grunerwaldのブログ

ドイツと音楽、歴史や旅行を楽しむ憩いの森へ
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もうお正月もとうに過ぎて1月もあっと言う間に半分になったが、まだ昨年末から正月にかけて観た映画や浄瑠璃、音楽のことが書けていない。今日は昨年末にNHK-BSで放送していた映画から、ジム・ジャームッシュ監督の「ダウン・バイ・ロー」を。たしか二日続けて、次の日は「ストレンジャー・ザン・パラダイス」も放送していた。「ダウン・バイ・ロー」のほうは放送予定に全然気づいてなくて、風呂上がりに何気なくTVのリモコンをパチパチしていたら、モノクロの画面の映画で、ちょうどイタリア人俳優のロベルト・ベニーニ(脱獄半役)がたどたどしいイタリア語訛りの旅行者英語でぶつぶつと独り言を言いながら、捕まえたうさぎの丸焼きを焚き火で料理しているもっとも強烈に印象に残る場面のところだった。なので、もう映画としては残すところ20分程度で最終盤に差し掛かったあたりなのだが、なんだかそのうさぎの丸焼きのシーンだけでも一度観たら絶対に忘れられないくらい強烈なインパクトを残すようで斬新な感動。いちおう説明をすると、ニューオーリンズの刑務所で同房になったチンピラでポン引きのジャック(ジョン・ルーリー)と、アル中で仕事が板につかないDJのザック(トム・ウェイツ)とイタリア人旅行者のロベルトの三人が脱獄を企ててニューオーリンズの沼地を這いずり回ってヘトヘトになって森で一夜を明かす場面で、ひとりはぐれたロベルトが素手で捕まえたうさぎを焚き火であぶって、夕食にありつこうとするところ。

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うさぎをくるくると炙りながら子供の頃に母親がうさぎを絞めて料理する場面を独り言をつぶやきながら、回想する。「お母さん、大好き。ボクのお母さん。でも、お母さんちょっと変わってる。うさぎの目を見て『ほーら、うさぎちゃん、かわいいわねー』、次の瞬間、ドンッ!(右手でうさぎの首を落とす仕草)、うさぎ、もう死んでる」耳にこびりつくような強烈なイタリア語訛りのブロークン・イングリッシュでつぶやくその場面の強烈なインパクト。途中から何気なく観はじめたけど、画面にくぎ付けになった。その後、においに誘われてジャックとザックも戻って三人でひどい味の丸焼きをかじって一夜を明かす。当然、録画もしてなかったので、すぐにネットでDVDを注文したら三日後には自宅に届いたので、最初から観ることができたが、この後、さらに「宇宙人のような」ロベルトの奇妙さが際立つ終盤が待っている。この役者、三人とも強烈な個性なのだが、なんと言っても監督のジム・ジャームッシュの強烈な個性がひかる、一風変わった面白い映画だった。「ダウン・バイ・ロー」の意味をいろいろと調べてみると、スラングとは言え、一般にはあまり使われなさそうなレアな隠語だろうか。監督自身がインタビューで説明しているのを読むと、わかりやすく言えば、「ムショ仲間」とか「ダチ公、マブダチ」って感じだろうか。例によってあらすじを詳しく紹介する親切心は、ありません。(ところで、トム・ウェイツって「ワン・フロム・ザ・ハート」の頃から注目してたんだけど、あの妙な存在感って野生爆弾のくっきーに似てるよな)

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「ストレンジャー・ザン・パラダイス」のほうは、今度はイタリア人旅行者じゃなくて、ハンガリー人のいとこの
女性が主人公で、これまた一風変わった独特の「間」が乙な味わいの映画。こちらもわかりにくいタイトル
だが、頭の「a place」または「the place」が省かれていると考えれば、「天国より不思議な(ところ)」と言った
意味になるだろうか。年末年始、アホに感染しそうな勢いのこの国の電波に晒されるよりは、よほど気の
利いた時間が過ごせると言うものである。


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戦後再開初年度の1951年バイロイト音楽祭のクナッパーツブッシュ指揮「神々の黄昏」のCDについては前回のブログで取り上げたが、この際、ここ数年来「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の演奏の記録にこだわりながらも(右欄の「すべての記事」から、「マイスタージンガー」の「タイトル」で「検索」できます)、音質面での評価の低さから今までずっと後まわしにして来た、'51年EMI収録のカラヤン指揮バイロイトの「マイスタージンガー」を上記クナの「神々の黄昏」と同時期に購入して、ようやく聴了した。この録音は今も書いたように戦後再開バイロイト音楽祭に於けるカラヤンの注目すべき足跡でありながら現在音源元のEMIからのリリースがなく、近年になってEMIから出ていたLPレコードの音源をもとに復刻され、NAXOSから発売されているものである。

その復刻作業に携わった製作者のマーク・オーバート=ソーン自身がその帯説で、「同じ年のバイロイトでデッカにより収録された『パルジファル』におけるほどには、バイロイト祝祭劇場の独特のアコースティクス(音響特性)の雰囲気を伝えていない」、と正直に書いているように、EMIによる収録時のオリジナルの音源の音自体に問題があることは、以前から指摘が多い。特に聴き始めて早々に聴覚に刺々しい刺激を感じさせるのがヴァルター・フォン・シュトルチングを歌うハンス・ホップの歌唱で、もともと相当豊かな声量を誇る歌手なのだが、その声量が裏目に出たのか、マイクの位置が近接すぎるのか、あるいは機器との位相的な相性が良くないのか、音割れまではしてはいないのだが、彼の歌唱の多くの部分で他の歌手やオケの演奏音と比べて著しくバランスの悪い、耳障りな刺激を感じるのである。まず一聴して最初に感じたのは、その点である。

しかしながら、その点を辛抱して全体を通して聴き終えてみると、その欠点以外にそれほど拒絶すべきまでの、耐え難いほどの音の悪さを終始実感したかと言うと、全体としてはそれほどひどい音質と言うほどではないと言うのが率直な感想。もちろん、上述のようにデッカのクナの「パルジファル」や、前記事のTESTAMENT社のクナ「神々の黄昏」で聴けるような驚くような高音質には及ばないのは言うまでもないが、それらはどちらかと言うと幸運な例外であって、同じクナの録音でも、比較的手軽に聴けるもののなかには、音質がとても悪いものも多い。例えばこの翌年1952年の同音楽祭のクナッパーツブッシュ指揮の「マイスタージンガー」のCDなどはとても聴き続けるのが難しいくらいの音の悪さで、そうしたものに較べれば、この51年のカラヤンの「マイスタージンガー」などは良音の部類である。ヴァルター役のハンス・ホップの音声の収録上のバランスの悪さを除けば、この時代のライブ録音としては、良好な音質と言えるのではないか。ただし一曲目の前奏曲はボリュームの位置を一段落としておいたほうが無難であるとは言える。続く二曲目のカタリーナ教会での合唱などは美しく重厚な演奏が、じゅうぶん良好な音で聴ける。

歌手ではエーファを歌うエリザベート・シュヴァルツコップの歌唱にいたく感動した。これまで50-60年代の録音の同演目のエーファでは、リーザ・デラ・カーザやエリザベート・グリュンマーやヒルデ・ギューデン、ティアーナレムニッツ、イルムガルト・ゼーフリートなどで聴いて来ているが、さすがにエリザベート・シュヴァルツコップの歌うエーファは別格のうまさと安定感を感じさせる。今さらながらと言う感じだが、恥ずかしながらようやく最良のエーファにたどり着いた、という感じだ。やはり第一級歌手と言うのは、一聴してすぐに耳に馴染む。ハンス・ザックスはオットー・エーデルマン。開幕初日のあの有名なフルトヴェングラーの「第九」でも聴ける低音。こうしてオットー・エーデルマンのザックスを聴いていると、現在の歌手で言うと、ミヒャエル・フォッレがもっともその印象に近いのではないかと感じる。この時代のザックスで他に好きなのは、フェルディナント・フランツやハンス・ホッター(ザックスは案外少ないし、音はいまいち)、パウル・シェフラーなど。ヴァルターのハンス・ホップも偉大な歌手だが、この役で聴くのは個人的にはあまり好みではない。マッチョなますらおぶりで声量は申し分ないのだが、ちょっと一本調子で色彩感に欠ける。55年ウィーンの「影の無い女」の皇帝なんかは感動したけど。ゲアハルト・ウンガーのダフィトは以前別の記事でも書いたように軽めでとても個性的な声質で大好きだ。こうした個性的なダフィトはこの後のバイロイトではゲアハルト・シュトルツェでも聴ける。あと、面白いと言うか、一瞬「ええ、え〜っ?!」っと松尾スズキ風に椅子からずり落ちそうになったのは、ハインリッヒ・フランツルのフリッツ・コートナーで、こんなコワい低音でビビらすような声で親方衆の点呼を取ったり、タブラトゥールの説明をするフリッツ・コートナーって、聴いたことがない。あのさ(笑)、ヴォータンじゃないんだからさ… この人は同年のクナの「神々の黄昏」ではアルベリヒを歌っているのだが、アルベリヒの印象ではグスタフ・ナイトリンガーにかなわないかなと感じたばかりだった。他の年にはベックメッサーも歌っていたと思うが、フリッツ・コートナーでこんな歌い方をされたら、そりゃ強烈にインパクトがある。本当はヴォータンが歌いたかったんだろうか。それはさておき、カラヤンの指揮は明快で颯爽たるテンポで、さすがに「戦後のマイスタージンガー」のありかたを提示したものと思えるが、抒情性が薄くてロマンティックさには欠けるところが、いまひとつ個人的には夢中になれない理由かも知れない

50年代の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」については、他にも'51年ケンペ指揮ドレスデン、'52年クナ指揮ウィーンフィル、'55年クナ指揮バイエルン・ライブや'55年ライナー指揮ウィーン国立歌劇場ライブなどで良質なモノラル・サウンドのCDを聴いて来た。ワーグナー・ファンやバイロイト・ファンの皆さまからすれば、'51年カラヤンのバイロイト・ライブについては何を今さら、の12、3周遅れくらいの遠回りをして来ているが、遠回りというのは時間はかかるものの、まったく意味のないものでもないと、最近はよく感じる。


ハンス・ザックス : オットー・エーデルマン
ヴァルター・フォン・シュトルツィング : ハンス・ホップ
エヴァ : エリザベート・シュヴァルツコップ
ファイト・ポーグナー : フリードリヒ・ダールベルク
クンツ・フォーゲルゲザング : エーリヒ・マイクート
コンラート・ナハティガル : ハンス・ベルク
ジクストゥス・ベックメッサー : エーリヒ・クンツ
フリッツ・コートナー : ハインリヒ・プランツル
バルタザール・ツォルン : ヨゼフ・ヤンコ
ウルリッヒ・アイスリンガー : カール・ミコライ
アウグスティン・モーザー : ゲアハルト・シュトルツェ
ヘルマン・オルテル : ハインツ・タンドラー
ハンス・シュワルツ : ハインツ・ポルスト
ハンス・フォルツ : アルノルド・ヴァン・ミル
ダーフィト : ゲルハルト・ウンガー
マグダレーネ : イラ・マラニウク
夜警 : ヴェルナー・ファウルハーバ
合唱 : バイロイト祝祭合唱団
合唱指揮 : ヴィルヘルム・ピッツ
管弦楽 : バイロイト祝祭管弦楽団

指揮 : ヘルベルト・フォン・カラヤン

収録 1951年8月、バイロイト祝祭劇場

プロデューサー : ウォルター・レッグ
レコーディング・エンジニア : ロバート・ベケット

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謹賀新年。本年もよろしくお願いします。

昨年末は大晦日にマレク・ヤノフスキ指揮N響のベートーヴェン「第九」で聴き納め、お正月はクリスティアン・ティーレマン指揮ウィーンフィルのニューイヤー・コンサートをTVで鑑賞し、自宅で寛いで過ごした。前回の年末年始はライプツィッヒ・トーマス教会でのクリスマス行事にはじまり、ベルリン、ウィーンとオペラ・コンサート尽くしの怒涛のような、まためくるめく夢のような日々であった。こうした旅は、やはりある程度体力があるうちにやっておかないと体力が落ちてからでは厳しいものだとつくづく感じたが、TVでNYコンサートを観ていると、毎年のようにまるで意地でも自分の指定席のようによく目立つ席に毎回座っている和装の老人を見受けるにつけ、何とも大したものだと感心する。自分が日本人代表だと言う心意気でやっているとしたら、見上げたもんだよ屋根屋のなんとやらである。しかしまあ、お正月はやはりお節料理で日本酒をやりながら自宅で寛いでTV鑑賞というのもNYコンサートの醍醐味でもある。二日の夜にはBSでYMOと細野晴臣の特番をやっていて、これもNHKならではの良番組だった。

さて昨年は新年の書き初めに「クナの指環」と大書きして一年が始まったので、ワーグナーファンながら齢50をだいぶん過ぎてようやくクナッパーツブッシュのバイロイト「ニーベルンクの指環」の偉大さに目覚めてほぼ一年をその鑑賞に費やした。そして最後に残っていて一年の締めくくりに聴いたのが、戦後再開バイロイトの初年度である1951年8月4日のクナ指揮の「神々の黄昏」のCDであった。このCDについては、ワーグナー好き、バイロイト好き、クナ好きの方々には言わずと知れた有名なディスクだろう。自分も以前からその存在は知識としては知っていたが、記念すべき記録とは言え他の三演目が欠けての「神々の黄昏」単演目のみと言うことが最後まで頭の隅にずっとあって、後まわしにして来ていたのだった。それがまた、こうして実際に聴いてみると、あーた!凄いじゃないですか!いやー、恐るべし、その演奏!そのサウンド!こんなに凄い高音質のクナの演奏がすでに再開初年度の51年のバイロイトの記録で残されていたとは本当に恐れ入った!久々にCDで鳥肌が立った!もともとデッカが録音はしていたものの、契約上の問題からこの音源がお蔵入りのまま半世紀も封印され続けて来たのを、1999年に英TESTAMENT社が様々な困難をクリアして発売に漕ぎつけたと言うのは知ってはいたが、実際に聴いてみるとやはりこれは音楽史上に残る大事業だと言うのが、本当によくわかる。これほど高音質のバイロイトの「指環」(の一部)が、とりも直さずその戦後再開の最初の年にあったのなら、その後の数々の音質の良くないクナの「指環」を辛抱しながらも聴き続けて来たのは何だったのか、と思えてくるほどの素晴らしい演奏と、何よりもそのずば抜けてクオリティの高い音質だ。つくづく、恨むべきはEMIのウォルター・レッグ!デッカ/テルデックが契約に勝っていたとすれば、最初から音の良い「指環」(の一部)が、こんな苦労もなく市場に出回っているはずであった。そうした詳細な経緯の説明も、付属のリーフレットでトニー・ロカントロの英文の説明で詳しく書かれている。これがまた虫眼鏡で見ないと読めないくらいの細かい文字なので、1.5倍ほどに拡大コピーをしてようやく読むことができた。実際にこのCDを手に取られた方にはおわかり頂けるだろう(このリーフレットがまた歌詞付きの百頁以上あるそこそこ厚さのあるもので、文字もびっしりと端まで印刷されているため、冊子の中央部分がコピー面から浮き上がってその部分だけ鮮明に印刷できずに一苦労だった)。

この解説によると、'51年の音楽祭開幕間際に至るまで、EMI社とデッカ社(後にデッカ・テルデック)との間で、レコードの販売権を巡って熾烈な競争があり、カラヤンや多くの出演歌手の専属契約を抱えて当初から一歩先んじていたウォルター・レッグのEMIが競り勝ったためにデッカとしては販売権を獲得することが出来なかった。ところがEMIとしてはまずはこの初年度はカラヤンの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の録音と製作・販売に集中しており、同じカラヤンが指揮する「指環」(この年の「指環」はクナッパーツブッシュが指揮する第1サイクルとカラヤンが指揮する第2サイクルの計2サイクルだった)の録音は重視しておらず、EMIとしては翌’52年かそれ以後にカラヤンの「指環」を本格的に録音するための予行演習程度と捉えていた。ところが'52年の出演以降、その次のシーズンからはカラヤンがバイロイトと袂を分かったためにそれは実現することなく終わった。52年はカラヤンはバイロイトで「トリスタンとイゾルデ」を振っているが、EMIはすでにその年の6月にフルトヴェングラー指揮の同演目をフィルハーモニア管でスタジオ収録済みであり、バイロイトで繰り返す必要がなかった。なので皮肉にもこの年のバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」はEMIからでなく、後にオルフェオ・ドオールから発売されている。また結果として、そうまでしてカラヤンに拘ってリリースされたEMIの51年バイロイトの「マイスタージンガー」は音質面で低い評価が多く、いまでは発売されていないと言うのも、皮肉なことではないか。。

上層部の契約競争には一敗地に塗れたデッカであったが、現場のジョン・カルショーやケネス・ウィルキンソンらは、販売権や金銭面のことは後で上役が決めたら良い事であって、とにもかくにもまず録音だけはさせておいて欲しいと、それ以前には二度ほど会話したことがあった程度のデッカ上役のローゼンガルテンにねじこんで、「アホか」と言われるかと思ったが意外にも了承してくれた、と「Ring Resouding」でカルショーが後に述懐している。本CDの解説でも、録音することのみについてはワーグナー兄弟の「非公式の了解」(鼻薬が効いての見て見ぬふり、のことか)があったと書かれている。しかしながら、デッカが仮にLP販売権の獲得に成功していたとしても、それを製品化するには「指環」本番の1サイクルと一回のゲネプロだけでは基礎となる「素材」が圧倒的に不足していて、どのみち「神々の黄昏」だけしか商品たりえなかっただろうことは、カルショーの同書で述べられている。彼によれば、「ラインの黄金」のクナの演奏はいまひとつ冴えがなく、「ワルキューレ」ではヴォータンもいまひとつだったり(あくまでカルショーの私見)、観客やプロンプターのノイズもひどく、録音機器の不調も重なったりで、「ジークフリート」の頃には「もうダメだ、こりゃ」とすっかり心が折れかかっていたところ、最後の「神々の黄昏」になって俄然クナが生気を取り戻し、文句なしの圧倒的な名演奏になったと言うことらしい。この「神々の黄昏」だけでもレコード化されていればとは思うが、現実にはノルンの網以上に複雑に絡んだ権利関係の問題上、それを解決するには半世紀の時間が必要だったと言うことになる。EMIとの競争では、契約の交渉では破れたデッカだったが、こうした奇跡的な経緯を経てリリースされたこの録音の実際のサウンドをこの耳で聴けば、当初からデッカ/テルデックチームの技術陣のほうが圧倒的に勝っていたと言うことが、文句なしにわかって興味深い。

歌手については、アストリッド・ヴァルナイのブリュンヒルデやベルント・アルデンホフのジークフリート、ルートヴィッヒ・ヴェーバーのハーゲン、ヘルマン・ウーデのグンターなどいずれも凄いのは言うまでもないが、他のクナ盤の「黄昏」でのグートルーネのグレ・ブロウェンスティンがいまひとつの感想だったので、ここでのマルタ・メードルがグートルーネというのが、もの凄く贅沢に感じられるし、実際聴きごたえがある。エリザベート・シュヴァルツコップがヴォークリンデという脇役なのが意外だが、実際カルショーも上記の本のなかで、この事とデッカが「神々の黄昏」をリリースできなかったことに関して、「だからと言って(シュヴァルツコップの亭主の)ウォルター・レッグが横やりを入れたとは思えないけどね」と述べているのも面白い。


ブリュンヒルデ…アストリッド・ヴァルナイ(ソプラノ)/ジークフリート…ベルント・アルデンホフ(テノール)/グンター…ヘルマン・ウーデ(バリトン)/ヴァルトラウテ…エリーザベト・ヘンゲン(メッゾ・ソプラノ)/アルベリヒ…ハインリヒ・プフランツェル(バス)/ハーゲン…ルートヴィヒ・ウェーバー(バス)/グートルーネ…マルタ・メードル(ソプラノ)/ヴォークリンデ…エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)/ヴェルグンデ…ハンナ・ルートヴィヒ(ソプラノ)/フロースヒルデ…ヘルタ・テッパー(メッゾ・ソプラノ)/他
バイロイト祝祭劇場管弦楽団・合唱団、(合唱指揮:ヴィルヘルム・ピッツ)
指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
録音:1951年8月4日土曜日〈ライヴ・レコーデング〉

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Weihnachtsmarkt 2018/Osaka


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この時期恒例、大阪・梅田のスカイビルの一角で開催されているクリスマスマーケットに行って来た。規模としてはコンパクトなサイズながらも、ヒュッテや全体の雰囲気などはドイツのクリスマスマーケットさながらのなかなか本格的な催しだ。ちゃんとクリッペ(飼い葉桶)の生誕のミニチュアも設置されている。温かいグリュワインとソーセージでホッと一息ついている間に陽が暮れなずんで辺りが暗くなると、ツリーの電飾がきらめきはじめた。去年のライプツイヒベルリンのクリスマスのことを思い出していると、不覚にも急に胸が熱くなって来る。グリュワインは、もう少しスパイシーだといいのだけど。


そう言えば、行き帰りに通った大阪駅北口周辺、かつて大きな操車場があった広大な敷地跡は現在大規模な再開発工事の最中で、新しいビルが立ち並びかつての面影は全くない。一時的に広大な空き地となっている敷地に巨大なサーカス小屋のテントが建てられているところなどは、20年ほど前の超大規模な再開発工事中だったベルリンのポツダム広場周辺の光景にそっくりだ。


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ちょうど一年ほど前の昨年の暮れにORFEOから出ているルドルフ・ケンペの'61年バイロイトの「ニーベルングの指環」を聴いて、過去のバイロイトでの「指環」録音が思っていた以上に良好な音質で、それらを鑑賞する愉悦を知った。以来、ようやく過去のバイロイトでの「指環」音源に挑戦して行く決心がつき、この一年の自宅でのCD鑑賞の時間はほぼこれら主に50年代に録音されて現在良好なリマスターで再販されている数種のCDセットを聴くことに費消した。文字で簡単に書くと一行か二行に収まってしまうことだが、なにしろ1セットあたり12〜13枚のCD数種類だから、それだけでも50枚以上のCDを連続して聴き通すというのは、なかなかに決心が要ることだった。さらに、これらに加えてそれ以後の時代のステレオのCD各種も部分的に参考に聴き直しをしているし、70年代のシェロー以後の映像での「指環」も5種類のDVDがあり(ブーレーズ指揮シェロー演出バイロイト、バレンボイム指揮クプファー演出バイロイト、レヴァイン指揮シェンク演出メトロポリタン、ヴァイグレ指揮ネミロヴァ演出フランクフルト、メータ指揮パドリッサ演出バレンシア)これらの鑑賞も加えると、この一年はほぼ「指環」の鑑賞に文字通り明け暮れた。CDでは他にショルティ指揮ウィーンフィル、ベーム指揮バイロイト、ティーレマン指揮バイロイト、ヤノフスキ指揮ドレスデン、ヤノフスキ指揮ベルリン放送響。世の中には、「春のパン祭り」だとか「夏の水着祭り」に「秋のサンマ祭り」、「冬のタイヤ祭り」だとか様々あって、各種各様いろんな「祭り」やフェアー、キャンペーンに溢れているが、今年一年の自分史的には、かつてない「指環祭り」を通年で実施していたことを知る人はいない(笑)。

「ニーベルングの指環」と言うとワーグナーの大曲のなかでも並外れてスケールの大きい大作であることは言うまでもないことであって、おいそれとそう簡単にわかったと言う気になれるような容易い作品ではないことを、畏敬の思いとともに抱いて来た。なので、順序としてはまず、「指環」以外の作品群をじっくりと時間をかけて鑑賞してくるだけでもかなりの時間とコストがかかった。「指環」については、最初に購入したショルティとウィーンフィルのDECCA盤をまずは擦り切れるまで聴きまくることが最初のスタートだった。ちょうど関心を持ち始めた頃に、バレンボイムとベルリン国立歌劇場の来日公演(クプファー演出)で非常に質の高い「指環」の実演を初心者として鑑賞できたのは幸いなことだった(「ワルキューレ」単体の来日公演は’97年、チクルスは2002年)。その後、近年になって実際にバイロイト音楽祭に出向いて「トリスタン」「パルジファル」「マイスタージンガー」「オランダ人」「ローエングリン」を鑑賞することが叶った。'15年と'17年に訪れた時にはヤノフスキ指揮でカストルフ演出の「指環」も上演されていたが、自分的に「指環」はまだ時期尚早との思いから敢えて先延ばしにしていた。わざわざバイロイトまで来たら、普通は「指環」というのがワグネリアンの常道だと思うが、自分の場合は逆だった。敬遠したわけではない。まだその時点での自分のなかの「指環」の深まり度合が釣り合っていないと感じたのだ。しかし'18年に三たび訪れた際に実際に「mystic abyss」の深淵、即ち有名な蓋の内側に降り立った時には、ついに引き返せない深みにまで到達しつつあることに大きな感慨を抱き、ようやく自分的にも「ニーベルングの指環」にどっぷりと浸かる時期が到来したことを悟るに至ったのだ。

実際にバイロイト祝祭劇場を訪れてその感動を現地で味わってみると、やはり戦後の再開バイロイト音楽祭における「指環」上演の歴史をトレースして行く上では、50年代の当地での録音の記録をいつまでも無視してはいられないと言う思いも強く抱くようになった。そう言うときに、上記した61年のケンペの「指環」の音を聴き、この音ならば、ただの歴史的探究心からの研究的アプローチだけでなく、純粋に音楽的な感動も同時に得られるのではないかとの思いを得た。そこで、まずは①1953年のクレメンス・クラウス指揮のORFEO「指環」から始め、鑑賞順序は不同だが②55年カイルベルト指揮(ステレオ、TESTAMENT)、③56年クナッパーツブッシュ(ORFEO)、④57年クナッパーツブッシュ(DISCOS、ハイブリッド盤)の50年代の4種類のCDを主に鑑賞した。「指環」ファンやワグネリアンの方からすれば何を今頃という類いの話しだろうと思うが、自分としては皆さまから10周から12、3周回遅れでようやくそのスタート位置に着けたという思いである。

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50年代の録音の歌手は、ヴォータン/さまよい人がハンス・ホッター、ブリュンヒルデがアストリッド・ヴァルナイ、ジークフリートがヴォルフガング・ヴィントガッセン(57年はB.アルデンホフ)、フンディング/ハーゲンがヨゼフ・グラインドルと言う核となるところは共通していて、他は微妙に配役は異なるが、いずれにしても戦後再開バイロイト音楽祭初期を彩った文字通り名歌手の記録と言う意味ではどれも必聴の素晴らしい演奏だ。問題は音質面での不安だが、①の53年盤はやはり録音の古さは感じざるを得ず、全体的に音が痩せていて、舞台ノイズなどのバランスも悪く場面転換のところなどで突然大きな舞台音でびっくりしたりする箇所もあるが、ハンス・ホッターの激烈で深い表現力は他に比べて断トツに素晴らしく、これを聴くだけでも価値は高い。この53年盤はもともとクナ指揮の予定だったが、ヴィーラント・ワーグナーの演出に苦言を呈して指揮を降り、代わりにクレメンス・クラウスが指揮を執った。その翌年の54年にクラウスが急死したために彼のバイロイトでの指揮はこの時のみで、54年はカイルベルトの指揮となる。

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そのカイルベルトが翌55年に早くもDECCAでステレオ録音で残していたのが②のTESTAMENT盤で、ショルティのウィーンでのステレオ盤収録より3年も早くにバイロイトでステレオ収録がDECCAチームにより行われていたが、その後の複雑な権利関係のため長らくお蔵入りとなっていたのがTESTAMENTからリリースされたのが(セットとしては)ようやく2008年。話しには聞いて知ってはいたが、ようやく文字通り10周遅れくらいで購入して聴いた。全体としての音質はもちろん素晴らしく、ステレオの良好な音で歴史的な演奏が聴ける。演奏ももちろん素晴らしいが、曲間の場面転換などの弱奏部などの繊細なところで部分的にしょぼい演奏に聴こえる(「神々の黄昏」第一幕の第一場と第二場の変わり目、ハーゲンのまどろみの漆黒の夜から明け方に転換するところでのバスクラリネットからホルンにソロが移って行くところなど、収録上の問題なのか実際の演奏上の問題なのかわからないが、ちょっとしょぼい演奏に聴こえたり)ところが何か所かある。こうしたライブ収録特有の問題はカイルベルトに限らずクナやクラウスの演奏にもあるので、別に特別なことではない。あと、「ワルキューレ」第三幕第三場のブリュンヒルデの嘆きのモノローグのところで途中で突然音がしょぼくなったりテープの揺らぎがあったり、「神々の黄昏」第三幕でハーゲンがジークフリートを殺す場面で家臣たちが「Hagen! Was tatest du!」と合唱するところが一部間違って「Hagen! Was tust du!」と繰り返していて合唱がバラバラになっているところがある。(あと、大した話しではないが、「ジークフリートの葬送行進曲」がはじまる直前の場内が完全に静まり返ったところで折り悪く頭上のプロペラ機の大きな飛行音がして収録されてしまっている。)そういう細かい問題を抜きにすれば全体としては歴史的な演奏が良好なステレオで聴ける。この「指環」ステレオ作品第一作目が世に出たことをもって、ショルティ/ウィーンのDECCA盤の歴史的意義はなくなったとか言い切る人がいるようだが、ライブ盤にはライブ盤なりの良し悪しがあって、セッション録音のショルティ/ウィーン盤と同列に語るべきものでもないだろう。

イメージ 4そして、音質・演奏の両面でもっとも満足度が高いと感じたのが③の56年のクナッパーツブッシュ指揮のORFEO盤!予想以上に音がいい!ただ、先に言っておくと、「ワルキューレ」では珍しくヴィントガッセンがジークムントを歌っていて、これがバイロイト的な逸話としては伝説的に語られている。これはもともとジークムント役の予定だったラモン・ヴァナイが直前に突然降板し、次の「ジークフリート」に出演するまで
バイロイトを離れていたヴィントガッセンが急遽呼び戻され、クルマを飛ばして本番ギリギリに祝祭劇場に駆け付けてこの役を代理で歌い、公演を救った英雄として語り草になっている。伝説としては面白い話しなのだが、実際の演奏は出だしはまあまあ良いのだが、やはり突然のぶっつけ本番というだけあって、第三場の途中からはもうぐだぐだの状態で、頭が一拍早いとか遅いとか言った程度ではなく、完全にオケの演奏と合わなくなってしまっているばかりか、音程もまったくでたらめになってしまっている。そのためデュエットを務めるジークリンデのグレ・ブロウェンスティーンの歌唱も途中から相当あやしく、こんなに壊滅的なジークムントとジークリンデの愛の二重唱も滅多に聴けるものではない。その点の明白な傷を除けば、全体としての演奏と音質の良さとしては、50年代のここに挙げた四種の録音のなかではもっとも良好だ。カイルベルトのステレオは別として、とにかくこの年代のモノラル録音としては、最良の記録ではないだろうか。音が右か左かと言う問題以前に、全体感という「広がり」がしっかりと感じられる雄大な音場感があって、奥行きと前にしっかりと出て来る立体感、マッシブ感がじゅうぶんに感じられて、音楽にヴィヴィッドな躍動感がある。なによりも、音の「粒立ち」と演奏をいきいきと感じさせるのに必要な音の「芯」(=コア)とエネルギー感がしっかりとしていて、ノイズもまったく気にならない。ずっとボリュームを上げて聴いていても耳が疲れない良好な音質だ。50年代のクナのバイロイトでの「指環」としてはこれがもっともいいのではないだろうか。ただ、ジークリンデとグートルーネを歌うグレ・ブロウェンスティンの歌唱は常にヴィヴラートが強すぎるのが気になって、個人的にはあまり好みにはなれない。

あと面白いのは「神々の黄昏」でも第三のノルン役のマルタ・メードルが降板したためにこの役をアストリッド・ヴァルナイが歌っているので、第一幕の序幕では第三のノルンとブリュンヒルデをヴァルナイが通しで歌っている(すでにこの時点でスターだったメードルやヴァルナイのような大歌手がノルン役とか、いまでは考えられないことだが)。こういうハプニングも珍しいのではないだろうか。さらに「ワルキューレ」第三幕第一場でのワルキューレ姉妹の歌唱では、ジークルーネとシュヴェルトライテ、グリムヒルデが本来ならそれぞれ個別の歌唱になるところ(「東の森ではファフナーが大蛇に化けて財宝を護っている」)を、クナはここを重唱で歌わせたりしていて「おや?」と思ったりする(57年盤でも同じ)。かと思うと「ラインの黄金」第二場終盤の「ニーベルハイムへの下降」のアンヴィル(蹄鉄)の場面では際立った超低音の効果音が機械的な電子音のように入っていて、かなり異質に聴こえる。ブックレットを見ると確かにこの場面では現代のモーグ・シンセサイザーの「はしり」のような「トラウトニウム」という1930年代に開発された電子楽器が使われていると書かれている。同じ頃に「テルミン」とか「オンド・マルトノ」とか実験的な楽器が開発されているのは知っていたが、「トラウトニウム」というのは初めて知った。ちなみにこの楽器の電子音は④のクナ57年盤でも同じように入っているが、それ以外にはここで取り上げている他のディスクでは入っていないので、クナに限って意図して使われた効果音と考えられるのではないだろうか。

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最後にダメ押しで④の57年のクナの「指環」だが、これはSACDとのハイブリッドCDで2016年の発売。数千円分たまっていたポイントを利用してもまだ二万円くらいはしたので、CDとしてはずいぶん高い買い物で期待は高かったが、結果から言えば音質はさほど良いと言うほどではない。音質面で言えば③の56年盤があればわざわざ大枚をはたいて④まで買いそろえるほどのものではないだろう。音質ではまったくの期待はずれだった。ただ、③に挙げたヴィントガッセンとブロウェンスティンの「ワルキューレ」第一幕がキズものと言う点において、この盤ではラモン・ヴァナイとビルギット・ニルソンの安定したジークムント・ジークリンデが聴ける。「神々の黄昏」のグートルーネも、ヴィヴラートの強いブロウェンスティンよりもリリックなエリザベート・グリュンマーの④のほうが個人的には聴きやすい。ただ、全体を通しての印象では音質は良好とまでは言えず、ストレスは感じる。こうして聴いてみると、50年代のバイロイトのライブはどの盤にも一長一短があると言うのがわかる。

それぞれを通して共通の印象で言えば、とにかくこの時代のハンス・ホッターやヨゼフ・グラインドル、アストリッド・ヴァルナイ、ヴィントガッセンやグスタフ・ナイトリンガーのアルベリヒ、パウル・キューエンのミーメと言った不世出の歌手の名演奏がさすがにすごい!加えてクナッパーツブッシュの濃厚でコクのあるがっしりとした演奏のいずれもが、その時代でしか体験しえなかったような演奏であって、後世にいくら傑出した歌手や指揮者が出たとしても、並ぶことなど到底不可能だという実感。歌唱と演奏を聴くだけで言えば、これ以上のものは不世出だと言う点。つまり、これらの録音から60年以上を経たいま現在においてバイロイトで「指環」を聴くことの意義は那辺にあるのか。その辺りがわかってくればまた、これからのものも面白いものになるのかも知れない。

(ところでクナッパーツブッシュのライブを聴いてると、時々「ンガーッ!」っていう痰を切るような凄いノイズが入ってることに気がつくんだけど、ひょっとしてクナの癖なんだろうか?これだけ複数回ってことは、楽団員や観客のノイズとは考えにくいのだが)

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