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年代豊凶録
天保4年 1833
正月元日、日輪が二つ出る。
 
当村で3145日ころ種蒔きした。脇村では八十八や()以前に蒔いたという。八十八夜前後大風が吹いたために冴え返り、近年覚えがないほど苗が薄くなったので、田植えも日延べになった。今年は全体に苗不足である。
 
429日、田植えした。
 
422日より522日まで30日間大旱魃で、大川掛り、小沢掛り、堤掛りは言うまでもなく、水が非常に不足した。雨乞いがどこでも数多く行なわれた。[1]
 
534日の夜、甘露が降る。17日より七座天神宮で五穀成就のため郡方から命じられて、大般若のご祈祷があるという。
 
元旦に太陽が二つ出たというのは、異常気象による光学現象だろう。屋政(いえまさ)は祖父長谷川貞顕の跡を継いで、まず天保の大飢饉の兆から書いた。
 
太田新田(しんでん)村は栄村とも言われたが、年代と区域は明白でない。大館の長谷川家は、そこの本家の別家から分かれた。戦後は、北秋田市になるまで鷹巣町太田で、ふだん何と呼んでいたか、と言えば、〈オダ〉である。よくあるように〈オダ〉と太田(オオタ)は第三者には結びつかない。疑問を感じて悩まされた記憶があるが、自由に想像できるときもあるので、織田一族とのつながりが見えた。数年前、《信長公記》を読むと、本能寺の変の前あたりから信長の忠臣に長谷川与次と子の秀一(ひでかず)がいた。秀一は本能寺の変のとき、徳川家康らを案内して大坂と堺などの見物をしていたが、無事に家康と脱出した。《信長公記》は、それが最終章である。年代豊凶録はその延長のようだ。これは長谷川貞顕の歴史認識による構想かもしれない。
 
村のもみ蒔きについて書きとめるが、そこではじめて八十八夜という言葉が出る。キリシタンが使いはじめた西洋の太陽暦を基にして立春から88日目。新暦の52日、3日に当たる。南の地方でも北国でも、八十八夜を基準として信用したとは思えないが、とにかく北秋田の農業はそれを取り入れた。幕府や佐竹藩の指導か 
 
八十八夜に科学的な根拠があるわけがない。その数字が選ばれたのは宗教的な動機からだろう。四国遍路の八十八か所は弘法大師(空海)ゆかりの霊場である。八十八という数字については、〈長谷川歌野という名前から思うこと〉で考察したので、それを参照してほしい。
 
不運なことに、30日間乾いた天気で水が不足した。米代川と支流の小さい沢、かんがい用水池の水のネットワークが機能しなくなった。小繋の七座天神宮では般若経の祈祷で雨乞いした。
 








日本水文科学会誌 第46 : 江戸中期に六郷扇状地で築造された「堤」の目的と役割に関する水文学的検証―地下水人工涵養の機能を中心に―肥田登
 


Filming;2007.11.10 七座神社


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