全体表示

[ リスト ]

イメージ 1
 
年代豊凶録
天保2年 1831
今年は卯年である。屋形様が御渡野をすると言われて、道と橋の手入れを厳重に命令された。栄村でも坦丁場と坦橋の手入れ普請に少なからず金がかかった。
 
82日、屋形様が鷹巣村に宿泊した。翌日大館町へ御通行した。
[現代風に書きあらためた。]
 
☆徳川家康は、秋田を支配していた安東秋田家の実季(さねすえ)を常陸の宍戸に強制的に移した。佐竹家は秋田の統治のために代わりに常陸から来たが、秋田の住民は従順に受け入れたか?歴史テキストでは空白である。少なくとも憲法のようなルールを決めて新しい政治権力を承認したわけではない。こういうプロセスは民主主義社会に生まれ育った人間には不思議である。遠慮なく言えば、これは武力と暴力を背景にした一方的な専制政治(autocracy)である。
 
5月、天の恵みである不老不死の甘い露が降ったという記事のあとにあるから、6月の出来事かもしれない。あえて卯年と書き記したことに特別な意味があるか、分からない。常識ではウサギは縁起のいい動物である。
 
屋形様は第10代藩主佐竹義厚(よしひろ)である。屋形はたぶん館(やかた)が起源だろう。
 
御渡野(おわたりの)とは藩主の巡検を言う。これはめずらしいことで、〈地域あげての一大行事〉だった。長崎七左衛門の〈御渡野御用日記〉によれば、文化6年(1809年)9月第9代藩主義和が鷹巣の七日市村に来たときは、総勢300人以上を引き連れていた。宿と食事、橋と建物などの整備、案内人の衣装など費用は村が負担しなければならなかった。長崎村長は細かい規定どおりに準備させられた。[1]
 
しかし、公式的には御渡野は町と村の栄誉であるらしい。確かに凶作で苦しむ地域にはできないことである。
 
栄村でも道と橋の整備を命令された。坦丁場とは村が整備と清掃などを担当する区域のことで、道路と橋の補修や新設も村の負担にされた[1,2]。佐竹藩が勝手に定めた制度である。それについて村長長谷川貞顕は、ほとんど事実を記録しないで、公共事業に〈少なからず金がかかった〉と佐竹藩と幕府を暗に批判している。
 
 
List 2 有栖川宮の歴史;アリスと有栖川宮 z
 
1 秋田県のがんばる農山漁村応援サイト
参考文献:
小猿部物語(Ⅰ)殿様の巻
御渡野御用日記 長崎七左衛門(秋田県公文書館蔵)
おさるべ元気くらぶパンフレット『おさるべかだるべ』
2 大館市二井田 一関家文書
 
 
Filming; 2016.5.3 きみまち阪 琴音橋
 
 

List-関連記事一覧

 
平川のページ new 
 
 
 
*大館市役所西側本庁舎を保存しよう
 
*水源シリーズ
*環境の危機
*歴史遺産の保存
 
*今日のリンク
 
---リヴァー・ポートだより---
 
        広告募集
 
 

 

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事