grunerwaldのブログ

ドイツと音楽、歴史や旅行を楽しむ憩いの森へ
今回初来日の公演ということで話題のキリル・ペトレンコの指揮と、このプロダクションがロール・デビューということで話題のクラウス・フローリアン・フォークトのタイトルロールがふたつの大きな柱となった、今回のバイエルン国立歌劇場「タンホイザー」の初日(9/21)を鑑賞してきた。NHKホール、午後3時開演。

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フォークトとツェッペンフェルト、エレーナ・パンクラトヴァの主要3人は、この夏のバイロイト音楽祭で耳にしてきたばかりで、二か月連続でこのような豪華な配役で本格的なワーグナーの公演が鑑賞できるのは幸運だ。アネッテ・ダッシュはバイロイトでエルザを歌ってるかと思うと、なぜかウィーン・フォルクスオーパ響の来日ニューイヤーコンサートでウィーナーワルツやポルカも歌っていたりする。

さてまずははじめて聴く話題のペトレンコの音楽がどういうものなのかが最大の関心事のこの公演。あとでカーテンコールに出てきたご本人は、体格は意外に小柄な印象。それが、ピットでの指揮ぶりを見ていると、かなり多彩な両手の動きで音楽のニュアンスを大きく表現しているように思える。指揮の印象としての表現力という意味においては、かなりダイナミックな動きでオケを統率するタイプに感じられる。ところが、である。そこで表現される音楽はダイナミックで迫力満点のイケイケドンドンな濃い口の重厚な味わいかと思いきや、まったく逆の印象で、とにかく繊細で内省的、抑制的な演奏だったことに驚いた。もちろん金管の完璧な咆哮など、要所要所ではバイエルンらしい豪壮な演奏の箇所も十分に聴かせてくれたのは言うまでもないが、全体の印象としては非常に緻密で抑制された繊細な表現のなかに、この曲の究極の美の凝縮を観たような印象の音楽だった。

とくに第三幕のマティアス・ゲルネのヴォルフラムのアリアなどは、「さあ、これこそはご存知、夕星の歌でござる」というような歌謡ショー的な俗っぽいところが一切なく、なんと抑制的に内面の思いを切々と歌って鳥肌が立ったものだったか!音楽の美を究極まで突き詰めたような、まれに見る深く内省的で素晴らしく美しい演奏で、時間の経過を一瞬忘れさせられるような印象だった。ちょうど舞台の装置にドイツ語の字幕で一秒が経ち、一分が経ち、一時間が経ち、一日、一週間、一月、一年、百年、千年、万年、億年が経ち、そのまた何倍もの時が経ち…と、タンホイザーとエリザベートが「死」という「永遠」によってのみ結ばれたことを暗示する演出内容とも合っていて、ここは本当に鳥肌が立つほどゾクゾクとする究極の音楽美だった。周囲からは女性(と思うが)が感極まってすすり泣いている雰囲気が伝わってくる。ことほど左様に、この演奏全体を通じて、単に音圧の迫力で爆演を聴かせるというような一面的なものでなく、とにかく極めて精緻な音楽美を極める、そうした方向性が感じられる印象的な演奏であった。炎を例に言うと、めらめらと焔(ほむら)立つ紅蓮の炎というのは火のイメージとしては派手でわかりやすいけれども、真に高温・高エネルギーになった時の炎の色というのは薄白い青からほとんど無色に変わる境界だと言うではないか。わかりやすい例えかどうかはわからないが、自分にはそんなことが頭をよぎった演奏だった。この作品を実演で観るのは、98年のベルリンドイツオペラ来日公演(イルジ・コウト指揮、ゲッツ・フリードリッヒ演出、ルネ・コロ、マッティ・ザルミネン、ベルント・ヴァイクル他)以来なので、もう20年ぶりくらいということになる。もうずいぶんと時間が経ったが、その時の演奏の印象とはまるっきり別物のように感じられた。

さてワーグナーとしては比較的早い時期の作品の「タンホイザー」だが(1845年ドレスデン初演)、その後のワーグナーの諸作品のなかにも連綿と共通して描かれる人物像は、すでにこの作品のタンホイザーの描写から一貫している。地元テューリンゲンにいた時に肉欲が支配する禁断の地ヴェーヌスベルクに憧れてその地に足を踏み入れ、長らくそこにとどまってヴェーヌスの寵愛を堪能した後、突然里心がついて「マリア様のもとへ返して」と清浄な世界への帰還をヴェーヌスに訴える。地元に戻ったら戻ったで、「愛の本質」が主題の歌合戦で、キリスト教義的で神聖で純潔な愛の歌を歌う他の歌手らに対し、「偽善者め」「肉欲としての愛の歓喜も知らないものが、えらそうに愛の本質とか言うな!」とか言って散々に disり、ついにはヴェーヌスベルクにこそ愛の本質があると息まき、彼らから絶縁される。要するに、こちらの世界にいてはこちらの世界の価値観になじめず、あちらの世界に行ったら行ったで、あちらの世界にもなじめない。どこの世界に行こうとも、常に居場所がない永遠の Fremde、アウトサイダー。リュッケルトの "Ich bin der Welt abhanden gekommen" とはまた違うけれども、この世に永遠に居場所がない男の悲劇。こういうのは実にワーグナーやマーラーの自家薬籠中のものだ。

それと、個としての自由独立意思の存在と社会共同体の制約とのはざまので葛藤。これもワーグナー諸作品の共通のテーマであり、時代を超えて普遍的な問題提起である。人間ワーグナーのいた社会は19世紀中ごろのキリスト教社会で、ヴォルフラムや他の吟遊詩人らが高らかと歌い上げるのは、その時代のその社会のなかで受容され、涵養されて来た「愛」の価値観であって、じゃあ、キリスト教が広く浸透する以前の時代やまったく異なった世界ではどうなんだろうという、素朴で自然な問いがそこにある。人間が集住し、共同体という社会の枠をつくり、文化・文明を築いてきた反面、では集住もせず、共同体も法もなく、自然の原始的状態のなかで一個の生物としての人間として、そこに男と女があった時、その「愛」とはどのような形態のものであっただろうか。そうした社会背景の違いを乗り越えて、人間は一人の相手への排他的純愛を貫くものなのか、あるいはそれは慣習か制約によるものなのか。そうした普遍的な問いが、ワーグナーの諸作品の骨をなしていると感じられるわけである。

さて、演出についてはいろいろな意見が出てくるだろうが、一言で言うと、全体的に薄暗い色調でセットの構造もシンプルなものだった。この薄暗い照明の演出は、今回の音楽と連動しているのかもしれない(続く二回目、三回目の演奏が同じ印象のものだったと仮定して)。ただ、薄暗いので、正直目が疲れたし、よく見えなくて確認できなかったところもある。席は2階のドイツ語で言う Mittel Recht の二列目で音響はまったく問題なく、舞台全体の視認性もよかった。時々、NHKホールは音響が悪いとう不満の声を見かける場合があるが、どの席を指してそれを言っているのか明らかにしていなければ、あてにできるものではない。確かに体験上特に二階後方の上階の下部にもぐりこんだ構造になっているところは、直接音や反射音がまったく届かず、音響としてはとても悪くなるのは事実だが、同じ二階でも前方の席や一階中央など、よい席を選べば他のホールと比べて特段愚痴を言いたくなるほど悪いと言うほどのこともない。あとは立地や全体の雰囲気など、好みの問題だろう。実際にこのホールで上質の公演をいくらも体験してきているし、同じバイエルンの2001年の「トリスタンとイゾルデ」も、ここで最高の演奏を聴き、最後の感動的な場面はいまでも印象に残っている。

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演出についてひとことだけ言うと、今回も出ました、「あ、これはあかんわw」って感じのコレオグラフィー(個人の好み)。ピッチリとしたボディタイツでクネクネと意味不明の動きをするあれ。去年の夏のザルツブルク音楽祭「ダナエの愛」でもまったく同じ雰囲気のモダン・コレオグラフィがあって辟易したので、今回も同じ人かなと思ったら違う人のようで、ジュネーブで活動中のシンディ・ヴァン・アッカーと言う女流振付家(「ダナエの愛」のタコ踊りは Alla Sigalova なるロシア人女性」)。なんでモダン・コレオグラフィってのはこんな感じになるのか。体を使っての芸術表現てのは難しいものだろうとは思うけれども、これだけは目障りでしかたがない。あれ見て美しいと思う人がどれだけいるの?なんか舞台の正面で一列で後ろ向きに全員正座!みたいな感じで15分くらいそのままの状態の場面があったけど、虐待?のようで痛々しかったな。今どきの日本人でも正座で10分とか、考えられない。あとはダナエの時のような意味不明のタコ踊り。コレオグラフィ自体が嫌いというわけではないし、バレエはむしろ好きなほうだが、この種のものは生理的にダメである。逆に、合唱が涙が出るくらい大感動で、素晴らしかった!もう、別次元の合唱で鳥肌が立つほど、最高だった。バイロイトで隣席で楽しくお話しした合唱の女性の方、薄暗い舞台だったのでよく視認はできなかったけど、本当に素晴らしい合唱でしたよ!(と、こんなところで言っても何の意味もないが)

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    なぜかタンホイザーら登場人物は「地下足袋」を履いての登場。なにかと謎の多い演出だった。

今回は幕間の休憩中、丸テーブルでコーヒーを飲んでいると、目の前30センチくらいの目と鼻の先を、元議員さんのT中M紀子さんが「ねえねえ!シャンペンはどこでもらえるの?」「シャンペンはどこでもらえるの?」「シャンペンはどこでもらえるの?」といつものあの早口で間違いなく三回連呼しながら通り過ぎて行った。シャンペンなら目の前のカウンターで売っているのだが、こういうセンセイがたはこういうところで並んでシャンペン買うというのは考えも及ばないのだろう。タダで招待されてタダでものを貰っての人生送ってきてるんだろうな。そもそもこの人がワーグナーを聴くというのは知らなかった。オペラ好きの元首相は何度もお見掛けしたけれども。休憩二回で終演はほぼ午後8時。一、二階は見渡す限りではほぼ席は埋まっていたが、念のためふと三階のほうを振り返って見ると、見える範囲で言うと、結構空席があるようだった。同じ平日でも木曜でなく、せめて金曜にしてくれたらまだ来やすいんだけれども。今回「タンホイザー」は木曜、月曜、木曜の三回ってそりゃ、まっとうな勤め人ならそれこそヴェーヌスベルクにでも行く勇気が要りますわな。



バイエルン歌劇場2017来日公演「タンホイザー」

2017年9月21日(木)午後3時開演
会場:NHKホール
指揮:キリル・ペトレンコ
演出・美術・衣裳・照明: ロメオ・カステルッチ
合唱監督:ゼーレン・エックホフ
 
領主ヘルマン:ゲオルク・ツェッペンフェルト
タンホイザー:クラウス・フロリアン・フォークト
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ:マティアス・ゲルネ
ヴァルター・フォン・フォーゲルヴァイデ:ディーン・パワー
ビッテロルフ:ペーター・ロベルト
ハインリッヒ・デア・シュライバー:ウルリッヒ・レス
ラインマル・フォン・ツヴェーター:ラルフ・ルーカス
エリーザベト、領主の姪:アンネッテ・ダッシュ
ヴェーヌス:エレーナ・パンクラトヴァ ほか
 
バイエルン国立管弦楽団
バイエルン国立歌劇場合唱団

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前回は近年の「マイスタージンガー」の映像から、その1として2008年のバイロイト音楽祭でのプロダクション(指揮セバスティアン・ヴァイグレ、演出カタリーナ・ワーグナー)について書いた。今回は[その2]として、続けて2013年のザルツブルク音楽祭での同作品の映像に関する記事。この年は、ワーグナーとヴェルディのともに生誕200年の記念年で、本家バイロイトとの兼ね合いからか(夏の)ザルツブルク音楽祭では普段は上演されないワーグナー、それも出演歌手や合唱の多さ、上演の複雑さから並大抵の準備では済まされない「ニュルンベルクのマイスタージンガー」という大曲が取り上げられた(ヴェルディはA・パッパーノ指揮「ドン・カルロ」)。それまで、いつか本格的ななまの舞台でこのオペラを観てみたいと思っていたところに、このザルツブルクの情報を目にしたもので、さっそく「ドン・カルロ」や「コジ・ファン・トゥッティ」やウィーン・フィルのコンサートなどを含めいくつかの他の演目もチョイスし、申し込みをして初のザルツブルク詣でとなった。このブログではもう何度もしつこいほど書いてきているが、そもそもこのブログ開始のきっかけ自体がその年のザルツブルク音楽祭だったのだから、仕方がない。

この映像はあいにくNHKでの放送はされず、DVDとブルーレイディスクは翌年の夏にUNITELからリリースされた。輸入盤だが、有難いことに日本語字幕も選択できる。指揮はダニエレ・ガッティ、演出は北欧の奇才ステファン・ヘアハイム。演奏はもちろんウィーン・フィルで、ザルツブルク祝祭大劇場での収録。ウィーン・フィルの贅沢な演奏はもちろんのことだが、このプロダクションでは舞台のセットや衣装、装置などに相当な予算をつぎこんで、ザルツブルクならではの非常に贅沢な公演となったことが、強く印象に残っている。この曲を、このような贅沢な舞台演出で、そしてウィーン・フィルのような極めて上質の演奏で聴ける機会は、日本では残念だがまず絶対に、ない! なので、これはわざわざザルツブルクまで足を延ばしてでも観にくる価値は、この曲のファンであれば納得できるというものだ。

とにかく実際の舞台で初っ端からガツーンとやられたのは、前奏曲が終わって「Da zu dir der Heiland kam〜」と合唱で第一幕が始まるその瞬間だ。実は前奏曲が始まる前から舞台のセットはすでに用意されていて、パジャマ姿のミヒャエル・フォッレ扮するザックス(=ワーグナー)が曲の着想を得たという感じであの前奏曲がはじまり、その時にいったん彼が舞台のカーテンを閉じる。この間、そのカーテンにはそれまでそこにあったザックスの部屋のセットの様子がそっくりそのままプロジェクション・マッピングで写されていて、つい今しがたそのカーテンの奥に引っ込んだザックスの動きも投影されている。あたかも透けたカーテンの向こうにそのセットが見えているかのような風景なのだが、これはもちろん事前に収録した映像を遮光性のカーテンに投影しているのだ。その映像が前奏曲の後半でいっきに舞台下手側におかれていた家具型のライティングデスクにズームアップされていき、ほぼそのデスクから上部の書棚くらいまでズームアップしきったところでこのカーテンが突然開いて、この家具型のライティングデスクの実際のサイズを何十倍も大きく引き延ばしたサイズの超巨大なセットになって、おもむろに目の前に出現する。ライティングデスクの書棚は教会のオルガンのイメージに重なるようにデザインされていて、その前で徒弟らが整然とならんで合唱する場面は映画「サウンドオブミュージック」冒頭の教会での合唱場面を想起させる。実際、前から7列目か8列目くらいの席に座っていたが、想像もしていなかったこの第一幕冒頭の場面で、完全に脳天からガツーンとやられた気分だった。なにしろ、上手側の二重舞台の床の角がステージ上に収まりきらなくて、オケピットのほうにまで一部はみ出しているほどの立体的な構造となっているのだ。再生映像では、TVがいくら大画面でもいくら画質がよくても、ディスクの映像からはこの幕が開いた時の衝撃は伝わって来ないのは実に歯がゆい。実に残念だ。もう少し前方から、いくぶん広角のレンズで撮影していれば、少しはこの場面の壮大感が伝わったかもしれない。画質はきれいなのだが、撮影アングル的にこのワイド感を再現しきれていないのは、本当に残念なのである。

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と言うように、ここからはセットが実物大から超巨大に引き延ばされた分、登場人物はその分相対的に全員矮小化されて、夢のなかの妖精たちのサイズとなって、この夏の夜の夢物語りを紡いでいくと言うしかけだ。実際、「子供の魔法の角笛」などをベースに全編メルヒェンとして描いている。それに加えて、合唱のひとりひとりにいたるまで皆、衣装が実にカラフルでおしゃれ。ワーグナーの頃の19世紀後半のイメージで、時代衣装と言っても古臭すぎないのがよい。実際のザックスの時代のいでたちでは素朴すぎてヴィジュアル的に単調に感じることが多いのだ。ダーフィトら若い徒弟たちの衣装は配色も鮮やかで、きれいな花の冠をあしらったりしてとても新鮮な感じが表現されている。いまの時代、オペラの舞台衣装をこれだけ贅沢に使えるなんて、世界的にもまれなことだろう。どのオペラハウスの舞台も、予算がかさまない現代風の衣装に時代を移していることのほうが多くなっている。しかも今回のこれらの贅沢なセットや衣装が、再演なしの一シーズン限りの使い切りなのである。こんなことは、ザルツブルク以外ではそうできることではない。また、衣装だけでなく、主役たちはもちろん、徒弟や親方たちに至るまで、それぞれの細かい表情や演技まで実にいきいきと演出が活きていることが伝わってくる。おそらく、この作品の映像のなかでもっともカラフルな舞台映像で若い世代にも広く楽しめるのは、この映像ではないかと思う。

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歌手は文句なしにザックスのミヒャエル・フォッレが素晴らしい。この時代にこのようなザックスの第一人者の存在に恵まれたことは幸運である。ヴァルターのロベルト・ザッカも、実は現地で観た時点ではそれまで何度も繰り返し映像で見聴きしてきたクラウス・フローリアン・フォークトのヴァルターのイメージの刷りこみが強すぎて、どうしてもあの異次元の声とつい比べてしまうという愚を犯してしまいがちだったのだが、こうして落ち着いて映像で振り返って観てみると、なかなかどうして、立派ですばらしいヴァルターではないか。こうして聴き返してみると、彼のヴァルターもまたもう一度聴けることなら聴いてみたい、張りのある素晴らしい歌声だ。それと前にも書いたが、若い世代なのに何とも立派なポーグナーを堂々たる低音で聴かせてくれたゲオルク・ツェッペンフェルトの実演に初めて触れることができたのもこの公演だった。マルクス・ウェルバのベックメッサーもご愛敬たっぷりの演技と安定した歌唱で存在感があった。ペーター・ゾーンのダーフィトも実にいい声で歌唱も大変ていねいだ。つい最近はアムステルダムでの「サロメ」のナラボート役で存在感を発揮しているのを映像で目にしてうれしかった。

ウィーン・フィルの演奏にそうそう文句はないはずなのだが、私が実演で観た日のカーテンコールでは、ひとり指揮者ガッティだけがけっこう盛大なブーイングを食らっていて驚いたのである。鑑賞当日はやはり気持ちも高揚していて、「え?ブーイングするほどひどかったかなぁ?」と思ったものだが、こうして収録された演奏を聴いていると、部分的にテンポが速すぎてウィーン・フィルの響きの良さを十分に引き出しきれていないと感じられるところが、確かに少なからずあることが気になった。やはりザルツブルクの客は耳が肥えているなと実感。あとはガッティと言う指揮者の選択への好みの問題だろうけれども… 確かに自分としてもガッティにそこまで魅力を感じるかどうか… まぁ、これだけは好みの問題だ。幸い、この映像では指揮者へのブーイングは聞こえない。ところで今日、本屋で音友を立ち読みしていたら、バイロイトの次の「指環」(2020予定)にガッティの名前って、まじかしら。

出演:
ミヒャエル・フォレ(Br ザックス)
ロベルト・サッカ(T ヴァルター)
アンナ・ガブラー(S エーファ)
ペーター・ゾン(T ダーフィト)
ゲオルク・ツェッペンフェルト(Bs ポーグナー)
モニカ・ボヒネチ(Ms マグダレーネ)
マルクス・ウェルバ(Br ベックメッサー)
トーマス・エーベンシュタイン(T フォーゲルゲザング)
グイド・イェンツェンス(Bs ナハティガル)
オリヴァー・ツヴァルク(Bs-Br コートナー)
ベネディクト・コーベル(T ツォルン)
フランツ・ズッパー(T アイスリンガー)
トルステン・シャルンケ(T モーザー)
カール・フムル(Bs オルテル)
ディルク・アレシュス(Bs シュヴァルツ)
ロマン・アスタコフ(Bs フォルツ)
トビアス・ケーラー(Bs 夜番)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ダニエーレ・ガッティ
(指揮)

演出:ステファン・ヘアハイム
装置:ハイケ・シェーレ
衣装:ゲジーネ・フォルム
照明:オラフ・フレーゼ

収録時期:2013年8月
収録場所:ザルツブルク音楽祭(ライヴ)


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勝手気ままの「マイスタージンガー」編はまだ続く。今年2017年新制作のバイロイト音楽祭「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(フィリップ・ジョルダン指揮・バリー・コスキー演出)の収録映像は早くもNHKの「プレミアムシアター」でこの8月に放送された。映像ソフトとしては、もちろんまだ発売されていないが、最近の傾向で言うとだいたい翌年の夏くらいに発売されることが多いようだ。市販ソフトを改めて購入するメリットとしては、字幕の言語が各種選べることやメイキングなどのボーナス映像がついていること、またパッケージデザインなど、商品としての完成度が高いことが挙げられる。前記事ではモノラル時代のクナッパーツブッシュのCDなどを取り上げたので、しつこく今回はそれに続いて近年収録されて市販されている「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のライブ映像の中から、比較的最近の①前回のバイロイトの「マイスタージンガー」(2008年:セバスティアン・ヴァイグレ指揮、カタリーナ・ワーグナー演出)と、②2013年のザルツブルク音楽祭での同曲(ダニエレ・ガッティ指揮、ステファン・ヘアハイム演出)を改めて鑑賞したので、その二作品を取り上げてみたい。「マイスタージンガー」のライブ映像は他にも各種(下記参照)あるが、それらは従来のコンヴェンショナルな舞台演出と言う意味ではどれも大同小異なので(それが悪いという意味ではない)、それまでにない新鮮な体験と言う観点からの選択である。

まずは①から。

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以前にも触れたように前回のバイロイトでの「マイスタージンガー」映像は、2007年から2011年までの5年間上演されたカタリーナ・ワーグナー演出のプロダクションの二年目の2008年に映像収録されたもので、この模様もNHKのBSで放送されている。このプロダクションは現地での実演は観ておらず、これらの映像でのみ鑑賞している。指揮は五年を通してセバスティアン・ヴァイグレが務めた。出演は

 ハンス・ザックス:フランツ・ハヴラタ
 ファイト・ポーグナー:アルトゥール・コルン
 ジクストゥス・ベックメッサー:ミヒャエル・フォレ
 ヴァルター・フォン・シュトルツィング:クラウス・フローリアン・フォークト
                 ダーフィト:ノルベルト・エルンスト
                 エーファ:ミヒャエラ・カウネ
                 マグダレーネ:カローラ・グーバー ほか。

このプロダクションが上演されていた時期の5年間と言うと、個人的には長期の旅行をするのが難しかった頃で、一時、現在進行形のオペラの舞台から遠ざかっていた時期でもあった。なのでこの放送を観て、まさか自分がこの次のバイロイトでの「マイスタージンガー」の実演を観に来ることなど想像すらしなかった。クラウス・フローリアン・フォークトの現実離れしたスーパーやわらか高音を知ったのが、ここでのヴァルターだった。それはもう、一度耳にしてぞっこんと言う状態になり、何度繰り返して聴いたことだろうか。力強く張りのある、輝かしいヘルデン・テノールはたくさん聴いてきたけれども、それらとはまったく異質な歌声で、それはむしろトリスタンやジークムント、ジークフリートなどよりもヴァルターやローエングリンにこそ適任だと感じた。いつかこの人のなまの歌声を絶対に舞台で聴いてみたいと言う、強力なモティベーションとなってくれた。耳の早い人からすれば、何をいまさらの類いだったかもしれない。

そして、フランツ・ハヴラタのザックスよりもより強い印象に残ったのが、ミヒャエル・フォッレのベックメッサーだった。それは、この映像の最後のカーテンコールの拍手の盛大さでも正直に結果が出ていたように感じられる。相当な演技派だが本業の歌唱ももちろん素晴らしい。ヴァイグレ指揮のオケの演奏も、いかにも現代風の演奏だが、なんの不満があろうか?十分に感動的でよい出来である。世の中には演出が個人的な好みに合うか否かで、その演奏まで印象を引きずる傾向の人もいたり、過去の録音でしか聴いたことのない演奏を引き合いに出してそれらと比較したがる人もいるが、土俵が違うとしか言いようがない。

演出はこれが自身による舞台初演出作品となったカタリーナ・ワーグナーで、もちろんヴォルフガング・ワーグナーの娘であり、くどいようだがリヒャルト・ワーグナーの曾孫である。演出家としてのキャリアはまだ無いし、若いし七光りと言う意味では世界一だし、文句を言われないほうがおかしいだろう。実際、日本語で目にした感想や批評の多くは批判的なものがほとんどで、これが面白かったと公言するのは少数派のように感じられる。私自身が演出として実際に稚拙だと感じる部分は、例えば第二幕の夜のザックスとベックメッサーの場面で、この二人の演出に気を取られて上手側にいるマグダレーネにまで演出の手が回らずにほぼほったらかしの状態に見えるような箇所などだが、そういう細かな点のほかは、概ね楽しめる内容であり、上出来ではないかと感じる。

バイロイトと言うと、何年も待ってようやく念願のチケットを入手し、感極まって聖地に巡礼出来るという「枕詞」が独り歩きしてついてまわるので、まるでエスタブリッシュメントの牙城のように思われがちだが、もともとはワーグナーの芸術と精神を継承する場所である。そのワーグナーは、芸術としては偉大な「革新」をなした人物だ。そうしたワーグナーの「芸術における革新的な精神」がもっとも明快に歌詞に託されている作品こそが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」だ。第一幕で親方連中が、歌合戦の審査を誰がすべきかの議論のなかでザックスの歌詞。「しかし年に一度、その規定を吟味するのも賢明なことではないでしょうか?習慣という決められたことの繰り返しの中で、その活力が失われているのではないか、吟味するのです。」(井形ちづる訳:水曜社「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集1」p288) チケット入手困難だとかプレミエに誰それの著名人が来たとか言う表面的なことではなく、バイロイトの革新性と言う本質に関心があれば、まだ経験の浅い曾孫が敢えてこの作品を初作に選んだということは理に適っていることを理解すべきである。そしてこれは私の推測ではあるが、丸っきり彼女ひとりが演出と言う大仕事を取り仕切れるはずもなく、そこには当然経験達者なブレーンや実務スタッフの影の支えも大いにありえよう。

そう考えると、経験のない初心者の浅知恵で丸きり頓珍漢な出鱈目をやっていると言うふうには、私には思えないのである。この作品を観た客自身の立ち位置なり理解が、ザックス的なのか、他の親方と同じなのか、すなわち自分の芸術的な観点で観て(聴いて)いるのか、他人の既成の意見に乗っかってそれらしく振舞っているその他大勢のひとりなのかを必然的に問う結果の演出になっているのである。そう考えると、これが作品という「枠」を飛び越えて、観客(聴衆)を巻き込んだ副次的な影響に至るまでよく考えられたうえでの演出になっていることがわかるのだ。第二幕終盤のポルターアーベントの大騒ぎを境に、それまで堅物だった市書記ベックメッサーと反権威主義的で自由人的な描かれ方のザックスの二人の立場が突然入れ替わるというSF的な発想が、第三幕を俄然面白くしているわけだ。ザックスの部屋に忍び込んで来る時の「トンデるアーティスト」な Beck In Town な何ともコミカルなこと。もし祝祭劇場のその場で観ていても、声をあげて笑ったに違いない。それに合わせて、昨日まで寛容で自由人だったザックスが、見る見る間に大勢迎合的に四角四面の保守的なタイプに変わっていき、表情から人間味が消え去って行く。「迷妄のモノローグ」では、そのはざまで苦悩する葛藤が描かれ、最後のモノローグではほとんどその表情は狂気と化している。主客逆転した「人間的」ベックメッサーはそれをまじまじと見つめ、「おいマジかよ、大丈夫かよ?!」と言うような表情で呆然と見つめて幕となる。

こうした核になる部分は普遍性があって納得ができる。なので、第三幕第5場の職人たちの入場の場(聖クリスピンを称えよ)で、従来の緑の草原の歌合戦の会場という壮麗なイメージを大きく覆す、ベートーヴェンやワーグナーらをカリカチュアライズした巨大で奇妙な「お面」をかぶったキャラクターたち(いたずら好きの精霊の化身と解釈した)がザックスを椅子に縛りつける場面というのも、一見頓珍漢で意味不明のように見えて、実はその「きっかけ」なり「転換点」のひとつとして考えれば、納得が行く。ただ、今もってわからないのは、最後に親方からヴァルターに(本来はダヴィデ王の肖像が描かれたメダルがついた黄金の鎖のところ)金かブロンズの鹿の置物が贈られるのだが、これが単に「かわいいじゃない?」っていう単純な幼稚さを訴求しているだけなのか、もっと深い意味があるのか、よくわからない。ドイツ人には意味が通じているのだろうか。知ってる人がいたら、ぜひ教えて欲しいところだ。
(以下、②は後日にあらためて)

その他の映像作品
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二回目のバイロイト音楽祭への鑑賞旅行で、新演出の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「パルシファル」(昨年新演出)を観てからひと月以上。本場バイロイトでの「マイスタージンガー」鑑賞の夢がかなったのだから、ようやくひと区切りついたかと思いきや、「マイスタージンガー熱」は更に高まる一方。よく知られているように、この作品は長大なワグナーの楽曲のなかでもとりわけ長大な作品で、一曲の楽劇としては三幕で約4時間半ともっとも演奏時間が長い。しかしながら、全編を通して鮮やかでみずみずしい旋律と、美しく抒情的な Dichtung(詩)にあふれ、退屈するところがまったくない。曲のどの部分をとっても飽きるところがないので、他のワーグナー作品と比べると珍しく、一曲4時間半が、割とあっという間に感じられる。基本となるのはハ長調ではあるけれども、曲想やオーケストレーションは非常に複雑かつ高度に入り組んでいるので、まったく単調なものではなく、音楽としてもドラマとしても相当奥行きの深い傑作オペラであるのは間違いない。ワーグナーの自伝的要素も多分に散りばめられているところも、他の作品にはないこのオペラの面白いところだろう。なので、今回のバイロイトのバリー・コスキーの演出のように、徒弟ダフィトも、親方に反発する若い騎士ヴァルターも、保守的となった親方ザックスも、いずれをもワーグナーとして描くのは、とても自然に受け入れられるのだ。

さて今までに、市販されているDVDやブルーレイでここ20年くらいでリリースされたこの演目の映像ソフトは、大方目を通してきているが、CD、特に戦後バイロイトでのライブを収録したカラヤンやクナッパーツブッシュなどの演奏は従来から評価が高いのは知ってはいたが、ステレオ高音質派の自分としてはやはり、いくらバイロイトの演奏が良いと言っても、50年代初期のモノラル録音というのは生理的に無理だろうと長い間敬遠してきた。そこで、せっかくバイロイトでの「マイスタージンガー」の実演にも触れることができた記念に、あらためてクナッパーツブッシュのいくつかのCDを新たに購入して連日聴いている。と簡単に言っても、一曲がとにかく4時間半近いの長大な曲である。四つの異なる演奏を聴きとおすだけでも、このひと月の間、いかにそれだけに没頭したことか。このひと月と言うもの、TVニュースもほぼまともに見ていない。ここ最近のニュースなどは、トイレの間に新聞のリードにざっと目を通すだけでもげっぷが出るくらいだからちょうど都合がよいが。

で、戦後初のバイロイトでの「マイスタージンガー」と言うと、まずはカラヤンの51年のEMIのが歴史的で有名なのは知ってはいる。が、これについては音質があまりに悪いという評価が圧倒的で、にも関わらず安くはない。なので今でもこれは二の足を踏んでいる。

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で、まずはクナの52年のバイロイトのライブを聴いてみたが、これが51年カラヤン盤の音の悪さの評価を払拭できるかというと、これも相当に聞きとおすのに苦心した。まず一聴して実感するのはよく言われるように、歌手とオケ演奏の収録バランスの悪さで、オケの音が薄いのである程度前奏曲で音量を上げて聴き始めると、歌が始まる途端に歌手の声の異常な音圧に驚いて、数段音量を下げないと聞いていられない。特にハンス・ホップのヴァルターはそれでも音が割れ気味で耳に突き刺さるような音で相当に厳しい。リーザ・デラ・カーザのエーファやオットー・エーデルマンのザックスはまだ聴いていられるが、歌手に音量を合わせると、オケの演奏の音圧が薄くなる。演奏全体を想像するときっと素晴らしい演奏に違いないのだろうが、それだけにこの音質ではあまりに残念だ。それでもクナの歴史的な演奏だということで、神棚に祭って拝んでいる人も多いのかもしれない。なお、同じ録音と思われるものが、クロアチアに本拠を置くと言う「ゴールデンメロドラム」という業者が販売するものが、音質が良いという評価を通販サイトで目にしたので調べてみると、この曲だと税込みで1万3千円近いということでさすがに断念した。

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カラヤンのバイロイトライブ盤と同じ頃にデッカからリリースされたウィーン・フィルのセッション録音盤は、50年にまずは二幕目がムジークフェラインで録音され、翌51年に一幕目と三幕目が録音され、52年に発売された。なので、上記の52年のバイロイトライブ盤よりも古い録音になるが、技術的な環境が整ったセッション録音なので、音質はこちらのほうが断然良好だ。ただ、スタジオ録音嫌いだったクナの演奏として聴くと、確かに第一幕目の途中くらいまでは、いかにも「つくりもの」という人工臭が顕著に感じられるので、「ライブこそクナの醍醐味」的なファンにはやや物足りないところがあるかも知れない。オケの演奏も歌手の声も整然と録音されているのだが、ところどころで不自然に音が途切れる部分もあって、なんだか編集という「お化粧」が随所で顔を見せるように感じられなくもない。それでも、音質は当時のモノラル録音を現在の装置で聴くうえでは、いたって良好に再現されて楽しめる。特に第三幕は演奏も盛り上がって来ていることも実感でき、素晴らしい演奏だと思う。ここでもヒルデ・ギューデンのエーファの愛らしい歌声が良いし、パウル・シェフラーのザックス、オットー・エーデルマンのポーグナー、アントン・デルモータのダーフィト、カール・デンヒのベックメッサーいずれも良いが、ギュンター・トレプトウのヴァルターは声量はあるけれども野太い印象で、個人的に好みのヴァルターではない。これは上のハンス・ホップにも同じように感じるところ。(追記;このレコード制作の技術面のプロデューサーはヴィクター・オルフだが、この録音の時の興味深い逸話がジョン・カルショウの著作「レコードは真っすぐに」で紹介されている。どういうわけかこの録音の契約の際にヴァルター役のギュンター・トレプトウのギャラが間違ってとんでもない金額になっていることに、ファイナンス面のプロデューサーだったモーリス・ローゼンガルテンが事後に気付き、まったく巧妙かつ狡猾、言葉巧みなやり方でこの歌手を丸め込み、金額の訂正にサインをさせた経緯が詳しく書かれている。今回のバイロイトのコスキー演出の第二幕終盤でベックメッサーがシャイロック風の奇妙な被り物をかぶせられてユダヤ人であることを揶揄される場面があるが、真っ先に思い浮かんだのがカルショウの本の所々に出てくる、当時チューリッヒ在住のこのやり手の実業家のイメージだった。)


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こちらは55年のバイエルン国立歌劇場でのクナのライブ盤。BR正規音源からのリマスターなので、音質的には上記のふたつよりも良く、演奏も良いだろうと期待し、現在入荷を待っているところ。









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同じオルフェオから出ているBR正規音源からのリマスターで、60年バイロイトでのライブ盤。こちらはヨゼフ・グラインドルのザックス、テオ・アダムのポーグナー、ヴォルフガング・ヴィントガセンのヴァルター、エリザベート・グリュンマーのエファ、ゲアハルト・シュトルツェのダフィト、カール・シュミット=ヴァルターのベックメッサー、エリーザベト・シェルテルのマグダレーナと、どれを取っても素晴らしい歌唱で実に魅了される。特にカール・シュミット=ヴァルターのベックメッサーは大変個性的な声質と演技力のあるうまい歌い方で、ベックメッサーはこうでなければ、と言う好見本という感じ。もちろんオケの演奏も堂々たるクナの濃厚で重厚なライブそのものと言った感じで、音質がやはり50年代のものに比べてまったく別次元で大変に素晴らしい。このような濃厚で凝縮された音楽だと、音が分散するステレオよりもむしろまとまって聴こえるモノラル録音のほうが、実は素晴らしいのではないかとまで思えてくる。実際、下記のショルティとウィーン・フィルの75年ゾフィエンザールでのセッション録音ステレオ盤に比べれば、モノラルのクナのバイロイトライブのほうがいかに楽しめるかというのを十分に実感できる。



イメージ 5ショルティの指揮ので言うと、もともとは左の写真の95年のシカゴ響のライブ盤を愛聴して来た。97年頃の発売だったので、もう20年になる。ライブと言っても演奏会形式なので非常にバランスがよくまとまっていて聴きやすいCDだった。シカゴ響の演奏もまた迫力があって大変良いと思った。歌手はジョゼ・ヴァン・ダム(ザックス)、ベン・ヘップナー(ワルター)、カリタ・マッティラ(エヴァ)、イリス・フェアミリオン(マグダレーネ)、アラン・オーピー(ベックメッサー)、ヘルベルト・リッペルト(ダヴィッド)、ルネ・パーペ(ポーグナー)。

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で、今回その比較にショルティとウィーン・フィルの75年ゾフィエンザールでのセッション録音で収録されたものをあらためて聴いてみた。上に挙げてきた50-60年代のモノラル録音に比べれば、もっと良いだろうという期待があったが、聴いてみたところ確かにステレオ録音だが感激するほど高音質かと言うと別にそれほど言うほどでもなく、やや過剰気味の平べったい残響感(人工的なリバーブというかエコー)が逆に興を冷ます印象。確かにクナのライブで聴けたような興奮は感じられなかった。歌手は、ノーマン・ベイリー(Bs)、ルネ・コロ(T)、ベルント・ヴァイクル(Br)、ハンネローレ・ボーデ(S)、クルト・モル(Bs)、アドルフ・ダッラポッツァ(T)、ユリア・ハマリ(Ms)と言ったところだが、アドルフ・ダラポッツァのダフィトが案外、全然面白くない。オペレッタではいいテノールなんだけど、ここでは全く没個性的だ。ベルント・ヴァイクルも素晴らしいワーグナー歌手だが、ベックメッサーにはまじめで誠実すぎる印象で、少なくともこの役には向いていないのではという個人的な感想。

他に、ハンス・ホッターCD全集BOXのなかに、56年のアンドレ・クリュイタンス指揮のバイロイト・ライブのなかから、ザックス歌唱の部分が抜粋収録されている。ハンス・ホッターと言う、歴史的なワーグナー歌手の歌唱を知るうえで貴重な録音だが、この録音もまた相当にプアな状態で、繰り返し聴きとおすのは厳しい。

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カラヤン/シュターツカペレ・ドレスデン







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ヤノフスキ/ベルリン放送響




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8月5、6日に大津市のびわ湖ホールで上演された、びわ湖ホール制作の「ミカド」が初台の新国立劇場(中ホール)で招聘公演のかたちで行われた。なので、スタッフとキャストはほぼびわ湖の時と同じで、歌手たちは「びわ湖ホール声楽アンサンブル」のメンバーが中心となっている。びわ湖ホールでの上演は是非とも行きたかったのだが、あいにくバイロイト音楽祭(マイスタージンガーとパルシファル)への旅行とぶち当たってしまい、泣く泣く行けなかった。それと同じものが日を改めて初台という良い条件のもとで鑑賞できたのは、救われた思いだった。午後4時開演、20分の休憩一回をはさんで二幕の上演で終演は午後6時50分頃。夜8時の新幹線で日帰り鑑賞ができたのは便利だった(とにかく蒸し暑い一日だった)。

この英国発の世界的に有名なオペレッタが日本でまともなかたちで上演されることは、ほとんどない。舞台が「ティティプ」ということから秩父市が町おこしの一環として地元制作の公演を何度か行ったらしいが、これは行っていない。うまく上演されれば圧倒的に面白くて、音楽も上質なこの人気のオペレッタが日本で人気がないのは、やはりたとえ表面上とは言え日本の天皇がグロテスクなかたちで取り上げられ、日本が正当に取り扱われていないという根源的な不満が根強くあるからなのは間違いない。第二次大戦の壊滅的な敗戦後、東京に進駐した占領軍が兵士の慰問行事で真っ先に上演したのが「アーニーパイル劇場」の「ミカド」だったということも、ますますこのオペレッタから日本人のこころが離れる大きな要因にもなったことだろう(興味深いことに先日のNHKスペシャル「東京ゼロ年」でも、これが取り上げられていて驚いた)。それに加えてこの傑作オペラを日本人にとって難しいものにしているのは、「パターソング」と呼ばれる超早口の言葉遊びがこの作品の醍醐味であるので、たとえ英語の歌唱が上手な歌い手でも、このような複雑な早口ソングを難なく歌いきることはほとんど不可能という現実的な面もあることだろう。なので、何度もこのブログでは取り上げている(これとかこれとか)が、海外の英語圏では大変知名度も高く人気があるこの傑作オペラが日本でまともな形で鑑賞できる機会は極めて少ない。

その日本で極めて不人気の「ミカド」を正面きって取り上げようというのだから、びわ湖ホールの心意気と目の付け所のセンスの良さには敬意を表する。また、この(日本人には)わかり難い作品の内容を、なんとか少しでも楽しんで観てもらおうと訳詞まで手掛けられた演出家の中村敬一氏の熱意にも、頭が下がる思いである。

そしてまず文句なしに何よりも十分に楽しむことが出来たのは、園田隆一郎指揮日本センチュリー交響楽団の上質な演奏であったことはまず第一にあげておきたい。大変よい演奏だった。弦のしっとりと美しい聴かせどころも、テンポ感のあるメリハリが必要なところも、まったく何の破綻もなく、この傑作オペラが持つ本来の音楽の良さが十分に堪能できる演奏であった。日本センチュリーという規模感が、このオペラにはピッタリと絶妙にフィットしているのだ。間違ってもウィーン・フィルだとか、N響だとかの超一流オケで聴いて面白いオペラでは、ないのだ。あまりに重厚すぎても、あまりに艶やかすぎても、(セ響には申し訳ないが)あまりに「上等」すぎても、こういう作品は「違う」のだ。逆に、あまりに小規模の市民楽団や町内会のイベントでは、もちろんまったくこのオペラの楽しさは引き出すことはできない。その意味で、普段は自分としてはあまり聴く機会が少ないセ響の演奏は、今回の「ミカド」にはぴたりとツボにはまった快演であった。

大きな問題は、英語での原語上演か、日本語訳詞による上演かである。この点、上記したように大変な熱意と労力で訳詞まで手掛けて舞台にも字幕装置まで用意された演出家の中村敬一氏には敬意を表しているところだが、やはりオペラ(オペレッタ)の上演というのは、原語の歌詞もまた我々観客は当然のごとくそれを重要な「音楽」の一部として「聴いている」ことを改めて痛感する上演となった。言葉と言うのは、「意味」だけではないのだ。歌唱となるとやはり、「響き」も含めて我々はそれを聴き、無意識のうちに楽しんでいるのである。結果的には、日本語の歌詞とすることにより、この傑作オペラが本来持つ「言葉のスピード感とパンチ感」が半減されてしまって、「ノリ」の悪いものになってしまったことはとても残念ではある。「日本語に翻訳する」という「まじめ」な志しが、そのまま「まじめ」な思いのオブラートになり、結果、毒のある原語の歌詞の痛快さやテンポ感をやんわりと包んでしまい。中和してしまうのだ。こういう場合「まじめさ」は邪魔なのである。思いっきり「不真面目」であったほうが、こういう場合は面白い。

中村氏もその点は相当努力されていて、ここ最近の時勢ネタを随所に盛り込んで、なんとか「笑い」を引き出そうとはされていて、一部には大いにそれが成功しているところもあった。が、やはり上に書いたように、原詩も「音楽」として聴いている観客からは、特に前半のあいだはそれをもどかしく思っているようなムードが感じられた。例えばナンキプーは本来、原詩では地方巡業の楽隊の「第二トロンボーン奏者」に身をやつしているというところ、「A second trombone!」と揶揄していかにも大げさに強調するところが笑えるのだが、ここでは少しでもわかりやすいようにと言う配慮からか単に「ストリートミュージシャン」となっていたり、ココの役職の「Lord high executioner」を「最高指導者」という風にしていたが、時勢的にお隣りのミサイル狂の若き「最高指導者」を連想させてウケるのだろうが、ここは素直に「最高位処刑執行人」とか「首切り担当大臣」とかにしておいたほうが原詩のイメージは伝わる。なので、全体としての感想で欲を言えば、セリフ部分は日本語訳で、歌唱部分は英語の原詩でやってほしかったところではあるが、上述のようにとにかく早口でやるほど活きて来るパターソングを原語で歌うのは普通の日本人にはとても不可能なことなので、その辺はフレキシブルに折衷するのも手だろう。なおこれは全く個人的な当てずっぽうだが、このプロダクションがここまで日本語翻訳上演に拘った背景には、この事業が文化庁の助成を得ているということが影響しているのだろうか。なにしろ子供たちを真っ当な「愛国」教育に導きたいお役所のことであるから、助成が欲しけりゃ日本語で上演しろというくそつまらない官僚的横車を入れて来ても不思議ではない。制作者サイドの「忖度」かも知れないが。

また森友・加計問題や秘書への暴言問題など時勢ネタには事欠かない昨今であるので、このあたりのネタを盛り込むことは、演出家には苦もない作業であったに違いない(そう言えば「一線を越えてない」という直近のネタもさっそく取り入れていた)。「私設秘書」のプーバー(シェイクスピアを思わせる容貌と衣装となっている)が、ヤムヤムから「このハゲー!」と罵倒されるところがおおいに受けていたのにはニンマリとしていることだろう。

歌唱では、音楽本来の美しさでこのアンサンブルの特質を高度に活かすことのできた「結婚のマドリガル」の五重唱がもっとも盛大な拍手を受けていたように思う。この五重唱は本当に美しく、決してこのアンサンブルが単なるお茶らけではないことを証明するよい出番となった。ココ役の迎 肇聡はセリフでの発声も聴き取りやすく、歌唱も安定していた。ナンキプーのルックスのイメージはジョン・レノンということらしいが、最近流行のアニメの声優さんのような雰囲気だった(ヤムヤムら女学生もまったくアニメの雰囲気)が、こちらも聴きごたえはあった。ミカド役の松森 治も深みのある素晴らしい低音で、この「冷酷かつ慈悲深き博愛主義者」のミカドを好演していた。最後は吉本の芸人さんみたいな感じだったと言えば、演出家も喜ぶだろうか。なかなかわかりやすくて楽しめる舞台に仕上がっていたが、もう少し合唱やエキストラの人数があれば、空間的な充足感が満たされたのではないかと思った。

それはそうと、休憩時に丸テーブルでサンドイッチをパクついていた時、なにげにふと横のテーブルを見たらすぐそこに飯守マエストロのお姿があってびっくり仰天。マエストロも「ミカド」を観に来ておられたとは! でも、さすがに今回は本物の「ミカド」や「皇太子」のご来臨はありません(笑)

なお当日は映像収録の大型のTVカメラが4台後方に設置されていたので、近いうちにこの模様が放送されることを祈っている。


指揮:園田隆一郎
演出・訳詞・お話:中村敬一
管弦楽:日本センチュリー交響楽団
美術:増田寿子
照明:山本英明
衣裳:下斗米雪子
振付:佐藤ミツル
音響:押谷征仁(びわ湖ホール)
舞台監督:牧野 優(びわ湖ホール)
出演:びわ湖ホール声楽アンサンブル
 ミカド     松森 治*
 ナンキプー   二塚直紀*
 ココ      迎 肇聡*
 プーバー    竹内直紀*
 ピシュタッシュ 五島真澄
 ヤムヤム    飯嶋幸子
 ピッティシング 藤村江李奈
 ピープボー   山際きみ佳
 カティーシャ  船越亜弥



(右はびわ湖ホール上演時の告知ポスター)

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