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母の里は四国香川県の綾歌郡である。
今は名前が変わっているようだが、母が死して既に14年、無性にその里を訪ねて見たくなった。
既に母の里も代替わりし知り合いも居ないのだが、
その昔と云っても私が小学校二年生の頃その小学校にお世話になった。
尤も中学の頃にももう一度お世話になっているが、当時は小学校も中学も同じ場所にあった。
今は中学は別になっているようだが、今や懐かしい思い出である。
が目的はもう一つある。
歴史好きの私、あの満濃池のすぐ近く、と言えばかの弘法大師空海の出身地である。
讃岐佐伯氏の出処とも言われ、佐伯氏は国家守護の役目を受け持ち大伴氏の家来とも言われる。
その空海が作ったひときわ大きな池。
大体香川県には大きな川が無い。従って農業をするにはどうしても水瓶の様な池が必要になる。
その中で満濃池は特別大きいが、その他にも大小合わせて無数の池がある。
母の里は予讃線で端岡と言われる駅がある。
その近くだ。既に70年以上前の話だが、まだ日本はあの戦争の最中、
母の里のすぐ前を四国往還と云う細い道が通っていた。
昔はれっきとした讃岐往還という国の正式道路であった。
今では高松のベッドタウンとなりすっかり昔の面影はないが、
当時は戦争末期、その50メートル程先に幅10メートル程のまっすぐした道路を作っていた。
それは何と飛行機の滑走路を作っていたと云われる。
今はそれが国道11号線になっている。
戦争末期既に制空権を無くしていた日本軍、
殆ど毎日アメリカのグラマンが飛んできてその出来具合を偵察に来ていた。
それは低くパイロットの白いマフラーが見えるほどの低さで、
ただ決して機銃掃射はしない。ただ偵察しているだけだった。
そんな懐かしい思い出も蘇ってくる。
今ではすっかり高松のベッドタウンとなり変わり果ててしまっている。
さて肝心の母の里だが、北側に通称犬の尻山、正式には白峰山と云う全く犬のお尻の様な形をした山があった。
その山の向こう側、今では五色台と云う名前がついているらしいが、
その中腹に無念の思いを満腹に抱いて憤死した第75代崇徳天皇を祀った寺がある。
名を白峰寺と云う、あの有名な保元の乱で敗れ、四国に流された悲運の天皇崇徳天皇の陵がある。
崇徳天皇の後ろ盾は白河法皇である。
鳥羽上皇の第一子として生まれたことになっているが、
実際はその白河法皇が本当の父ではないかとささやかれている。
母の待賢門院障子(じゅけんもんいんしょうし)が鳥羽天皇の中宮として入内する前、
白川法皇の寵愛を受けていたそしてその後もその障子の元に通っている。
それが白河法皇の子供ではないかと言われる所以である。
でも白河法皇が生きている間は良かった。
がその死とともに運命は暗転する。
後継争いは熾烈を極める。
彼の大天狗と揶揄された後白河天皇が崇徳天皇を排除する。
折から天皇家を補佐する藤原摂関家でも後継の争いが起きる。
前関白藤原忠実(ただざね)は長子忠通(ただみち)より末っ子の頼長(よりなが)を寵愛し、摂政関白の地位につけてしまった。
後に云われる悪左府頼長である。
頼長はかの有名な宇治平等院を建立したことで有名な摂政だが、
しかし悪智慧に関しても有名な男である。
何しろ悪左府とあだ名がつく程。
尤も当時の悪は偉大だとか優れていると云う意味もあるが、
それが崇徳天皇側に付く。
そして忠通も頼長も競って天皇家にわが娘を入内させようと競争させるように入れる。
その娘に子供が出来れば天皇家の外祖父としての地位につける。
このようにしてあの保元の乱ははじまる。
要するに天皇家の後継争いの果てに始まったようなもの。
その争いの最中悪左府頼長は敵の矢に当たってあえなく戦死する。
もうこうなると崇徳天皇を擁護する後ろ盾は無くなる。
かくて四国讃岐の白峰山に流される。
そして都への帰還を何度も願い出る。
最期は自分の手を切り、その血で歎願書を書き都に送る。
しかしその歎願書は海の底に投げ捨てられ、無視される。
以来すっかり気落ちした崇徳上皇は髪も伸ばし放題、爪も切らず、幽鬼の様な姿で都を恨み続ける。
そして恨みを残したまま讃岐の地で果ててしまう。
崇徳上皇は最後にそんな天皇家に恨みを書き残す。
「我は日本国の大魔王なり、皇を取って民と為し、民を皇となさん」と書いて恨みを書き残す。
その直後から崇徳天皇の怨霊が都に降りかかるように数々の事件が起きる。
都では崇徳天皇の怨霊が祟っているとおそれられ、大いにそれを静める祈祷をしたと云う。
今は国分寺町の中に組み込まれているが、その名の通り国分寺、端岡近辺は讃岐国分寺があり、国分尼寺跡がある。
つまり高松の街よりその国分寺町と言われる付近が讃岐の中心地だったようだ。
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古代の話
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一つの王朝が125代も続けば中にはおかしい天皇が出て来ても可笑しくはない。
第21代雄略天皇が大悪天皇と陰口されたのはよく知られているが、
第25代武烈天皇、勿論当時はまだ大王と言われていたが、
この天皇も大悪を越え、凶悪天皇と云っても良い程悪行を重ね、
自らの子孫も残さず消えてしまった。
お蔭で応神王朝が断絶したと云われる所以である。
しかし何も最初からこれ程凶悪な事をしたわけではない。
この天皇の父仁賢天皇はこの皇太子一人のしか子供を残さなかった。
そしてまだ皇太子であった頃、海拓榴市(つばいち)の歌垣の夜、
かねてからから思いを寄せていた物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の娘影媛(かげひめ)に言い寄った。
が好きな人には既に恋人がいた。
そして歌垣と言われる、今でいう合コンの様な場所、
海拓榴市(つばいち)と云う処で大恥を掻かせられたのだ。
武烈天皇がまだ皇太子の頃、どうしてもその影媛を娶りたいと思っていたが、既に影媛には通じた男がいた。
それは大臣(おおおみ)の平群真鳥(へぐりのまとり)の息子、平群鮪(へぐりのしび)であった。
当時大臣とは一つの独立した小王の様なもの、
最初から大王など馬鹿にして大王の云うことなどてんで聞かなかった。
舎人に平群の大臣の元に行かせ、太子よりの命令で官馬を出せと云う命令を伝えた。
が返事では誰のために官馬を用意いたしましょうか、
大王の命令のままにいたします、と答えたが一向に馬は差し出されない。
それでも天皇は我慢し、顔には出さなかった。
そしてまだ皇太子だった小泊瀬稚鷦鶉(おはつせのわかささぎ)と呼ばれていたころ、
すぐに大伴金村(おおとものかねむら)に相談し、武力を持って討伐してくれるよう頼んだ。
大伴家は昔から朝廷を武力で支える役目の豪族、のちの大伴家持の先祖である。
そして平群鮪、そしてその父平群真鳥も打ち取ってしまった。
それだけではない、平群一族をことごとく殺し殺してしまった。
そして遂に天皇の位につく。
途端に人が変わったように狂暴になる。
町で見かけた妊婦の腹を切り裂き赤子を掴みだす。
かと思うと人の生爪を剥がし、芋を掘らせる。
極めつけは若い娘を集め、目の前で馬の交合を見せる。
そして娘の性器が濡れていないかどうかを確かめ、濡れていればその場で殺してしまう。
まったく凶悪を通り超えたような乱行。
そして毎日酒宴を開き酔いつぶれる日を送っていた。
当然妃を迎えることもなく子供も残していない。
そして即位後8年にして崩御する。まったく凶悪な天皇であった。
彼の雄略天皇が大泊瀬と言われたが、
この武烈天皇の名も小泊瀬と名乗った。
どちらも最悪の天皇だったことは間違いない。
長年の天皇家の歴史の中にはこのような天皇も居たのである。
戦後何でも言えるようになり、天皇家の事も白日にさらされたが、
戦前は皇国史観と云う縛りの中でとてもこのようなことは云えなかった。
が天皇制がどれ程この国の危機を潜り抜けてきたか、
もし天皇と云う芯柱が無ければ国はとっくに滅びていたことだろう。
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恒々たり武王、厥(そ)の土を保有せり、と漢の武王に擬せられた第50代桓武天皇。
武王とは中国の周の時代を開いた皇帝。
正にその勇ましさは平安時代を開いた天皇にふさわしい名前であった。
しかしその名前とは裏腹にこれほど数々の怨霊に祟られ戦々恐々とした天皇も珍しい。
最初は殆ど天皇になれる目はなかった。
第46代と48代を務めた孝謙、称徳天皇で天武系の皇統が途絶え、
しかし後継者がいなかった訳ではない。
その天武系を天智系の天皇にひっくり返した藤原百川(ももかわ)、
良継(よしつぐ)等の策略によって強引に変えられてしまった。
正にあの不比等の思惑通り、天皇家を操る藤原一族によって翻弄されたた標本の様な人事。
もともと父親の光仁天皇にも天皇になれる目はほとんどなかった。
それも当時人生50歳と言われた時代、光仁天皇が即位したのは既に62歳になっていた。
とりあえずピンチヒッターと云うところだ。
そして陰湿な工作は始まる。
称徳天皇の異母姉、井上内親王(いのえのないしんのう)を光仁、いやまだ白壁王(しらかべのおおきみ)と言われていた時代。
その井上内親王を夫人にしていたことだ。
そして光仁天皇が即位し、井上(いのえ)の皇后と呼ばれるようになる。
その井上皇后には既に立派な皇子がいた。名を他戸親王(おさべのしんのう)と云う.それが後を継ぐ筈だった。
が藤原百川たちはその井上皇后に、天皇を呪詛したと難癖をつけ、引き摺り下ろしてしまう。
そして他戸親王ともども皇后の座から引き下ろし、幽閉してしまう。
まるで座敷牢に入れられたような幽閉、恨みを満身に残しながら二人は悶々の内に死んでしまう。
もともと桓武天皇は天智天皇の孫に当たり、しかも生母は高野新笠(たかのにいがさ)という百済系の帰化人だ。
光仁がまだ白壁王と言われた時代、多くの妻妾を抱えていた。
その中の一人。誠に位低き側女の一人、白壁王はどうせ天皇になれる目しないと、酒と女に溺れ現を抜かしていた。
かくて光仁天皇は死去し桓武天皇に座は回ってくる。
時に天応元年,西暦781年、遂に桓武天皇は即位する。
が既に37歳を過ぎていた。
父光仁は758年従三位に昇進しやっと公卿の仲間入りをする。
それほど位は低かったのだ。
桓武天皇は天皇として即位する前は山部王(やまべのおおきみ)と云われていた。
その母高野新笠はその昔和史乙継(やまとのふみおとつぎ)と土師宿禰真妹(はじのすくねのまいも)という名もない夫婦の娘だった。
話しは変わるが高野新笠の話は今上天皇がこの国にも半島の血が流れていると云われたことがある。
途端に日本の皇室には我々の血が流れていると朝鮮半島では鬼の首を取ったように大騒ぎした。
馬鹿を云うなこの国にはあらゆるところから血は流れ込んでいる。
もともとこの国の先祖を手繰れば今のアメリカ以上の多民族国家だ。
遠くユーラシア大陸を伝って流れ込んだ民族もある。
そしてモンゴルオロチョンから朝鮮半島伝いに流れ込んだ部族もある。
またシナントロプス・ペキネンシスの末裔もあの半島を伝い、又直接海を渡って流れ込んでいる。
まだ黒潮に乗って南の島から流れ着いた民族もいる。
朝鮮半島で人類が発生したわけではない。
それ等がまとまって今の大和民族を作ったのだ。
さて思わぬハプニングハブで天皇になった桓武天皇。
その分だけ多くの恨みを買っている。
その怨霊の強さから逃れるように300年続いた平安京を捨て遷都を始める。
まず光仁天皇は桓武の後は弟の早良親王(さわらのしんのう)に譲るよう遺言していた。
が百川、種継らはそれを反古にさせてしまった。
一方桓武天皇はそれらの怨霊から逃れるように、最初長岡京にその地を求めた。
しかし首謀者の種継が矢で首を射抜かれ暗殺されてしまう。
その犯人大伴家持の一族であったため、一族は遠く佐渡に流されてしまう。
大伴家持はその前に既に死していたが、、、
そして秦氏の進める平安京に再度遷都する。
しかし不幸は合い続いて起きる。
種継暗殺の犯人たちの中から桓武帝を排し、早良親王を擁しようとする動きがあったことを告白するものが現れた。
早速早良親王は乙訓寺(おとくにてら)に幽閉される。
そこで無実を訴えるが、かなわぬと見て自ら食を絶って自死してしまう。
まだまだ不幸は続く。
早良親王が憤死して三年目、桓武天皇の最も寵愛する夫人藤原旅子(たびし)がわずか30歳で死んでしまう。
後の淳和天皇の母だ。次にあの母高野新笠も死んでしまう。
続いて三カ月も経たないうちに皇后乙牟漏(おとむろ)が急死してしまう。
そんな頃この国の東北では蝦夷の反乱が相次ぐ。
最初の征夷代将軍には文屋綿麿(ふんやのわたまろ)が指名されるが、大した業績を開けられなかった。
そして何人かその役に任命されるがどれも功績を上げられなかった。
そして遂にあの有名な坂上田村麻呂が任命される。
そして数々の夷敵を攻略し、遂にその頭目阿弖流為(アテルイ)を説得し降伏させる。
そして都に連れ帰るが、都の官僚たちはアテルイの首を無残にもはねてしまう。
田村麻呂は落胆するが、その功績としてあの清水の地を貰い、清水寺を建てる。
かくのごとく内なる怨霊とも戦いつつ、この国の骨格を整えて行ったのだ。
そして新しい都に遷都しようと新御所を建設しようとした。
時に794年、それでも怨霊から逃れられぬと判断し、秦氏の進める山背(やましろ)の地に又しても遷都する。
それが現在も続いている天皇家の御所だ。
尤も明治維新により東京に移されてしまったが、かくて現在の首都は東京になってしまった。
かくのごとくこの国の骨格は定まっていった。
桓武朝は25年続くが最後まで悩みは尽きない。
悩みはまだまだ続く。二回の遷都によって農民は益々疲弊し、逃亡するものが絶えない。
明治維新までつづく平安京をひらいた天皇として名を残すが、次を継がせる安殿親王(あでのしんのう)些か正気ではない。
そして藤原薬子は自らの娘を安殿親王に嫁がせる。
それを理由に安殿親王に取り入り、娘を出汁にして親王そのものの妾となる。
それを桓武は鋭く叱る。
後の平城天皇の事だ。
だが桓武の死後それは現実になる。
悩み尽きない生涯だった。
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さてその不比等である。偉大な政治家と言われ、この国を、
未開の習慣法の国家から成文法の近代国家に築き上げた人物と讃えられる。
又その反面にこの国の皇室を乗っ取った大悪人とも呼ばれる。
そもそも藤原家の前は中臣氏と呼ばれていた。
中臣氏の元は天御中主尊(あめのみなかのぬしのみこと)と云われる。
それから12代目が鎌足だ。
別名鎌子とも呼ばれ、中大兄皇子と手を結び蘇我一族排除に協力した。
大化の改新を断行し歴史上の大人物と崇められた。
そしてその死に対して藤原姓の名前を与えられ、
藤原の土地は与えられ、大職官、内大臣、の地位まで送られた。
不比等はその鎌足の二男である。
不比等の誕生は斉明4年、(658年)の生まれ、白村江の戦いの五年程前の生まれである。
鎌足の長男定恵は不比等五歳の秋にこの国に帰ってくる。
勿論中国に勉強のためにだ。が帰国後すぐ死去する。
23歳の不思議な死だ。そして不比等が藤原の相続者になる。
そして20歳になり、初めて出仕する。最初の名前は中臣連史(なかとみのむらじふみと)と呼ばれる。
そして蘇我臣連子(そがのおみむらじこ)の女(むすめ)娼子(しょうし)と結婚する。
そして長男武智麻呂(むちまろ)が生まれる。
不比等14歳の頃天智天皇が崩御する。
そして彼の有名な壬申の乱がおきる。
そして弘文天皇は自死し、天武天皇が即位する。
そして天武7年、初めて出仕する。
そして房前(ふささき)が生まれる。がその娼子が死去してしまう。
そして加茂の君の女(むすめ)加茂比売(かもひめ)と再婚する。
そして長女宮子(きゅうし)が誕生し、
その宮子は長じて文部天皇夫人になり、次女長蛾子(ちょうがし)が生まれる。
長我子は長屋王(ながやのおおきみ)の夫人となる。
次に宇合(うまかい)が生まれる。
このころ氏長者藤原朝臣大嶋薨去、不比等が氏の長者になる。
そのころ美努王(みぬのおおきみ)の妻だった県犬養美千代(あがたのいぬかいのみちよ)と再婚する。
この年正三位大納言になる。
晴れて公卿入りだ。そして後に孝謙、称徳天皇となる安宿媛が生まれる。
犬養美千代との間に光明子(こうみょうし)が生まれる。
そのころ他の夫人五百重姫(いおえひめ)との間に麿呂(まろ)が生まれる。
そして41歳の時、藤原姓を名乗れるのは不比等一家のみ、あとはすべて元の中臣に戻るよう詔を出させる。
さて武智麻呂は南家と呼ばれ、房前は北家と呼ばれ、
宇合は式家とよばれ、麿呂は京家とよばれる。
この四人が不比等の思想を盤石に基盤を支える。
犬養美千代との間に生まれた光明子、のちに聖武天皇の皇后となる。
そもそも天武天皇の命令で皇后になれるのは皇室の出身者でなければならなかった。
それを強引に皇后に立てる。
加茂比売との間に生まれた宮子を文武天皇の夫人(ぶにん)に入れる。
そして娘の宮子に首皇子(おびとのおうじ)、が生まれる。
後の聖武天皇である。
つまり不比等はここで初めて天皇の外戚になるわけだ。
此処ではまだ皇后ではなく夫人の名前だが,その後娘の光明子を聖武天皇の皇后に入れる。
そして光明皇后と名乗らせる。
そこでこの功績をたたえて二階級特進する。
およそ臣下から皇后になったのは初めて、如何に不比等の威光が強かったか、
何人も不比等に逆らえないような権力を完成していた。
不比等には6人もの夫人がいた。
が最初の夫人昌子は武智麻呂と房前を生んで早死にし、
次に再婚したい加茂比売女(かもひめ)との間に宮子、文武天皇夫人を産み、
五百重姫の間には麿呂を生み、
県犬養美千代との間には光明子を残している。
その光明子が聖武天皇の皇后になる。
此処からこの国の歴史は大きく変わって行く。
その光明子は後の孝謙、称徳天皇になる安宿姫(あすかひめ)を生む。
つまり皇后になる資格の無い娘を強引に皇后に知るほど権力を掌握していたのだ。
不比等の専横はここに極まる。
長男の武智麻呂は後に正一位左大臣になり、次男房前も正一位左大臣になっている。
宇合も正三位太宰の師(そち)になっている。
そして麿呂は従三位、参議兵部卿時節大使として奥羽開発に務めた。
しかしその四兄弟が突然天平9年、(737年)同時に流行病にかかって急死する。
だが既にその子たちが既に政治の重要な役職についていた。
武智麻呂の次男仲麻呂は孝謙天皇のお気に入りで引き立てられ、
恵美押勝の名前を与えられ、後に道鏡が出てきて仲麻呂は失脚するが、
一番栄えた北家の房前は枝を隅々まで伸ばし、この国の基盤を盤石にする。
この後天皇の皇后とか妃夫人になるのは藤原家出身者でなければなれないような法則を作る。
これにより自由に皇室を操れる権力を手に入れる。
正に日本はこの藤原家を筆頭に、源氏か、平家か、橘氏しかない中で混血してゆく。
その中でも藤原が一番栄える。後年藤原はあらゆる名前に変わりこの国の中で広がって行く。
武家になった藤原氏は武藤と云い、御所の後衛を務めた藤原は後藤と名乗り、左衛門丞の藤原は左藤と名乗る。
かくのごとく藤原はこの国の隅々まで広がって行く、そのすべての元はかの不比等だ。
その不比等の企みは大成功する。
その不比等は養老4年(720年)正二位右大臣を持って薨去する。
だがすぐ正一位太政大臣を追贈される。
死後もこの国の先駆者としての敬意は与え続けられる。
後年1020年ごろ一族を代表するようにかの藤原道長をしてこのような歌を詠ませる。
「この世をば 我が世と思う望月の 欠けたることをなしと思えば」と云わせるほど栄華を極める。
中でも房前の北家が最も栄える。
珍しいところでは有名な紫式部も房前の末裔である。
勿論田原の藤太秀郷も北家の出、近衛も藤原摂関家関白忠道からの別れる。
つまり北家から分かれて出る。
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この国では卑弥呼、卑弥呼と喧しいが、一体誰なのか今もってはっきりした答えはない。
しかしあちらの魏志倭人伝にはそれらしき存在はしっかり書き残されている。
日本では神功皇后の事だと云ってみたり、果ては天照大神だと云ってみたり、
第七代交霊天皇皇女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)ではないかとも言われている。
あちらの年号景初元年は西暦245年ごろに当たる。
この魏志倭人伝の中の東夷伝を書いたのは陳寿と言われる人物。
陳寿がこの書を書いたのは280年頃、
その中には、、其の国元男子を持って王と為す、住(とどまる)事七、八十年、倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり、乃ち共に女子を立て王となし、名付けて卑弥呼と曰す、鬼道を事とし能く衆を惑わす。
男王ありて国を治むるを佐(たす)く、年巳に長大なるも夫婿なく、王となりし自(より)し以来見る事こと少なし、、とある。
そのころこの国の歴史書、日本書記では丁度神功皇后が治めていたころになっている。
神功皇后が治世していた年代は西暦201年から269年の69年の間。
しかし余りにも実態とかけ離れている。
これ程長年国を治めていたにも関わらず、天皇としては記載されていない。
神功皇后はあくまで第14代中哀天皇の皇后でしかない。
その神功皇后にある日神からお告げある。
「西の方に金銀をはじめ様々な宝に満ちた国があるその国を与えよう」と神託があった。
たちまち中哀天皇にそのことを進めたが、天皇は一向に乗り気ではなく、九州の熊襲退治に出かけようとした、がそこで死んでいる。
謎の死である。
又卑弥呼は二人いた、という先生まで現れた。
この先生何が何でも九州に王朝を持っていきたい方。
さて箸墓、そこに祀られているのは一体だれか、その箸墓が作られ始めたのが丁度240年頃。
日本の前方後円墳の始まりと言われる巨大古墳。
だがこの全長280メートルもある。そしてこの古墳は全国でも11.2番目の大きさと言われる。
一番大きいのは大仙山古墳、現仁徳天皇陵と言われているが、これも最近異論が出てきている。
大体この国ではっきりしているのは、九州の岩戸山古墳に入っている筑紫の磐井以外にない。
がこの国の日本書紀には一切卑弥呼は出てこない。
欠史八代と言われる天皇の中にはこの交霊天皇も入っている。
にもかかわらず、あの箸墓伝説だけはすこぶるその存在が大きい。
日本書紀ではその交霊天皇が治世した年代は紀元前290年から215年までの75年間。
卑弥呼が存在した年代とは余りにもかけ離れているだろう。
実はあの推古天皇9年、西暦600年から一蔀(いちほう1260年)遡らせたことが大きなずれとなっていることは明白。
あの箸墓伝説の中ではこの「ヤマトトトヒモモソヒメ」は大国主命の妻であり、夜ごと通ってくるがその姿を見たことがない。
その為一度お姿を見たいものと大国主神にお願いした。
すると大国主命が、明日貴女の櫛箱の中に入っているから開けてみてくれと云った。
そしてその姿を見ても決して驚いてはいけない、とくぎを刺した。
そして次の朝モモソヒメは櫛箱を開けてみて驚いた。
そこには一匹の美しい子蛇が入っていたのだ。
モモソヒメは驚きの声を上げた。
と途端に大国主命が姿を現し、よくも私に恥を掻かせたなと怒り、三輪山の方に飛んで行ってしまった。
モモソヒメは余りの事に驚き腰を抜かして座り込んだ。
その時持っていた箸が陰部(ホト)に刺さり死んでしまったと云う。
箸で陰部を差すなど、よくもこんな事が書けるもの、如何に日本書紀がいい加減なものであるか、しかもそれがこの国の正史である。
このモモソヒメ、一日に百回も襲うという恐ろしい名前、それが卑弥呼ではないかと云われている。
しかし日本書記には一切その名前は出てこない。
このほかにも日本書紀にはいかがわしい記載が多い。
しかしある意味ではそれらを包み隠さず、そのまま載せている所に信憑性がある、と評価されている面もあるらしい。
さて箸墓はこの国最初の前方後円墳である。あの頃はまだこの陵を取り巻く周濠池はなかったようだ。
が後に近くの農民が灌漑用の池を作った。
だから一方にのみ大きな池がある様だ。
その古墳を作るに於いては、昼は大坂山から人伝いに手渡しして石を運び夜は神が作ったと伝えられている。
それにしてもあの地域に集合する古墳、実に35個もある。
中でも箸墓は最大級のもの、勿論奈良平城京の近辺にも多くある。
空から見れば大和盆地は前方後円墳だらけだ。
ちなみに神功皇后陵は平城京の北側にある。
卑弥呼が死したのは西暦245年ごろ、
そのころ丁度日本列島で日食が起きる。そして巫女たる者それも予測できなかったのかと責められる。そして死している。
果たして自然死なのか自殺なのか、不自然な死である。
死した途端、又国内が騒然とし争いが起きる。
そして卑弥呼の宗女台与(とよ)が立てられる。
そしてやっと争いは収まる。
果たして台与とは何者なのか、それも日本書紀には一切記されていない。
古事記は正史と認められていないが、実際にトヤマトトトヒモモソヒメが生存した年代は紀元前290年から215年頃まで、
崇神天皇が日本書紀に出てくるのは紀元前97年から前30年迄、
その崇神天皇には大叔母に当たる。
余りにも年代が違うだろう。
丁度秦の始皇帝が中国全土を征服した頃。
そのころ秦の始皇帝の征服からはじき出された多くの中国人がこの国に逃げてきた。
それまでは縄文時代。
一つは朝鮮半島を陸伝いに、又直接海を伝って逃げ込んだ人間が多かった。
稲作を持ち込み、鉄を持ち込んだ渡来人、この国をどれ程発展させたか。
一気にこの国は秩序ある国家として変身してゆく、だが当時この国は文字持たなかった。
その為大権を主張するには巨大な古墳を作り人々をその権威の元に従わせていた。
兎に角日本の古代は読めば読む程分からなくなってくる。
卑弥呼も台与もいったい誰なのか今となっては分らない。
が意図としてわからないように編纂したのはかの藤原不比等だ。
日本書記は天武天皇の発案で書かれ始めたが、それを編纂したのはこの藤原不比等だ。
その日本書記の完成を見て安心するようこの世を去った。
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