ヨネシロ・ペイパーズ

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1
 
年代豊凶録
天保3年 1832
今年、天徳寺様が大館玉林寺に来て、授戒した。
 
御上様から村々へ御救い米を下されたので、ありがたい助命である。明春はどうするべきか 、万一明年も不作になるなら、上下に関係なく皆餓死する他ないと思う。
 
12月になって、世の中全体が何と何ともの騒がしくなり、あちこちで狼藉、夜盗、追いはぎ、などがよくあるという。能代の長慶寺小路というところの町家に夜盗が入り込んで、怪我人と死人が23人あったという。恐ろしいことである。
 
[現代風に書きあらためた。]
☆何月か書いていないが、曹洞宗の天徳寺の坊さんが久保田(秋田市)から大館に来て、玉林(ぎょくりん)寺で信者などに戒律を授けた。天徳寺は佐竹家の菩提寺である。この種の記録は他にない。どういう戒律か、分からないが、それを授けるのは特別なことだろう。飢饉と関係があるのか?
 
徳川幕府は村々に救援の米を配給した。〈ありがたい助命〉だが、村から米を取ったのは幕府と佐竹藩であることを一言言わなければいけない。食糧難の危機感は、信じがたいほど強い。しかし、裕福な村人と貧民の区別なく餓死のおそれがあると思うのは、来年の天気に不安を感じるからだけではないだろう。幕府と仏教の動きに異常な何かを見たからではないか 
 
年の暮れに世の中が全体的に騒々しくなった。こういう犯罪の記述も過去にはない。
 
長慶寺がそこに出るのは意味ありげである。これも曹洞宗の寺だが、平安時代の貞観(じょうがん)4年(862)白神山地の西、田代の長慶金山のふもとに創建されたという[1]。長慶天皇が開発したという伝説のある幻の金山。栄村の東、米代川に流れいる早口川の源流にある。
 
南北朝の歴史を知る人は、はっとさせられる。長慶天皇と言えば、鎌倉幕府を滅ぼして天皇親政の復活させた大覚寺統の後醍醐天皇の孫である。南北朝時代の第98代天皇、南朝の第3代天皇(在位 正平23/応安元年(1368年) 3--弘和3/永徳3年(1383年)冬)[1] しかし、大正15年に詔書で天皇に位置づけられるまで在位が疑わしい天皇と見なされていた。
 
それで疑問が浮かぶ。長谷川貞顕はなぜ長慶寺小路の事件について簡略ながら事実を書きとめたか 
1王政復古の活動に対する警告のために幕府が起こした事件と思った。
2幕府側の天徳寺と対比させて、天皇親政の運命的な表れと意味づけた。
3長慶金山にかかわる不吉な予告ではないか、と想像した。
 
〈恐ろしいこと〉だと嘆いたとおり、そのあと12月、阿仁銀山の米蔵が焼ける変事が起きる。
 
長慶寺小路の事件は天明4(1784)年の悲劇を想い出させたにちがいない。栄村の長谷川家の隠居4代目屋武(いえたけ)夫婦と長男伊助、5代目屋治(いえはる)と長男伊八郎が7月次々と死んだ。天明の大飢饉の年だが、死因については文献資料にない。屋治の妻が一人残り、貞顕が綴子村佐藤家(惚右衛門の次男)から婿養子になる。貞顕という名前は長谷川家6代目を継承する前からの名前である。
 
 
 
 
 
1 wikipedia
 
 
Filming; 2016.6.14 支流薄市沢川 薄市沢橋
 
 

List-関連記事一覧

 
 
 
 
*大館市役所西側本庁舎を保存しよう
 
*水源シリーズ
*環境の危機
*歴史遺産の保存
 
*今日のリンク
 
---リヴァー・ポートだより---
 
        広告募集
 
 
イメージ 2
 
Filming; 2016.6.14 支流薄市沢川 本流との合流地点前
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

イメージ 1
年代豊凶録
天保3年 1832
今年は夏中雨が降りつづき、一向に暖かくなく、7月になっても、出穂が見えない。[] 御毛見の予定日を延ばしてもらうように願い出たが、8月末に内々の毛見があり、御扱い様は毛付け帳の作成が遅いという理由で組合肝煎り中を叱りつけた。
 
925日御毛見御検地役様が来て、御毛見御見分が済んだ。今年はまことに文化年中の3年つづきの凶作と同じである。[]近在に米がなく、湊から仙北米が来てタカノスの市に出して売買するようになった。
[現代風に書きあらためた。]
 
☆阿仁銀山の火事の前どんな状況だったか ?記事には夏中雨が降り気温が低く、稲の穂が出ないと深刻な様子が記されている。毛見(けみ)とは、幕府や領主が米の収穫量を収穫前に検査してその年の年貢額を定めることであるという。[1]
 
栄村はその延期を要望したが、8月末に非公式の検査が行なわれた。扱い係の役人は毛付け帳の作成が遅いことに文句をつけた。毛付け帳とは何か明らかでない。村の収穫予想記録か ?〈組合肝煎り中〉も分かりにくいが、複数の関係者のことかもしれない。
 
ともあれ、佐竹藩が叱りつけたという事実は他にない。財政難という背景があるにしても、その無情さには少しびっくりさせられる。
 
天保3年は文化の3年連続の凶作と同じ結果になった。北秋田地方に米がないというのは、信じがたいことだが、大げさではないだろう。その年、森吉山の南の地域は幸運に恵まれていたので、カタストロフは地獄の入口で止まった。
 
湊は土崎湊のことである。
 
今日は明治生まれの祖父長谷川喜之助の命日。
1960123065歳で〈老衰〉で亡くなった。
 
 
長谷川一族の風景
 
 
1 大辞林
 
 
Filming; 2016.12.27 大館橋
 
 

List-関連記事一覧

 
 
 
 
*大館市役所西側本庁舎を保存しよう
 
*水源シリーズ
*環境の危機
*歴史遺産の保存
 
*今日のリンク
 
---リヴァー・ポートだより---
 
        広告募集
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

イメージ 1
 
年代豊凶録
天保2年 1831
今年は御検地様並びに見回り様が両方とも入れ替わり入れ替わり来て、長々と逗留する。委細は郷中帳面にある。
 
 [現代風に書きあらためた。]
☆夏から雨の日が多くて秋作を心配したが、日和がつづいて相応の収穫があった。しかし、そのあと、佐竹藩の検地と見回りが何度も行なわれたことを一言書きとめる。藩主佐竹義厚のお祭りのような巡検が8月あったが、検地と見回りとなれば、支配者の最重要な行為で農民が恐れることである。
 
検地とは、藩主が収穫に応じて年貢を取るために所在地や土地の種類、面積、等級、耕作者などを調べることであるという[1]。明治政府はそれを廃止して地価に課税した[2]
 
見回りとは、様を付けているから、警察機関による見回りだろう。秋田城下から来て、栄村か近在の村の宿に泊まるようだ。
 
〈長々と逗留〉という表現には、迷惑を感じているニュアンスがある。役人たちが必要以上に滞在するように見えたのだろう。なぜか、と疑問に思うことがあったのかもしれない。宿代は村が払うなら、明らかにおもしろくないことだ。
 
その時期の佐竹藩は、蝦夷地警備などで財政悪化に悩んでいた。検地の目的は隠しようがない。しかし、見回りの目的は何か ?隠れキリシタンを警戒していたのではないか 
 
 
 
 
1 防府歴史用語辞典 
2 Weblio辞書

 
 
Filming; 2016.7.22 種梅川 米代川との合流地点 
                     大川口1号橋から二ツ井の町をながめる
 
 
 

List-関連記事一覧

 
平川のページ new 
 
 
 
*大館市役所西側本庁舎を保存しよう
 
*水源シリーズ
*環境の危機
*歴史遺産の保存
 
*今日のリンク
 
---リヴァー・ポートだより---
 
        広告募集
 

 
 
 
 
 
 

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

イメージ 1
 
年代豊凶録
天保2年 1831
今年は卯年である。屋形様が御渡野をすると言われて、道と橋の手入れを厳重に命令された。栄村でも坦丁場と坦橋の手入れ普請に少なからず金がかかった。
 
82日、屋形様が鷹巣村に宿泊した。翌日大館町へ御通行した。
[現代風に書きあらためた。]
 
☆徳川家康は、秋田を支配していた安東秋田家の実季(さねすえ)を常陸の宍戸に強制的に移した。佐竹家は秋田の統治のために代わりに常陸から来たが、秋田の住民は従順に受け入れたか?歴史テキストでは空白である。少なくとも憲法のようなルールを決めて新しい政治権力を承認したわけではない。こういうプロセスは民主主義社会に生まれ育った人間には不思議である。遠慮なく言えば、これは武力と暴力を背景にした一方的な専制政治(autocracy)である。
 
5月、天の恵みである不老不死の甘い露が降ったという記事のあとにあるから、6月の出来事かもしれない。あえて卯年と書き記したことに特別な意味があるか、分からない。常識ではウサギは縁起のいい動物である。
 
屋形様は第10代藩主佐竹義厚(よしひろ)である。屋形はたぶん館(やかた)が起源だろう。
 
御渡野(おわたりの)とは藩主の巡検を言う。これはめずらしいことで、〈地域あげての一大行事〉だった。長崎七左衛門の〈御渡野御用日記〉によれば、文化6年(1809年)9月第9代藩主義和が鷹巣の七日市村に来たときは、総勢300人以上を引き連れていた。宿と食事、橋と建物などの整備、案内人の衣装など費用は村が負担しなければならなかった。長崎村長は細かい規定どおりに準備させられた。[1]
 
しかし、公式的には御渡野は町と村の栄誉であるらしい。確かに凶作で苦しむ地域にはできないことである。
 
栄村でも道と橋の整備を命令された。坦丁場とは村が整備と清掃などを担当する区域のことで、道路と橋の補修や新設も村の負担にされた[1,2]。佐竹藩が勝手に定めた制度である。それについて村長長谷川貞顕は、ほとんど事実を記録しないで、公共事業に〈少なからず金がかかった〉と佐竹藩と幕府を暗に批判している。
 
 
List 2 有栖川宮の歴史;アリスと有栖川宮 z
 
1 秋田県のがんばる農山漁村応援サイト
参考文献:
小猿部物語(Ⅰ)殿様の巻
御渡野御用日記 長崎七左衛門(秋田県公文書館蔵)
おさるべ元気くらぶパンフレット『おさるべかだるべ』
2 大館市二井田 一関家文書
 
 
Filming; 2016.5.3 きみまち阪 琴音橋
 
 

List-関連記事一覧

 
平川のページ new 
 
 
 
*大館市役所西側本庁舎を保存しよう
 
*水源シリーズ
*環境の危機
*歴史遺産の保存
 
*今日のリンク
 
---リヴァー・ポートだより---
 
        広告募集
 
 

 

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

イメージ 1
 
年代豊凶録
嘉永5年 1852 
613
この間雨は降らないといっても、何とも冷気である。今朝から昼ごろまで北風吹き、冷気が強い。今日南の方から夕立雷鳴があり、森吉山から小麻当二タガ森通りへかけて龍が下り、諸人がそれを見て非常に驚く。麻当山李岱長根に登山の草刈、仮戸(けと)の辺りに落雷があった。栄村の草刈の若者勢どもが非常に動転したという。その人たちのうち久左衛門内仁助は、電気を得たらしく悶絶した。ややしばらくさらに人心地なく、同宿の若勢どもがあれこれ介抱したら、少しずつ蘇生したという。そうであるが、身体は別に異状がない。
[]
[現代風に書きあらためた。]
麻当(まとう)山に稲妻と雷があった。栄村の東南東約5kmにある山に約25km南の森吉山から。この自然現象は毎年見るが、びっくりするほどすごい稲妻と雷だったのだろう。不運にも草刈りに出かけた村人が一人感電して倒れた。それを記録報告のように詳しく書いている。
 
まさか、と思うのは〈電気〉という近代的な単語を見ることである。江戸時代にそれを知っていて、自然現象の稲妻と雷を科学的に理解しているとは ?しかし、歴史に明るい人は平賀源内のエレキテルという静電気発生装置を想いうかべるにちがいない。彼は秋田に来て鉱山技術などを教えたから、電気という言葉も伝わっただろう。幕末には西洋の電気を知る人は少なくなかった。しかし、長谷川屋政(いえまさ)はただ知識だけ持っていたのか ペリー提督の黒船艦隊が浦賀に来たとき、年代記には蒸気船の記事が出て、蒸気機関について書いている。森吉山のふもとにある阿仁鉱山などで電気を利用するプランが思案された可能性はないか?
 
エレキテルはオランダ渡来で、源内は中古品を復元して江戸で見世物に利用したという[1]。ハンドルを回せば、箱の内側に小さい稲妻(放電現象)が現われるから、おもしろがられただろう。TV番組で18世紀末のエレキテル・ショーの再現を見たことがある。
 
年代記を読んで、江戸時代に一般化したガラス製品の風鈴と金魚鉢などが想いうかんだ。ガラス製品の製造と鉱山は縁が深い。金魚鉢と小さい稲妻の組み合わせは電球のイメージに変わった。
 
鉱山の採掘所で坑道の内部の照明に金魚鉢と小さい稲妻を利用することを誰も考えなかったか 
 
よくあるように事実は反対だろう。鉱山で電球のような照明装置を発明したから、技術の流用でガラスの風鈴や金魚鉢が民衆の生活に広がったと考えるべきだ。
 
しかし、その照明装置はガラスの密閉空間でなければ、ガスに引火するおそれがある。
 
情報公開がない時代だったので、明治の文明開化の前に鉱山の坑道でどんな照明を使用していたか、明らかでない。幕末の1951年薩摩藩が集成館工場に水力発電所を完成させたという文献資料があるが、その電気は鉱山で電球を光り輝かせるために利用されたかもしれない。国際社会ではそのころ電球の研究と実験が行なわれていた。白熱電球を1960年までに完成したのはイギリスのジョゼフ・スワン(J.Swan)だった。[1]
 
 
829日北秋田市文化会館でわらび座の演劇《げんない》が上演された。万能人の平賀源内はNHKでもドラマになったことがあるが、徳川幕府の封建主義的鎖国政策の犠牲であるだけでなく、作者の自分勝手な想像の犠牲だった。わらび座の芝居も、パンフレットを読むと、作者兼演出の横内謙介が歴史の真実を伝えようとしていない。歴史も犠牲にされている。
 
エレキテルは何の役にも立たなかったと思うのは、科学的思考に対する偏見だろう。源内を馬鹿呼ばわりする右翼的な固定観念を否定しないで、商業的におもしろおかしい芝居に仕立てれば、主人公のアイデンティティを壊すことになる。それに協力した北秋田市は責任の自覚がない。
 
歴史の研究は進んでいる。新しい考え方が世界と日本の過去の真実を闇から浮かび上がらせて再現しようとしている。これは、21世紀の世界をどう生きるか、というテーマを意識したリアリズムだから、できたことである。
 
 
平賀源内について
有栖川宮とアリス;  i朝廷の反撃
 
List 8 歴史 大館と米代川流域; 大館橋の12のバルコニーと12本の街灯
 
 
1 wikipedia
 

 
 
Filming; 2014.4.27 琴音橋 きみまち阪 加護山製錬所跡
 
 
 

List-関連記事一覧

 
平川のページ new 
 
 
 
*大館市役所西側本庁舎を保存しよう
 
*水源シリーズ
*環境の危機
*歴史遺産の保存
 
*今日のリンク
 
---リヴァー・ポートだより---
 
        広告募集
 
 
 
 

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事