ヨネシロ・ペイパーズ

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年代豊凶録
天保10年 1839
[]
南部と津軽はもってのほかの不作の趣で、2月中ごろより乞食多人数、午(うま)年と同じように来た。
[]
南部の三戸に大館柳町のあめ売りが行った。日が暮れて、ある家に宿を借りたところ、その家の火棚に人の片股があったので、気が動転して命がけで逃げた。近在で問うと、この辺では食いものを食らい尽くして,馬牛の肉も食らいつくして、人を殺して食らうということである。その家は親子三人の家内で、親父と子どもが女房一人を打ち殺して肉を食らったという、誠に前代未聞である。昔より凶作は幾度もあったが、人を食らうことは聞いたことがない。鬼神の住居と成り果てた。仏道で言う餓鬼道とはこのことを言うのだろう。不誠事なことだが、大館に行ったら、もっぱら風説が流れていたので、このように書きしるす。
                   [現代風に書きあらためた。]
通説では大飢饉の最終年だが、真冬に南部と津軽から乞食の群れが国境を越えて来た。南部藩は、天明の大飢饉と同じように民衆の生活を救うという観念を持っていない。一言で言えば、奴隷から奪えるだけ奪い取る政治だ。世界史に例がない。


大館柳町のあめ売りは鹿角花輪から来満(くるまん)峠を越えたのだろう。飴箱を背負って歩いて何日かかったか?大湯などであめを売って稼いだのか?大飢饉のときにあめを売りに行こうと思ったのは、採算が取れる当てがあったからだろうか?
 
あめ売りは三戸で民家を宿に借りた。火棚とは囲炉裏の上に吊り下げてある棚だが、煙で魚などの燻製をつくる平和な生活状況ではない。忌まわしい肉食の跡が目に映った。その辺から話が狂う。馬牛や牛馬という言葉は慣用的な言い回しで、事実を疑わせる。貴重な動力である牛と馬を食べて、犬などの小動物の存在が抜け落ちているのは合理的でないのだ。
 
疑問はつづく。あめ売りは家の人に頼んで宿泊の承諾をえたように読める。その家が犯罪現場だとしたら、立ち入り禁止だろう。空家であるはずだ。そこに人間の肉の塊が残っているのは、普通の社会ではありえないことだ。


しかし、普通の平穏な状況ではないが、近所の人がそんな話を聞かせたのはショッキンクだ。あめ売りが見たのは錯覚でも幻覚でもない現実だということである。犯罪現場に寝泊りしたことになる。
 
長谷川屋政(いえまさ)は〈鬼神の住居〉〈餓鬼道〉と批判しながら、風説に対して〈不誠事なこと〉と留保的な言葉を入れた。真らしくないこと、という意味だろう。流言や伝聞を懐疑的に受け取るのは、現地の利益のためにも良識な態度である。


三戸の悲惨なストーリーは大館でどんな効果を引き起こしたか 
こういう異常なストーリーは脳の働きを悪くして、知性と感性が変調を起こすにちがいない。第一、あめ売りがそうである。
平静に考えることができる人は、こういう疑惑に絡まる…南部藩は同情と食料を集めて秋田に伝染病を広めるのか?三戸の風説は人間どもの怖さを教えるためか?聞く人も餓鬼道の同類になりかねないと現世の暗黒に直面させるためか?支配階層の非人間性を悟らせるためか?
 
天明と天保の大飢饉を考えるとき、キリシタン問題を忘れるべきでない。幕府と藩は民衆と農民を救済しない。救済策らしい政策は表面的である。隠れキリシタンとその共感者や協力者を地獄に落とす目的があったら、救済しないのは当然だろう。


江戸時代のあめ売りは映画とTVドラマによく出て、平和な社会のイメージを描いていた。あめ売りが街の中で歌うシーンを想い出す人も少なくないだろう。旧幕府勢力と仏教のひそかな戦略にはまったことを知らないで金を払っていた馬鹿である。
 
人食いは案外多く小説と映画などの材料に使われて、強迫観念を植えつける。特に映像表現ではトラウマの原因になるので、リアリズムの残酷なシーンには否定的だ。
 
小説と映画、オペラになった人食い疑惑には、第2次世界大戦末期に冬の知床半島で起きた〈ひかりごけ事件〉がある。これも事実があいまいなストーリーで、悪いことに捜査資料が火事で灰になってしまったという。[1]
しかし、意識されない人間と社会の暗い実体を見せることが隠れたテーマだろう。

               福士川 沢小路 花輪の街の理解できない風景

*年代豊凶録;  藩主の巡検のために〈少なからず金がかかった〉




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Filming;2019.6.29 JR花輪線 鹿角花輪駅前


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年代豊凶録
天保4年 1833 
御給分御収納米を残りなく引き上げること、蔵人に仰せ付けられたので、諸士は一日一人35(しゃく)の積もりで、御蔵出し米で家口(かこう)に応じ、お渡しした。百姓町人は一日25勺の扶持米で、有無相通じるように御直書で指示している趣なので、村々より家別家口を取り調べ、飯米の過不帳を差し上げたが、12月中御小人差し引き役貝塚順吉が御手付きを大勢召し連れて村々を回り、村々の家の蔵を取り調べた。この頃、隔し米などをして重い無調法を仰せ付けられたものもいる。
 
右の通りの不順気で大飢饉になり、上も下もまことに潮が湧くように人道の大変はこの上もないと申し上げる。小間居や端々のものは食いものがないので、はしかぬか、わらのふくの粉、蕎麦からの粉、根葛、野老(ところ)、葡萄の葉、よもぎの葉、松の皮、桑の木の葉、かどふの根、みきな、かたくりの葉、すべて木の葉にかぎらず毒がないものは何でも食う。筆に尽くしがたい詳しいことは天保記にある。右の草木も雪が降って取ることができなくなり、年内より飢民は牛馬の肉を食らって、まことにおそろしいことである。
 
凶作の青立ち稲からむしはやるべきでない。籾にやるというので、釜で酒ふかしのようにふかし、干して、すり臼でひいても砕けない。からうむしの稲をすり臼にかければ、みな粉になり用にたたない。天・人・口・ホ・四、天保四年の字である。

                            [現代風に書きあらためた。]

飢饉が続く佐竹藩では、藩主が蔵の管理者に直々指図して、家臣に支給した米や藩の収納米から余分のないように差し引く対策を取った。家臣は家族の人数に応じて減らした米を藩に返した。ぎりぎりの耐乏生活の強制である。百姓町人は過不足の状態を記した帳面を差し出したが、信用されなかったのか、12月に役人が村々を回り、家々の蔵を取り調べた。米を隠して、過失をとがめられた人もいた。
 
独特の用語と文章法に困惑させられる。
 
適当に漢字の意味を拾っていると、〈御小人差し引き〉にはショックを受ける。米などを納められない家からは不足分として子どもを差し引いて連れて行くらしい。小人には〈幼少の子〉と〈武家で雑用に使われた身分の低い人〉という意味があるが、やはり近代以前の悪習を想い出させる。子どもの売買である。確実なことを言えば、子どもは鉱山の労働力として使われただろう。
 
差し引いて集めた米をどうするか、明らかでない。大阪で換金するのか [1]
 
天候が悪く、大飢饉になり、上の人も下の人も〈人道の大変〉を話した。人の道の大変化とは、生活と世間の異常さだけを言うのか 
 
底辺の人々は食べものがないので、葡萄の葉やよもぎの葉、松の皮など何でも食べたという。これはあまりにも非現実的な食いものである。メニューに出そうな栗や柿などの果物、いも類はない。食べつくしたのか ?もっと不思議なのは、魚、鳥、小動物、熊が出ないことである。仏教の戒律がきびしく禁じていたのか 
 
しかし、雪が降る季節になると、飢えた民衆は牛と馬の肉を食べたという。北秋田地方にそんなに牛と馬がいたことにおどろく。民間では農耕用と山仕事用に飼われていたかもしれない。
 
凶作の青立ちとは、稲が実をつけないで青く立っていること。からむしは昔植物繊維を取って布を織った原料の植物のことらしい。青立ち稲からむしは、凶作の稲を何とか利用しようとしても、何もならないという意味か 
 
最後に天保四年の漢字を分節するのは、それに予言か予告を見ようして、だろう。
 
天・人・口・ホ[]・四[]
 
天が食物を保たないのだから、嫌味な元号である。しかし、天保は縁起のいい元号になかなか代えられない。《天保凶飢見聞記》の凶飢が狂気の意味に思える。
 
天保の大飢饉は、地方によって期間が異なるが、通説では1833(天保4)年から1839(天保10)年まで延々とつづく。その影響は、危機的でない地方にも必然的に広がった。
 
 






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Filming; 2018.11.3 二ツ井町 道の駅




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年代豊凶録
天保4年 1833
523日より雨が少し降り、畑植えものをした。63日昼より大雨、4日より6日まで大洪水。寛政10年同然で、樋橋が無残に外れて、田畑一円が水にもぐった。関筋と川前で川欠けが数か所あり、御上様は御苦柄になった。
 
夏土用になり、毎日雨が降り、冷気になり、綿入れを着た。天明の夏と同じであるという。老人の話し合いにあった。
 
616日大洪水。樋橋が外れた。東風が吹き続き、雨が降り荒れたので、米の値段も日々増し上がり…[]
 
628日朝、露か霜のようで、水たまりに薄く氷が張り、人の息が見えた。こういう冷気は昔から聞いたことがない。7月になると、稲虫が生じて、小糠を降りかけたように田の表面が見えなくなった。
 
79日市で米110貫文、22日米内沢市で10500文、27日鷹巣市で11200文になり、上も下も薄氷を踏むようだ。[]
 
秋の彼岸になったが、稲の穂が出ない。
 
8145日ごろより津軽から百姓乞食が引っ越してきて、駅路は言うまでもなく、在郷にも大勢入り込んだ。天明の飢饉以来このようなことは聞いたことがない。後日引越しの人数およそ3000人と知らされた。
[現代風に書きあらためた。]
 
517日から七座天神宮で雨乞いしたら、雨が降ったのはいいが、大雨が降り続いて大洪水を引き起こした。樋橋というのは、宙に浮かんだ水路の橋のことである。現代はコンクリート製だが、当時は板の水路と木の橋脚なので、洪水の圧力には脆弱である。
 
関筋は、かんがい堰の辺りという意味だろう。川前とは何か、明らかでない。川欠けは、堤防の決壊のことらしい。将軍が苦悩したのは、想像を超える被害だったからだろう。
 
7月後半から気象は険悪に変化した。雨と冷気。天明の大飢饉の夏のように人々は綿入れを着た。17才の屋政(いえまさ)は、その話を老人たちから聞いた。
 
616日ふたたび大洪水に見舞われた。米の値段が上がりだした。〈上も下も薄氷を踏むようだ〉という表現は、異常な寒さに引っかけた諧謔である。
 
稲の穂が出ない秋の彼岸。津軽から引っ越してきた百姓乞食の姿が目立ちはじめた。駅路は羽州街道のことで、その周辺地域の村々を在郷と言っていたようだ。田舎では〈じゃんご〉と発音する。
 
この大飢饉の地獄絵巻は《天保凶飢見聞録》に記録されている。翻刻校注者の松橋栄信によれば、祖父長谷川貞顕の協力で屋政が記したようだ。引退した貞顕の個性のように思えるのは、角館村の騒動の記述である。これは事件の現場にいるような映像的な迫力を感じさせる。同時に、フランスの詩人ルイ・ベルトラン(Louis Bertrand)の詩集〈夜のガスパール Gaspard de lanuit〉を想い出させる散文詩の深みがある。これは20才前の屋政には無理だろう。
 
 
 
 



Filming;2010.4.16 北秋田市 綴子集落


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年代豊凶録
天保4年 1833
正月元日、日輪が二つ出る。
 
当村で3145日ころ種蒔きした。脇村では八十八や()以前に蒔いたという。八十八夜前後大風が吹いたために冴え返り、近年覚えがないほど苗が薄くなったので、田植えも日延べになった。今年は全体に苗不足である。
 
429日、田植えした。
 
422日より522日まで30日間大旱魃で、大川掛り、小沢掛り、堤掛りは言うまでもなく、水が非常に不足した。雨乞いがどこでも数多く行なわれた。[1]
 
534日の夜、甘露が降る。17日より七座天神宮で五穀成就のため郡方から命じられて、大般若のご祈祷があるという。
 
元旦に太陽が二つ出たというのは、異常気象による光学現象だろう。屋政(いえまさ)は祖父長谷川貞顕の跡を継いで、まず天保の大飢饉の兆から書いた。
 
太田新田(しんでん)村は栄村とも言われたが、年代と区域は明白でない。大館の長谷川家は、そこの本家の別家から分かれた。戦後は、北秋田市になるまで鷹巣町太田で、ふだん何と呼んでいたか、と言えば、〈オダ〉である。よくあるように〈オダ〉と太田(オオタ)は第三者には結びつかない。疑問を感じて悩まされた記憶があるが、自由に想像できるときもあるので、織田一族とのつながりが見えた。数年前、《信長公記》を読むと、本能寺の変の前あたりから信長の忠臣に長谷川与次と子の秀一(ひでかず)がいた。秀一は本能寺の変のとき、徳川家康らを案内して大坂と堺などの見物をしていたが、無事に家康と脱出した。《信長公記》は、それが最終章である。年代豊凶録はその延長のようだ。これは長谷川貞顕の歴史認識による構想かもしれない。
 
村のもみ蒔きについて書きとめるが、そこではじめて八十八夜という言葉が出る。キリシタンが使いはじめた西洋の太陽暦を基にして立春から88日目。新暦の52日、3日に当たる。南の地方でも北国でも、八十八夜を基準として信用したとは思えないが、とにかく北秋田の農業はそれを取り入れた。幕府や佐竹藩の指導か 
 
八十八夜に科学的な根拠があるわけがない。その数字が選ばれたのは宗教的な動機からだろう。四国遍路の八十八か所は弘法大師(空海)ゆかりの霊場である。八十八という数字については、〈長谷川歌野という名前から思うこと〉で考察したので、それを参照してほしい。
 
不運なことに、30日間乾いた天気で水が不足した。米代川と支流の小さい沢、かんがい用水池の水のネットワークが機能しなくなった。小繋の七座天神宮では般若経の祈祷で雨乞いした。
 








日本水文科学会誌 第46 : 江戸中期に六郷扇状地で築造された「堤」の目的と役割に関する水文学的検証―地下水人工涵養の機能を中心に―肥田登
 


Filming;2007.11.10 七座神社


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年代豊凶録
天明3年 1783
夏の7月半ばから8月はじめにかけて東風が吹き、綿入れを着て焚き火にあたった。秋になったが、稲が一向に実らない。皆無同然で、大飢饉で、10月になって新穀8〆文だった。そんな凶作なので、隣りの国津軽はとりわけ皆無で、秋から乞食非人がおびただしく引っ越して村々に数多く入り込んだ。まことに身の毛もよだって、恐ろしいことである。
 
今年、関東では砂が降った。大飢饉。
 
天明4年 1784
去年の秋中は非常な大飢饉になり、老若男女の区別なく乞食非人になり、村々町々に流浪して、食いものを奪い取り、強引にむしり取り合い、幼子を淵や川に投げ捨て、道路に伏し転び、あるいは飢えて盗みを働き、捕らえられるものもいた。まことに親子、兄弟、夫婦、朋友の区別もなく、そのうえ夏に疫病が大流行して村ごと家ごと病死人がおびただしく、他の乞食非人や餓死病死の死骸は道路にあふれた。[]
去年は凶作で大勢の餓死人が道路に出たとはいえ、その多くは他の国のもので、当国のものは格別餓死人がなかったという。ただ夏の疫病で病死人が多くあった。今年は当国の米がたくさんあるので、よろしい。他の国にも米を送って、駅筋はそれでかなり助かった。[]
 
天明四辰の秋、幾年にもない上々作。
天明四年百性処辰の年(テンメイシネンヒャクショウトコロタツのトシ)
 
[現代風に書きあらためた。]
☆佐藤貞顕が長谷川家の婿養子になる前の年、17才のとき大飢饉が起きた。夏でも寒く、稲が実らない。これは3月津軽の岩木山の噴火で火山灰が空を蔽い、農作物に被害をあたえたからだと言われている。津軽地方では藩の人口の半分近くが死んだり逃亡したという。南隣りの秋田に越えて来た人たちはどうなったか 
 
それは天明4年の記事に長谷川貞顕が想い出して書いている。信じがたいことだが、飢えと疫病で地獄絵巻のようだ。なぜ幼子を川などに投げ捨てるのか、不思議だ。〈乞食非人や餓死病死の死骸は道路にあふれた〉というのが事実なら、秋田の人たちは何の援助もしなかったのか ?特に死骸を放置したことは伝染病流行の原因になったと思われる。これは予想できた事態だが、住民に自主的な難民援助活動が許されなかったのではないか?住民のおそろしい迷惑は、飢饉の政治的な悪用の目的だったかもしれない。地獄絵巻は仏教に由来する。
 
とはいえ、2度目の〈去年〉の話まで津軽と秋田が混ざり合っている。国境がない。北秋田地方の住民の餓死人は多くなかったというのを読んで、そうだったか、と真実が分かる。なぜ津軽と秋田を錯覚させるような書き方をしたのか 、ミステリーだ。
 
4年、秋田は上々作だったので、他国おそらく津軽に救援の米を送る余裕があった。北秋田地方の被害は夏の疫病で病死人が多く出ただけだ。しかし、太田新田()村の長谷川家では家族の5人が次々と死んだが、それについては一言も語られていない。〈親子、兄弟、夫婦、朋友の区別もなく〉〈村ごと家ごと病死人がおびただしく〉とあるので、なおさら奇妙だ。検閲を恐れたとしたら、普通の病死ではないかもしれない。
 
三宅教授が公表した論文で死んだ日付が明らかなのは、三人だけである。[1]
4代目屋武(いえたけ) 天明四年甲辰(1784)七月十二日 死去 行年六十六歳
   妻 今泉村武田利兵衛女() 六月二十三日 死去
5代目屋治(いえはる)  七月二十一日 死去 行年四十一歳
〈十二〉と〈二十一〉はミラー・イメージである。
 
〈天明四年百性処辰の年(テンメイシネンヒャクショウトコロタツのトシ) 〉が何か暗示しているように思える。天明は天命に、四年は死年に通じる。〈トコロタツ〉は〈所を立つ〉という不吉な意味に取れる。そうだじゃれ的に読ませる必然性があったのだろう。これは天明3年の地獄絵巻を1年後の記事にずらして津軽と秋田を混ぜ合わせて書いた理由を明らかにする。疑惑を浮かび上がらせて事実の異常さを伝えるためである。
 
長谷川貞顕は、麦原尺長の名で多義的な狂歌を詠む文人でもある。この記事では小説的なテクニックを見せている。奥が深いな、とあらためて思う。
 
去年という話し言葉は、若いころから会話でも文章でもぼくが気に入っている言葉だが、思いがけない出来事で祖先との記憶のリンクを見た。無意識のリンクと言ってもいい。これは長谷川一族の遺伝子の証明だろう。何か特別な意味を感じさせる〈去年〉である。
 
 
 
 
 
1 安藤昌益の地域と時代 別編9 比内文化の伝統 ;
   愛知教育大学教授 日本思想史 三宅正彦
北鹿新聞 連載 1993
 
 
Filming; 2016.8.25 平川 碇ヶ関 
          松原橋から道の駅と関所記念建築物をながめる
 
 

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