる。

そして、その二代目ゼンパーオーパーもよく知られるように第二次世界大戦末期の1945年2月13日夜の大空襲で破壊され、40年もの年月を経て社会主義時代の当時の旧東ドイツホーネッカー政権のもと、1985年2月13日にそれを忠実に再現した三代目の建物が完成したことは記憶に新しい。では、大戦後まもなくの頃はどうだったかと言うと、近くにシャウシュピールハウスという建物があるが、こちらも爆撃は受けたものの被害はゼンパーほど甚大ではなかったようで、こちらが早急に再整備され、ドイツでは最も早く1948年にはオペラの上演が復活され、シュターツカペレ・ドレスデンもここを演奏の拠点としたようである。なので、ルドルフ・ケンペがドレスデンで指揮活動をしていた1950年当時の活動の拠点は、このシャウシュピールハウスであったと思われる。

その1950年当時にケンペの指揮で大きな好評を博したシュターツカペレ・ドレスデンの「マイスタージンガー」の公演の模様を、スタジオ収録の形で翌1951年に録音されたのが、本CDのオリジナルテープの原盤であることが解説されている。なので、一部通販サイトの紹介記事に「1951年5月のライブ」と記載されているが、本CDのブックレット解説を見る限り、本録音はセッション録音であり、収録日は1951年4月29日と明記してある。制作者名や技師名はクレジットされているが、収録場所は明記されていない。おそらくではあるが、5月の本公演直前のゲネプロを利用しての、現地でのセッション収録かと思われる。また実際にこのすこぶる安定感のある演奏を聴けば、ライブ収録ではなくセッション録音であることは一目瞭然である。ただ、その演奏はたしかに一見ライブに思えるくらい、ヴィヴィッドで生き生きとしており、凡百のスタジオ収録演奏とは月とすっぽんの迫力がある。とは言え、実際のライブ収録でここまで傷のない完全な演奏を歌手ができると言うのは考えられない。テープは当時の MIttelDeutschen Rundfunks Dresden が制作し、50年代にベルリンの放送研究所に保管されていたものが2009年にドレスデンに返却され、その音源をもとに「Semperoper Edition」CDとしてリリースされ、19本のオリジナルテープは資料とともにドレスデン州立工科大で厳重に保管されているというようなことが解説されている。2016年7月発売とあるから、ごく最近リリースされたもののようだ。

手持ちの「マイスタージンガー」全曲のCDとしては、それでもまだまだ9作品目だ。世に出ている「マイスタージンガー」の録音を全作品聴いてやろうという趣味のよいことに挑戦する気は毛頭ないが、9種類目にしてようやく「大当たり!」の演奏に行き着いたようで、実にうれしい!これは、すごい演奏の「マイスタージンガー」である。直前に手元に届いたクナの55年バイエルンのライブでもフェルディナント・フランツのハンス・ザックスが聴けるし、それももちろんよかったが、今回聴いたケンペとドレスデンのこの51年の録音で聴けるフェルディナント・フランツのザックスはそれ以上に、自分が今まで聴いてきたザックスのなかでは、もっとも理想に近い演奏だ。「そうそう!こういうザックスを、こういういい音で聴きたかったのよ!」もちろんザルツブルクとバイロイトで実演で聴いたミヒャエル・フォッレはいま聴けるザックスとしては文句なしによいし、マレク・ヤノフスキとベルリン放送響のCDで聴いたアルベルト・ドーメンのザックスも深みがあっていい感じだった。過去の録音では、パウル・シェフラーやヨゼフ・グラインドル、オットー・エーデルマンなんかも素晴らしい。テオ・アダムはいくつかの録音でも聴けて過去のザックスの第一人者の一人には違いないが、録音によってはやや精悍で張りがあり過ぎると感じられなくもない。ウィーンの映像で聴けるファルク・シュトルクマンも同じように鋭い系の声質。もの凄い立派な声には違いないが。ショルティとシカゴのヴァン・ダムはちょっと世俗を超越し過ぎていて実在感に欠ける気がする。ハンス・ホッターももちろん過去の偉大なハンス・ザックスだが、録音で聴くにはちょっと時代がひと世代早すぎて、良質な状態の音源が限られるのが残念なところ。この長大な音楽喜劇をあれこれと聴いてきても、文句なしにこれが最高!と言えるハンス・ザックスに巡り合えるには、なかなかの月日と労力が必要なのである。そしてこのケンペのCDで、ようやくその理想のハンス・ザックスの演奏に巡り合えた気がする。「ニワトコの香りのモノローグ」も「迷妄のモノローグ」も、こういう演奏が聴きたかった。素晴らしいのひとことだ。まずもって、音質も大変良いのだ。録音は、どちらかと言うとオケの音をやや犠牲にしてでも、歌手の声を優先して制作している印象はある。また、入力レベルがピークに振れる部分では、やや音が歪み気味に聴こえてしまう感もあるが、その辺のところを絶妙に調整さえできれば、大変雄大で広い音場感のなかで、歌手の素晴らしい演奏が聴ける。

ザックス以外でも、一幕目の冒頭は弟子ダーフィトの独壇場だが、ゲルハルト・ウンガーのちょっと軽めの個性的な声の歌唱は、独特の面白さがある。こどもの頃にTVシリーズで人気のあった「ケンちゃんシリーズ」で「マンガさん」とかいうような、ちょっと影の薄そうな田舎出の青年のような役があったと思うけど(古い!古すぎる。年がばれる)、突然それを思い出した。クルト・ベーメのポーグナーもなんとも立派で素晴らしい低音で、これも理想的でとても贅沢なポーグナー。ハインリッヒ・プファンツルのベックメッサーは当時の他の録音でもいくつか聴けるけれども、この演奏がベストに感じる。そして、なんと言っても、肝心かなめのヴァルター・フォン・シュトルチングのベルント・アルデンホフが、とても自然で大げさなところがそれほど気にならず、聴いていて大変心地よい。ほかの著名なヘルデンテノールと言われる人に比べると、ややもすると中庸的扱いを受けるかもしれない。でも、なんでワーグナーの楽劇のテナーの全部が全部、輝かしく張りに満ちた立派なヘルデンテノールばかりである必要があるのだ?それはそれで実演で聴くとたしかに一種の興奮感があるのだけれども、年がら年中硬質でマッチョなヘルデンテノールばかり聴いていたら、いい加減耳が疲れてくるんだな。特に過去の録音の場合、手持ちのオーディオ・セットとの相性が良くないと、耳を直撃する帯域なのだ。その意味で、これほど生理的に不愉快な思いをせずにヴァルターの立派な歌唱を楽しめたのは、例外的だ。当時の録音でヴァルター役で人気があったのは、ハンス・ホップとかギュンタートレプトウだとかと言うのがわかるが、どうもこういういかにも表面的にマッチョを装う歌い方のヴァルターというのは、好きになれないのである。

パン屋の親方のフリッツ・コートナーも聴かせどころがある役だが、歌手によっては印象を強く残すことができる人と、ほかの親方大勢に埋もれてしまう人の二者にわかれるが、ここでのカール・パウルという歌手は、明らかに前者のタイプであることがよくわかる。エーファとレーナの女声二人も文句なし。この録音で素晴らしいなと思うのは、51年という古いモノラル録音にも関わらず、ザックスとエーファの重唱やザックスとベックメッサーの重唱、そしてそこにエーファやヴァルターの重唱が入る二幕目の重唱の部分などで、とても明確に心地よく、それぞれの歌唱や歌詞が聴きとれることで、なかなかこういう良好な録音はステレオの時代になっても、当たり前にあるわけではない。得てして団子のように音がくっつきすぎてしまって明確に聴こえないことのほうが多い。そう、とにかく全曲を通して、どの歌手のどの歌詞も、まるでドイツ語の原詩が左右のスピーカーの間の中空にくっきりと浮かび上がるように明快に感じられるのだ。こうした素晴らしい演奏と良い録音・音質というどれもが揃ったCDに巡り合えることができるというのは、そうそう毎回というわけにはいかない。


ワーグナー:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』全曲

フェルディナント・フランツ(靴屋ハンス・ザックス)
クルト・ベーメ(金細工師ファイト・ポーグナー)
ヨハネス・ケムター(革屋クンツ・フォーゲルゲザング)
クルト・レークナー(ブリキ屋コンラート・ナハティガル)
ハインヒリ・プフランツェル(書記ジクストゥス・ベックメッサー)
カール・パウル(パン屋フリッツ・コートナー)
カール・ハインツ=トーマン(錫細工師バルタザール・ツォルン)
ハインリヒ・テスマー(香料屋ウルリヒ・アイスリンガー)
ゲルハルト・シュトルツェ(仕立屋アウグスティン・モーザー)
テオ・アダム(石鹸屋ヘルマン・オルテル)
エーリヒ・ヘンデル(靴下屋ハンス・シュヴァルツ)
ヴェルナー・ファールハーパー(銅細工師ハンス・フォルツ)
ベルント・アルデンホフ(騎士ヴァルター・フォン・シュトルツィング)
ゲルハルト・ウンガー(徒弟ダヴィッド)
ティアーナ・レムニツ(エヴァ)
エミーリエ・ヴァルター・ザックス(乳母マグダレーネ)
ヴェルナー・ファールハーパー(夜警)

ドレスデン国立歌劇場合唱団
シュターツカペレ・ドレスデン
ルドルフ・ケンペ
(指揮)


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リッカルド・シャイー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団のアジアツアーの日本公演最終日となった10/9、京都コンサートホールにて鑑賞してきた。曲目はオール・リヒャルト・シュトラウス・プログラムで、この夏のルツェルン・フェスティヴァルの開幕公演と同じ内容。前半に「ツァラトゥストラかく語りき」、後半に「死と浄化」と「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、アンコールは「サロメの七つのヴェールの踊り」。最初にプログラムを見た時は、前半と後半の内容が誤記かと思ったが、こうしてのっけからいきなり「ツァラトゥストラ」でガツーン!とやられて、最後に「ティル」を持ってくるというのもなかなかのやり方だと感じた。

とにかくすごいコンサートだった。さすがにヨーロッパ各地から集まったトップ・プレイヤーたちによるルツェルン祝祭管弦楽団。こんなとんでもなく贅沢なサウンドのオール・リヒャルト・シュトラウス・プログラムは、かつて体験したことがない!素晴らしいなんて月並みな言葉では表現しきれない圧倒的な音楽体験だった。世界的スーパーオーケストラのコンサートは数々体験してきているけれども、その感動の記憶を新たに上書きするに十分な、とてつもない演奏だった。どれだけコンサート通いをしていても、ここまで圧倒されるコンサートに巡り合えるのは、何年かに一度、あるかないかだ。本当にものすごい演奏に接すると、もはやあれこれと感想を言葉で記すのも億劫になってくる。

このフェスティヴァルの様子は過去アバドの時代に度々、NHK-BSが放送しているのでたいていは録画していて、いつかは一度行ってみたいと思っていたところに、あちらのほうからシャイーとともにタイミングよく京都まで来てくれたのは実に幸運と言うよりほかなかった。アバドが亡くなった後は、どうなって行くのかが気がかりだったが、シャイーとの演奏がこんなにすごいものになっているとは、ちょっと予想外だった。アバドとはまったく個性の異なる指揮者だが、逆に今後はそれが刺激となり、シナジーとなるのかもしれない。シャイー、ほんんとにイイ感じで大物になったなぁ。

「ツァラトゥストラ」は、ヴィオラのヴォルフラム・クリストの子息のラファエル・クリストがコンマス席に着き、後半はグレゴリー・アースに入れ替わった(ちなみにパンフレットで楽団員のリストを見ると、他にハープとヴィオラにもクリストという姓の女性名があり、これが奥さんだとか娘さんだとしたらまるでクリスト一家勢ぞろいのオケということになる。すごい一家!)。弦の配置は下手側から第一、第二ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの順で、チェロ・ヴィオラの後方にコントラバスとなっていて、低域は上手側にまとめられていた。ハープ×2が二段目の下手側。自席は10列目程度のほぼ中央で、ゴージャスで分厚い響きが心底から堪能できた。冒頭のオルガンも期待通りの大迫力で、痺れたこと!「ツァラトゥストラ」は、R.シュトラウスの交響詩のなかでもとりわけ大好きな作品で、過去にはライプツィッヒを訪ねた際にアンドリュー・デイヴィス指揮でゲヴァントハウス管で聴いているし、最近では昨年のNDRエルプ響の来日公演で大阪フェスティヴァルホールで聴いている。同じ曲だが今回のルツェルン祝祭管の演奏は異次元の凄さで、望みうる最高の「ツァラトゥストラ」が聴けたと実感している。ひとつには、京都コンサートホールという会場の音響も理想的だったのが、相乗効果としてあるかも知れない。完ぺきなシューボックス型のホールの雰囲気は、サントリーホールやフェスティヴァルホールなどよりも、現地ルツェルンのカルチャー・コングレスセンターのホールの形状に近い。最近では過去にヤンソンスとコンセルトヘボー管やシャイーとゲヴァントハウス管のマーラー7番などをここで聴いているが、音響もすこぶるよい。室内楽的で繊細かつ複雑なソロが交互に移り変わっていくのを聴いていると、本当にR.シュトラウスの天才をまじまじと実感する。ホイップ・クリームの泡のような繊細な弱奏から大音響での強奏にいたるまで、まったく一切の乱れもなく完璧な演奏を繰り広げる様は圧巻のひとことだ。ルツェルン祝祭管の実演ははじめての体験だったが、自分のコンサート体験でも間違いなく最上位に来る素晴らしいコンサートだった。

しかしまあ、渋ちんの関西人相手にS席3万円という粋な価格設定から予想のとおり、客席には随分と空席にゆとりがあり、実に適度にくつろげる物理的空間のなかで最高の演奏を聴けたのは幸いである。前方中央付近のよい席でも10席単位でガラッと空いていたし、二階左右のバルコン席も二列目は全部空席のようだった。まさに「もの好きなら来てよね」的な粋な価格設定である。これだけ空席でも、多分会場使用料が割安と言うか、「京都の秋音楽祭」の目玉ということで、京都市と京都コンサートホールが共催と言うことになっているので、主催者のカジモトには損が出ない仕組みにはなっているのだろう。マーケットサイズで言えば大阪のフェスティヴァルホールやザ・シンフォニーホール、西宮の兵庫県立文化芸術センターのほうがはるかに客が入って安全なのに、わざわざ京都でこんな贅沢なコンサートを開催できたのは、いまも言ったように京都市の粋な計らいのおかげか。ほんま、おおきにどす。おっと、そもそもはメインスポンサーさん(Adecco Group、チューリッヒ本拠の人材派遣会社)のお大尽のおかげということも忘れちゃいけないか。そうでもなければ、いくらなんでもこんなガラガラのコンサートは成り立たないだろう。

4万円のベルリンフィルのチケットが争奪戦の狂騒劇を繰り広げるかげで、こんなスーパー祝祭オケの3万円にチケットに見向きもしない日本のクラシック音楽マーケットの客層って、いったい何なの?

なお、このアジア・ツアーは10/6−9まで連日東京、川崎、京都をまわり、そのあとソウルと北京で終了となるらしい。

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    ルツェルン・フェスティヴァルHPより拝借

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二年前の2015年秋からはじまった新国立劇場での「ニーベルンクの指環」チクルスも、いよいよ今回の「第三夜・神々の黄昏」で最後となる。その三日目の公演(10/7)を鑑賞してきた。

昨秋の「第一夜・ワルキューレ」がウィーン・フィルの同演目と同時期にバッティングしたので断念したため、結局全演目鑑賞は叶わなかったが、東京での質の高いワーグナー上演に触れる機会(NHK春祭とも並行して)が提供されたことは有難かった。「序夜・ラインの黄金」は東京フィルの演奏で聴き、「第二夜・ジークフリート」は東京交響楽団で聴いた。いずれも多少の粗さはあったとは言っても、十分に迫力があり聴きごたえがある、良い演奏だった。そして今回の「第三夜・神々の黄昏」は読売日本交響楽団の演奏。自分自身はいままでこのオケの演奏に触れる機会がなかったし、在京オケの事情について詳しく承知しているわけでもないので、まったくの白紙の状態で演奏を聴いた。ただ、ネットなどで事前の情報などをいくつか目にしていると、ずいぶんと下馬評が高いようで、実力と人気がある団体ということがうかがえる。まあ、そうした他人の意見はあまり参考にするほうではないし、自分としては多分はじめて聴くオケなので、まずはそのオケの演奏がどういうものかが関心事だった(歌手については言うまでもないので)。

まずは正直に言うと、第一幕を聴き終えた段階では、ていねいで正確な演奏なんだけれども、なんとも色気に欠ける演奏をするオケだなあ、と感じたのが正直な感想である。丁寧で正確にきちんと演奏しているんだけれども、ワーグナー演奏に必要な「匂い立つような妖艶さ」、つまりきわどさや妖しさというようなゾクッとさせられる要素が皆無で、健康的・健全に過ぎるように感じたのだ。すくなくとも第一幕では。事前の下馬評では、このオケがこのチクルスでは最も期待値が高いというような意見を目にしたのであるが、「へえ?この演奏で?」というのが正直なところだった。席は二階席正面中央付近の最前列なので、視認性も音響的にも最良のポジションである。よく見えるオケピット内のオケの構成も最大規模で圧巻(ハープ×4、ティンパニ×2)の印象なのだが、音はと言うとなんだかゾクッとするものが伝わってこない。金管はさすがにまとまりがあってうまいのだが、弦の艶やかさや個性が全然伝わってこない。もしこのままの調子で二幕目も三幕目も同じような演奏だったら、ひょっとしたらブーイングがもっと出ていたかもしれないと思ったが、音が突如変わったのは、第二幕でワルトラウト・マイヤーのヴァルトラウテが登場してからである。本当に、音が一変した。ようやくオケの音に艶と色気がのってきたのである。飯守マエストロには今回申し訳ないけれども、オケの音を変えたのは間違いなくW.マイヤーの歌声である。この人の声は、オケの音色まで妖艶にさせてしまう不思議な魔力があって、それはヴァルトラウテのような出番の少ない脇役でも同じような力を発揮することがわかった。いや本当に、マイヤー様様である。意外にも、新国立では初登場とある。ちょっと前のNHK春祭「ワルキューレ」での代役のジークリンデにしても、予想外な形で日本のファンに姿を見せてくれるところがうれしい。

第三幕はもう、まったく非の打ちどころがない素晴らしいオケの演奏だった。ジークフリートの死の場面の圧倒的な演奏と最終盤のブリュンヒルデの自己犠牲の場面の素晴らしい演奏は、第一幕の無味乾燥な印象を補って余りあるものだった。フィナーレを飾るにふさわしい、圧倒的で素晴らしい演奏だった。

ところでブリュンヒルデのペトラ・ラング。こちらも初日などの感想をネットなどでみていると文句なし手放し、よかったよかったの賞賛の嵐で期待値が高かったが、こちらも第一幕は「え?調子悪いの?」って思うくらい、音程が不安定に感じた。高域もちょっと荒っぽくきこえるし、中低域の声量が出ていない。この人の歌は最近ではオルトルートやジークリンデで聴いているけれども、その時とはまるで別人のようだ。ブリュンヒルデで言えば他の歌手でも聴いているけれども、それを圧倒的に凌いでいるかというとそこまでには感じられない。もちろんこの歌手が嫌いなはずはないし、オルトルートなんかは本当にぴったりだと思うけれども、どんな歌手でも役柄や体調如何でいつも万全というわけではない。自分の耳で感じたことではなく、知名度や「この歌手なら素晴らしいに決まっている」という安易な思い込みや先入観だけでものを書くのはよくないだろう。なので感じたままに書いている。受け手である自分のいたって個人的なとらえ方である。とは言え、そう感じたのは第一幕のみで(本当に今回の第一幕は思いっきりはずれだった)、二幕、三幕と進むに連れどんどんよくなっていったのは間違いない。とくにジークフリートがハーゲンに薬を盛られてブリュンヒルデのことを忘れてしまう場面では、再会した喜びから一転して「私のことがわからないの?」と疑心暗鬼の表情に変わっていくところの彼女の演技力と表現力が並外れているのが、オペラグラスで観ていると大変よくわかった。こうした部分では高い評価を受けて然るべき歌手である。

ハーゲンのアルベルト・ペーゼンドルファーも、悪くはないが声量的にはやや物足りなく感じた。グンターのアントン・ケレミチョフはいかにもタキシードが似合いそうなスタイルの美男で、ジークフリートを裏切る良心の呵責に苛まれれて葛藤する演技力がなかなかのものだった。そしてなんと言っても要はジークフリートのステファン・グールドの文句なしの歌唱!今回のチクルスの成功はグールドなしにはありえない!いま聴ける最高のヘルデン・テノールの一人であることは間違いない。今回の歌唱も圧倒的な声量で、非のつけようがない素晴らしいものだった。とにかくグールド様に感謝感謝である。

第三幕の冒頭では、場末の娼婦に身をやつしたかのようなラインの乙女(際どい衣装に、なぜか傷だらけ、あざだらけのメイク)がジークフリートを誘うかのように四人での歌唱が絡む場面があるが、ここはラインの乙女も美しく聴きごたえ十分の歌唱でよくできていた。パルジファルと花の乙女の場面とよく似た雰囲気だが、ヴォークリンデの増田のり子さんは上半身は水着のような下着一枚で肌も露わで文字通り体を張った演技と歌で、気合が入っていた。何本もの横に長い蛍光管が上下に動いてライン川の波を現しているのも、ひと昔前の香り漂うがこれはこれでわかりやすい。

演出全体で言うと、まあもう20年ちかく前のゲッツ・フリードリッヒ演出の舞台。なにをいまさらと言う意見が大勢かもしれないが、いま現在の意味不明の前衛演出でやったらやったで文句はでるし、変わり映えのしない既視感のある舞台でやっても不満は出る。客はなにを持ってこようが好き勝手なことをいうものである。自分としては、この中途半端な古臭さが日本で言うところの昭和ノスタルジー的な妙な心地よさも感じられ、悪くはなかった。今どきこういう安っぽいキャバレーのようなロマンチックさのかけらもない直接的で平べったい照明などオペラの舞台ではあまり見なくなって、いかにもゲッツ・フリードリッヒらしい感じだし。あと、ジークフリートが死ぬ場面で、彼を左右から囲むハーゲンの手下の者どもの衣装(地味な配色のくたびれた感じのコート)とかたたずまいの静止画的なシルエット。これも彼独特の味わいがあって、なんか懐かしい。

午後二時開演で午後八時前に終了。急いで品川駅に移動し、新幹線での日帰りが十分に可能だった。

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フィンランド国立歌劇場公演案内より


指揮:飯守泰次郎
演出:ゲッツ・フリードリヒ

【ジークフリート】ステファン・グールド
【ブリュンヒルデ】ペトラ・ラング
【アルベリヒ】島村武男
【グンター】アントン・ケレミチェフ
【ハーゲン】アルベルト・ペーゼンドルファー
【グートルーネ】安藤赴美子
【ヴァルトラウテ】ヴァルトラウト・マイヤー
【ヴォークリンデ】増田のり子
【ヴェルグンデ】加納悦子
【フロスヒルデ】田村由貴絵
【第一のノルン】竹本節子
【第二のノルン】池田香織
【第三のノルン】橋爪ゆか

【合 唱】新国立劇場合唱団・二期会合唱団
【管弦楽】読売日本交響楽団

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今回初来日の公演ということで話題のキリル・ペトレンコの指揮と、このプロダクションがロール・デビューということで話題のクラウス・フローリアン・フォークトのタイトルロールがふたつの大きな柱となった、今回のバイエルン国立歌劇場「タンホイザー」の初日(9/21)を鑑賞してきた。NHKホール、午後3時開演。

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フォークトとツェッペンフェルト、エレーナ・パンクラトヴァの主要3人は、この夏のバイロイト音楽祭で耳にしてきたばかりで、二か月連続でこのような豪華な配役で本格的なワーグナーの公演が鑑賞できるのは幸運だ。アネッテ・ダッシュはバイロイトでエルザを歌ってるかと思うと、なぜかウィーン・フォルクスオーパ響の来日ニューイヤーコンサートでウィーナーワルツやポルカも歌っていたりする。

さてまずははじめて聴く話題のペトレンコの音楽がどういうものなのかが最大の関心事のこの公演。あとでカーテンコールに出てきたご本人は、体格は意外に小柄な印象。それが、ピットでの指揮ぶりを見ていると、かなり多彩な両手の動きで音楽のニュアンスを大きく表現しているように思える。指揮の印象としての表現力という意味においては、かなりダイナミックな動きでオケを統率するタイプに感じられる。ところが、である。そこで表現される音楽はダイナミックで迫力満点のイケイケドンドンな濃い口の重厚な味わいかと思いきや、まったく逆の印象で、とにかく繊細で内省的、抑制的な演奏だったことに驚いた。もちろん金管の完璧な咆哮など、要所要所ではバイエルンならではの豪壮な演奏の箇所も十分に聴かせてくれたのは言うまでもないが、全体の印象としては非常に緻密で抑制された繊細な表現のなかに、この曲の究極の美の凝縮を観たような印象の音楽だった。

とくに第三幕のマティアス・ゲルネのヴォルフラムのアリアなどは、「さあ、これこそはご存知、夕星の歌でござる」というような歌謡ショー的な俗っぽいところが一切なく、なんと抑制的に内面の思いを切々と歌って鳥肌が立ったものだったか!音楽の美を究極まで突き詰めたような、まれに見る深く内省的で素晴らしく美しい演奏で、時間の経過を一瞬忘れさせられるような印象だった。ちょうど舞台の装置にドイツ語の字幕で一秒が経ち、一分が経ち、一時間が経ち、一日、一週間、一月、一年、百年、千年、万年、億年が経ち、そのまた何倍もの時が経ち…と、タンホイザーとエリザベートが「死」という「永遠」によってのみ結ばれたことを暗示する演出内容とも合っていて、ここは本当に鳥肌が立つほどゾクゾクとする究極の音楽美だった。周囲からは女性(と思うが)が感極まってすすり泣いている雰囲気が伝わってくる。ことほど左様に、この演奏全体を通じて、単に音圧の迫力で爆演を聴かせるというような一面的なものでなく、とにかく極めて精緻な音楽美を極める、そうした方向性が感じられる印象的な演奏であった。炎を例に言うと、めらめらと焔(ほむら)立つ紅蓮の炎というのは火のイメージとしては派手でわかりやすいけれども、真に高温・高エネルギーになった時の炎の色というのは薄白い青からほとんど無色に変わる境界だと言うではないか。わかりやすい例えかどうかはわからないが、自分にはそんなことが頭をよぎった演奏だった。この作品を実演で観るのは、98年のベルリンドイツオペラ来日公演(イルジ・コウト指揮、ゲッツ・フリードリッヒ演出、ルネ・コロ、マッティ・ザルミネン、ベルント・ヴァイクル他)以来なので、もう20年ぶりくらいということになる。もうずいぶんと時間が経ったが、その時の演奏の印象とはまるっきり別物のように感じられた。

さてワーグナーとしては比較的早い時期の作品の「タンホイザー」だが(1845年ドレスデン初演)、その後のワーグナーの諸作品のなかにも連綿と共通して描かれる人物像は、すでにこの作品のタンホイザーの描写から一貫している。地元テューリンゲンにいた時に肉欲が支配する禁断の地ヴェーヌスベルクに憧れてその地に足を踏み入れ、長らくそこにとどまってヴェーヌスの寵愛を堪能した後、突然里心がついて「マリア様のもとへ返して」と清浄な世界への帰還をヴェーヌスに訴える。地元に戻ったら戻ったで、「愛の本質」が主題の歌合戦で、キリスト教義的で神聖で純潔な愛の歌を歌う他の歌手らに対し、「偽善者め」「肉欲としての愛の歓喜も知らないものが、えらそうに愛の本質とか言うな!」とか言って散々に disり、ついにはヴェーヌスベルクにこそ愛の本質があると息まき、彼らから絶縁される。要するに、こちらの世界にいてはこちらの世界の価値観になじめず、あちらの世界に行ったら行ったで、あちらの世界にもなじめない。どこの世界に行こうとも、常に居場所がない永遠の Fremde、アウトサイダー。リュッケルトの "Ich bin der Welt abhanden gekommen" とはまた違うけれども、この世に永遠に居場所がない男の悲劇。こういうのは実にワーグナーやマーラーの自家薬籠中のものだ。

それと、個としての自由独立意思の存在と社会共同体の制約とのはざまので葛藤。これもワーグナー諸作品の共通のテーマであり、時代を超えて普遍的な問題提起である。人間ワーグナーのいた社会は19世紀中ごろのキリスト教社会で、ヴォルフラムや他の吟遊詩人らが高らかと歌い上げるのは、その時代のその社会のなかで受容され、涵養されて来た「愛」の価値観であって、じゃあ、キリスト教が広く浸透する以前の時代やまったく異なった世界ではどうなんだろうという、素朴で自然な問いがそこにある。人間が集住し、共同体という社会の枠をつくり、文化・文明を築いてきた反面、では集住もせず、共同体も法もなく、自然の原始的状態のなかで一個の生物としての人間として、そこに男と女があった時、その「愛」とはどのような形態のものであっただろうか。そうした社会背景の違いを乗り越えて、人間は一人の相手への排他的純愛を貫くものなのか、あるいはそれは慣習か制約によるものなのか。そうした普遍的な問いが、ワーグナーの諸作品の骨をなしていると感じられるわけである。

さて、演出についてはいろいろな意見が出てくるだろうが、一言で言うと、全体的に薄暗い色調でセットの構造もシンプルなものだった。この薄暗い照明の演出は、今回の音楽と連動しているのかもしれない(続く二回目、三回目の演奏が同じ印象のものだったと仮定して)。ただ、薄暗いので、正直目が疲れたし、よく見えなくて確認できなかったところもある。席は2階のドイツ語で言う Mittel Recht の二列目で音響はまったく問題なく、舞台全体の視認性もよかった。時々、NHKホールは音響が悪いとう不満の声を見かける場合があるが、どの席を指してそれを言っているのか明らかにしていなければ、あてにできるものではない。確かに体験上特に二階後方の上階の下部にもぐりこんだ構造になっているところは、直接音や反射音がまったく届かず、音響としてはとても悪くなるのは事実だが、同じ二階でも前方の席や一階中央など、よい席を選べば他のホールと比べて特段愚痴を言いたくなるほど悪いと言うほどのこともない。あとは立地や全体の雰囲気など、好みの問題だろう。実際にこのホールで上質の公演をいくらも体験してきているし、同じバイエルンの2001年の「トリスタンとイゾルデ」も、ここで最高の演奏を聴き、最後の感動的な場面はいまでも印象に残っている。

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演出についてひとことだけ言うと、今回も出ました、「あ、これはあかんわw」って感じのコレオグラフィー(個人の好み)。ピッチリとしたボディタイツでクネクネと意味不明の動きをするあれ。去年の夏のザルツブルク音楽祭「ダナエの愛」でもまったく同じ雰囲気のモダン・コレオグラフィがあって辟易したので、今回も同じ人かなと思ったら違う人のようで、ジュネーブで活動中のシンディ・ヴァン・アッカーと言う女流振付家(「ダナエの愛」のタコ踊りは Alla Sigalova なるロシア人女性」)。なんでモダン・コレオグラフィってのはこんな感じになるのか。体を使っての芸術表現てのは難しいものだろうとは思うけれども、これだけは目障りでしかたがない。あれ見て美しいと思う人がどれだけいるの?なんか舞台の正面で一列で後ろ向きに全員正座!みたいな感じで10分くらいそのままの状態の場面があったけど、虐待?のようで痛々しかったな。今どきの日本人でも正座で10分とか、考えられない。あとはダナエの時のような意味不明のタコ踊り。コレオグラフィ自体が嫌いというわけではないし、バレエはむしろ好きなほうだが、この種のものは生理的にダメである。逆に、合唱が涙が出るくらい大感動で、素晴らしかった!もう、別次元の合唱で鳥肌が立つほど、最高だった。バイロイトで隣席で楽しくお話しした合唱の女性の方、薄暗い舞台だったのでよく視認はできなかったけど、本当に素晴らしい合唱でしたよ!(と、こんなところで言っても何の意味もないが) あと追記だが、最初のバッカナールの音楽の場面での裸体の女性たちが矢を射る場面は、どの女性も均整のとれたプロポーションで特に厳選されたような印象で、非常に美しい方法でクピードのエロスと巫女の格調を同時に表現していると感じた。この美しい裸体を見て文句を垂れる者がいるとしたらまったく意味がわからない。

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    なぜかタンホイザーら登場人物は「地下足袋」を履いての登場。なにかと謎の多い演出だった。
     右端の羊飼いの子役はカレ・フォークトという名前から察するにK.F.フォークトのお子さんのようである。

今回は幕間の休憩中、丸テーブルでコーヒーを飲んでいると、目の前30センチくらいの目と鼻の先を、元議員さんのT中M紀子さんが「ねえねえ!シャンペンはどこでもらえるの?」「シャンペンはどこでもらえるの?」「シャンペンはどこでもらえるの?」といつものあの早口で間違いなく三回連呼しながら通り過ぎて行った。シャンペンなら目の前のカウンターで売っているのだが、こういうセンセイがたはこういうところで並んでシャンペン買うというのは考えも及ばないのだろう。タダで招待されてタダでものを貰っての人生送ってきてるんだろうな。そもそもこの人がワーグナーを聴くというのは知らなかった。オペラ好きの元首相は何度もお見掛けしたけれども。休憩二回で終演はほぼ午後8時。一、二階は見渡す限りではほぼ席は埋まっていたが、念のためふと三階のほうを振り返って見ると、見える範囲で言うと、結構空席があるようだった。同じ平日でも木曜でなく、せめて金曜にしてくれたらまだ来やすいんだけれども。今回「タンホイザー」は木曜、月曜、木曜の三回ってそりゃ、まっとうな勤め人ならそれこそヴェーヌスベルクにでも行く勇気が要りますわな。
(※三日目公演の追記あり↓)



バイエルン歌劇場2017来日公演「タンホイザー」

2017年9月21日(木)午後3時開演
会場:NHKホール
指揮:キリル・ペトレンコ
演出・美術・衣裳・照明: ロメオ・カステルッチ
合唱監督:ゼーレン・エックホフ
 
領主ヘルマン:ゲオルク・ツェッペンフェルト
タンホイザー:クラウス・フロリアン・フォークト
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ:マティアス・ゲルネ
ヴァルター・フォン・フォーゲルヴァイデ:ディーン・パワー
ビッテロルフ:ペーター・ロベルト
ハインリッヒ・デア・シュライバー:ウルリッヒ・レス
ラインマル・フォン・ツヴェーター:ラルフ・ルーカス
エリーザベト、領主の姪:アンネッテ・ダッシュ
ヴェーヌス:エレーナ・パンクラトヴァ ほか
 
バイエルン国立管弦楽団
バイエルン国立歌劇場合唱団

※追記

三日目で本演目最後の公演となった9月28日(木)も、その後鑑賞。
ほぼ同じ距離感の席で観たが、オケの音は初日よりいくぶんほぐれて、しなやかさが増していた。21日に聴いた印象は、やはり初日ということで反応を確認しながらということもあったのかもしれない。ただ、分厚いサウンドのうちに抑制的で繊細に、ていねいに音を紡いでいくというペトレンコの印象は初日と同じように感じた。ただ、どういうわけか三幕目になって急に木管の一部に音があらっぽく聴こえてしまう箇所がいくらか見られた。次の日にまだ最後の「魔笛」が残っているのが疲れに出たのだろうか。それと、エレーナ・パンクラトヴァは、高域はきちんと出ているのだが、低い部分の声量の出がいまひとつで物足りなく感じる部分があった。あの奇妙な衣装というかセットに声が遮られたのだろうか。ほかの主だった歌手については、初日同様言うことのない素晴らしい演奏で、思い切って二回聴きに来た甲斐があった。第二幕のセットでは装置にトラブルがあり、中央の白い円形のオブジェが回転して、上に取り付けられたノズルから血のような真っ赤な液体が噴射されて、おどろおどろしいアブストラクトな模様をつけていく仕掛けになっていたのだが、明らかに異常なノイズとともに途中で液体の噴射が止まってしまい、四分の一くらいのところで未完成のままストップしてしまった。結構ビジュアル的にインパクトのある装置だっただけに、これは残念な失敗だった。なお、牧童役の子供は初日はK.F.フォークトの子息のカレ・フォークトくんだったが、この日は代役に変更となっていた。

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前回は近年の「マイスタージンガー」の映像から、その1として2008年のバイロイト音楽祭でのプロダクション(指揮セバスティアン・ヴァイグレ、演出カタリーナ・ワーグナー)について書いた。今回は[その2]として、続けて2013年のザルツブルク音楽祭での同作品の映像に関する記事。この年は、ワーグナーとヴェルディのともに生誕200年の記念年で、本家バイロイトとの兼ね合いからか(夏の)ザルツブルク音楽祭では普段は上演されないワーグナー、それも出演歌手や合唱の多さ、上演の複雑さから並大抵の準備では済まされない「ニュルンベルクのマイスタージンガー」という大曲が取り上げられた(ヴェルディはA・パッパーノ指揮「ドン・カルロ」)。それまで、いつか本格的ななまの舞台でこのオペラを観てみたいと思っていたところに、このザルツブルクの情報を目にしたもので、さっそく「ドン・カルロ」や「コジ・ファン・トゥッティ」やウィーン・フィルのコンサートなどを含めいくつかの他の演目もチョイスし、申し込みをして初のザルツブルク詣でとなった。このブログではもう何度もしつこいほど書いてきているが、そもそもこのブログ開始のきっかけ自体がその年のザルツブルク音楽祭だったのだから、仕方がない。

この映像はあいにくNHKでの放送はされず、DVDとブルーレイディスクは翌年の夏にUNITELからリリースされた。輸入盤だが、有難いことに日本語字幕も選択できる。指揮はダニエレ・ガッティ、演出は北欧の奇才ステファン・ヘアハイム。演奏はもちろんウィーン・フィルで、ザルツブルク祝祭大劇場での収録。ウィーン・フィルの贅沢な演奏はもちろんのことだが、このプロダクションでは舞台のセットや衣装、装置などに相当な予算をつぎこんで、ザルツブルクならではの非常に贅沢な公演となったことが、強く印象に残っている。この曲を、このような贅沢な舞台演出で、そしてウィーン・フィルのような極めて上質の演奏で聴ける機会は、日本では残念だがまず絶対に、ない! なので、これはわざわざザルツブルクまで足を延ばしてでも観にくる価値は、この曲のファンであれば納得できるというものだ。

とにかく実際の舞台で初っ端からガツーンとやられたのは、前奏曲が終わって「Da zu dir der Heiland kam〜」と合唱で第一幕が始まるその瞬間だ。実は前奏曲が始まる前から舞台のセットはすでに用意されていて、パジャマ姿のミヒャエル・フォッレ扮するザックス(=ワーグナー)が曲の着想を得たという感じであの前奏曲がはじまり、その時にいったん彼が舞台のカーテンを閉じる。この間、そのカーテンにはそれまでそこにあったザックスの部屋のセットの様子がそっくりそのままプロジェクション・マッピングで写されていて、つい今しがたそのカーテンの奥に引っ込んだザックスの動きも投影されている。あたかも透けたカーテンの向こうにそのセットが見えているかのような風景なのだが、これはもちろん事前に収録した映像を遮光性のカーテンに投影しているのだ。その映像が前奏曲の後半でいっきに舞台下手側におかれていた家具型のライティングデスクにズームアップされていき、ほぼそのデスクから上部の書棚くらいまでズームアップしきったところでこのカーテンが突然開いて、この家具型のライティングデスクの実際のサイズを何十倍も大きく引き延ばしたサイズの超巨大なセットになって、おもむろに目の前に出現する。ライティングデスクの書棚は教会のオルガンのイメージに重なるようにデザインされていて、その前で徒弟らが整然とならんで合唱する場面は映画「サウンドオブミュージック」冒頭の教会での合唱場面を想起させる。実際、前から7列目か8列目くらいの席に座っていたが、想像もしていなかったこの第一幕冒頭の場面で、完全に脳天からガツーンとやられた気分だった。なにしろ、上手側の二重舞台の床の角がステージ上に収まりきらなくて、オケピットのほうにまで一部はみ出しているほどの立体的な構造となっているのだ。再生映像では、TVがいくら大画面でもいくら画質がよくても、ディスクの映像からはこの幕が開いた時の衝撃は伝わって来ないのは実に歯がゆい。実に残念だ。もう少し前方から、いくぶん広角のレンズで撮影していれば、少しはこの場面の壮大感が伝わったかもしれない。画質はきれいなのだが、撮影アングル的にこのワイド感を再現しきれていないのは、本当に残念なのである。

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と言うように、ここからはセットが実物大から超巨大に引き延ばされた分、登場人物はその分相対的に全員矮小化されて、夢のなかの妖精たちのサイズとなって、この夏の夜の夢物語りを紡いでいくと言うしかけだ。実際、「子供の魔法の角笛」などをベースに全編メルヒェンとして描いている。それに加えて、合唱のひとりひとりにいたるまで皆、衣装が実にカラフルでおしゃれ。ワーグナーの頃の19世紀後半のイメージで、時代衣装と言っても古臭すぎないのがよい。実際のザックスの時代のいでたちでは素朴すぎてヴィジュアル的に単調に感じることが多いのだ。ダーフィトら若い徒弟たちの衣装は配色も鮮やかで、きれいな花の冠をあしらったりしてとても新鮮な感じが表現されている。いまの時代、オペラの舞台衣装をこれだけ贅沢に使えるなんて、世界的にもまれなことだろう。どのオペラハウスの舞台も、予算がかさまない現代風の衣装に時代を移していることのほうが多くなっている。しかも今回のこれらの贅沢なセットや衣装が、再演なしの一シーズン限りの使い切りなのである。こんなことは、ザルツブルク以外ではそうできることではない。また、衣装だけでなく、主役たちはもちろん、徒弟や親方たちに至るまで、それぞれの細かい表情や演技まで実にいきいきと演出が活きていることが伝わってくる。おそらく、この作品の映像のなかでもっともカラフルな舞台映像で若い世代にも広く楽しめるのは、この映像ではないかと思う。

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歌手は文句なしにザックスのミヒャエル・フォッレが素晴らしい。この時代にこのようなザックスの第一人者の存在に恵まれたことは幸運である。ヴァルターのロベルト・ザッカも、実は現地で観た時点ではそれまで何度も繰り返し映像で見聴きしてきたクラウス・フローリアン・フォークトのヴァルターのイメージの刷りこみが強すぎて、どうしてもあの異次元の声とつい比べてしまうという愚を犯してしまいがちだったのだが、こうして落ち着いて映像で振り返って観てみると、なかなかどうして、立派ですばらしいヴァルターではないか。こうして聴き返してみると、彼のヴァルターもまたもう一度聴けることなら聴いてみたい、張りのある素晴らしい歌声だ。それと前にも書いたが、若い世代なのに何とも立派なポーグナーを堂々たる低音で聴かせてくれたゲオルク・ツェッペンフェルトの実演に初めて触れることができたのもこの公演だった。マルクス・ウェルバのベックメッサーもご愛敬たっぷりの演技と安定した歌唱で存在感があった。ペーター・ゾーンのダーフィトも実にいい声で歌唱も大変ていねいだ。つい最近はアムステルダムでの「サロメ」のナラボート役で存在感を発揮しているのを映像で目にしてうれしかった。

ウィーン・フィルの演奏にそうそう文句はないはずなのだが、私が実演で観た日のカーテンコールでは、ひとり指揮者ガッティだけがけっこう盛大なブーイングを食らっていて驚いたのである。鑑賞当日はやはり気持ちも高揚していて、「え?ブーイングするほどひどかったかなぁ?」と思ったものだが、こうして収録された演奏を聴いていると、部分的にテンポが速すぎてウィーン・フィルの響きの良さを十分に引き出しきれていないと感じられるところが、確かに少なからずあることが気になった。やはりザルツブルクの客は耳が肥えているなと実感。あとはガッティと言う指揮者の選択への好みの問題だろうけれども… 確かに自分としてもガッティにそこまで魅力を感じるかどうか… まぁ、これだけは好みの問題だ。幸い、この映像では指揮者へのブーイングは聞こえない。ところで今日、本屋で音友を立ち読みしていたら、バイロイトの次の「指環」(2020予定)にガッティの名前って、まじかしら。

出演:
ミヒャエル・フォレ(Br ザックス)
ロベルト・サッカ(T ヴァルター)
アンナ・ガブラー(S エーファ)
ペーター・ゾン(T ダーフィト)
ゲオルク・ツェッペンフェルト(Bs ポーグナー)
モニカ・ボヒネチ(Ms マグダレーネ)
マルクス・ウェルバ(Br ベックメッサー)
トーマス・エーベンシュタイン(T フォーゲルゲザング)
グイド・イェンツェンス(Bs ナハティガル)
オリヴァー・ツヴァルク(Bs-Br コートナー)
ベネディクト・コーベル(T ツォルン)
フランツ・ズッパー(T アイスリンガー)
トルステン・シャルンケ(T モーザー)
カール・フムル(Bs オルテル)
ディルク・アレシュス(Bs シュヴァルツ)
ロマン・アスタコフ(Bs フォルツ)
トビアス・ケーラー(Bs 夜番)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ダニエーレ・ガッティ
(指揮)

演出:ステファン・ヘアハイム
装置:ハイケ・シェーレ
衣装:ゲジーネ・フォルム
照明:オラフ・フレーゼ

収録時期:2013年8月
収録場所:ザルツブルク音楽祭(ライヴ)


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