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年代豊凶録
文化4 1807
今年5月異国の兵船数十艘が松前に着岸したというので、松前御奉行羽太安芸守から告げ知らせられたそうで、当国秋田からも加勢して、大将金易右衛門様が陸路で出馬した。海路は大将松野茂右衛門様が能代から船で。大将のお供大勢、海陸で久保田から蝦夷地へ通行して陣取り準備のために兵具並びに諸道具をおびただしく送る。人馬については、宿駅は言うまでもなく、さらに加郷の村々も、なお栄村は綴子村の寄郷なので、農業を止めて、人馬をあるだけ詰めて、軍役を勤めた。8月お帰りになる。その他海上通りの庄内藩の加勢並びに会津藩の加勢のお帰り。今年は伝馬を加えるのが容易でなく相詰めている。こういうことは前代未聞である。眼前に軍が見えるも同然で、恐ろしいことである。委細は別帳にある。
 [現代風に書きあらためた]
 
異国とはロシアのことだが、露西亜あるいはロシアという単語は年代豊凶録に一度も出ない。この事件は一般の歴史書にあるか、調べたら、〈文化露寇〉として知られた事件だった。ロシアの船が文化39北海道の北に襲来して、幕府の松前奉行羽太(はぶと)は奥羽地方の諸藩に命令して兵力を動員した。農民も兵隊になった。
 
他の文献資料を合わせてみると、こういう事件だ。[1]
文化元年(1804年)ロシア皇帝アレクサンドル1世から通商のために派遣された毛皮交易会社経営者ニコライ・レザノフは長崎で交渉したが、文化24月幕府から要求を拒否されて帰った。レザノフの命令には異説があるが、開国のために部下のフヴォストフは樺太や千島列島を襲撃した。文化3年には樺太を攻撃したという。この事件は、菅江真澄が《おがらのたき》で触れている。忘れていたが、文化4年二ツ井から大館への旅だから、サーチで見た資料記事よりも信用できる。
 
幕府はこの事件に関する情報拡散を禁止して、出版統制を強化した。今と変わらない。[2]
 
久保田とは佐竹の城下町、現在の秋田市。
栄村は綴子村の東南3kmの米代川沿いに位置するが、寄郷(よりごう)というのは広域行政地域か 
 
長谷川本家は栄村の太田と言われている地域にある。栄橋の南の栄地区栄村の一部だったか、明らかでない。
 
 
 
1 wikipedia  陸奥新報 他
2 アプローチ(1)「<日本意識>の変遷―古代から近世へ」
 
Filming; 2008.7.6 JR奥羽本線オーヴァー・パス(陸橋)から米代川栄橋方向を見る 鷹巣町太田はバイパスで左右に分断された
 
 

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