Roshyの独り言

世の中斜め切り、蒙平御免

歴史の館

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 今日は日曜日生臭い世上の出来事は別にして、暫し昔を振り返って見よう。

今NHKの大河は番組で井伊直虎の物語が流されている。

何でも女城主で井伊家一国を背負って生きた女として描かれている。

しかし井伊家の歴史にはこの直虎なる女城主など何処を探しても出てこない。

こうなると完全なでっち上げと思わざるを得ない。

井伊家は元々今川家に被官していた一族、

古くは藤原冬嗣の末裔だそうだが、そんなことはとても信じられない、

藤原の末裔を名乗れば世に通じると思っていたのだろう。

世は戦国時代、一旗揚げようと戦場で大声を上げる物は多い。

だが彼の義元が信長に打たれてしまい、その子氏直が後をついで立つ意欲が全くなく絶えてしまった。

その被官であった井伊家。

初代直平が出て来るのも1540年ころ、

直宗、直盛、尚親、直正、直孝に繋ぐ、此処で家康との出会いがある。

それまで静岡県引左群引左町蟠踞していた。

がかの関が原の戦いが家康の目に留まり、長男直か上野安中藩を貰い以来幕末まで続く。

次男直純は彦根に35万石として優遇され、幕末には彼の安政の疑獄を起こした直弼がいる。

そして一度は今川に党首を暗殺され途絶えてしまっていた。

そして直平、直盛、尚親とつないで、親藩ではないが譜代として大いに重用される。

だがどの系図にも直虎とか次郎法師などと云う名前は出てこない、

内容を書き換えて登場させたのならまだフェイクの枠に入るがこれは完全なでっち上げ、

つまり史実とは全然関係ない物語なのだ。

女城主として有名なのはかの信長の叔母が岩村城主に嫁ぎ彼の地に送られていた。

ところがその城主遠山景仁(とおやまかげとう)が病死してしまい、やむなく女城主として戦わなければならなくなった。

攻めてくるのは武田の家臣秋山信友である。

がその秋山がその女城主にほれ込み、終に自分の妻にしてしまう。

怒った信長は総力を挙げてその岩村城を攻める。

そして遂に岩村城は陥落する。

信長はかねてからその叔母に思いを寄せており、

かわいさ余って憎さも憎し、二人を逆さ貼り付けにして処刑されてしまった。

が今回の女城主井伊直虎、ただ根拠のない作り話ばかりである。

NHKも余程歴史ドラマのネタに困ったと見える。

これで一年間どのように話をでっちあげるのだろうか。

兎に角今回の井伊直虎、女城主の物語はよほどネタ探しに困ったものとみられる。

井伊家は幕末あの安政の大疑獄事件を起こした直弼が居る。

直弼も朝廷の勅許もなく通商を開いたと攻めたてられ、

終に桜田門外で暗殺されてしまう。

徳川四天皇と譜代としては特別重用されたが、

明治維新が起り、錦の御旗を薩長軍に取られたと知ると、

井伊藩は態度を豹変し新政府軍に寝返ってしまった。

一番徳川の味方である井伊家が一番に幕府を裏切り、

新政府に裏返った日和見一族である。

歴史物語をこんな形で捻じ曲げてしまっては、NHKの信用も一気に地に落ちてしまう。

そうでなくとも若い子はそれを真実と信じてしまう。

今年一年どうなるか興味深々、、、
 又日曜日がやって来た。

偶には肩の凝らない昔話でもしてみたい。

テレビで有名な長谷川平蔵、悪人をバッタバッタと切り殺し、

フィリピンのドティルテも顔負けだろう。

しかし彼だけが火付け盗賊改めという役職を務めたのではない。

そもそもこの火付け盗賊改めは江戸幕府が出来てすぐの1611年、寛文11年に発足している。

江戸幕府が出来てすぐの頃である。

そして実に平蔵が受け持ったのは165代と166代だけ、

明暦8年(1771年から1772年)10月から明和9年までのほんのわずかな期間でしかない。

だがテレビでは平蔵のみが大きくクローズアップされ、数々の事件を解決している。

あれほど江戸の町で事件が起きていれば最早反乱かクーデターに等しい。

でも原作者の池波正太郎は事件を書きまくり一躍有名になった。

何しろ事は派手に書かなくては売れない。

書くわ書くわ、よくもこれだけ事件をでっち上げたものである。

この長谷川平蔵、本名を長谷川宣以(はせがわもとのぶ)と云い、

幼名を銕三郎(てつさぶろう)と云った。

お蔭で本所の銕さんと呼ばれ、部下たちに大いに慕われている。

この銕さん先代が妾に産ませた子供で、後を継ぐ兆しはほとんどなかった。

そしてお定まりの悪所通いだ。

その時代の取り巻きがつい平蔵を銕さんと呼んでしまう。

そして勧善懲悪を一筋に追い、極悪人を取り締まっている。

これまで何人の銕さんを見て来ただろうか。

一番凄味があったのは丹波哲郎の長谷川平蔵。

次に松本幸四郎、のちに白鴎と呼ばれたが、既にかなりの年であり迫力が今ひとつなかった。

老年期に入ったころでありあれほど体は動かなかっただろう。

そして萬屋金之助の平蔵、少々肩に力が入り過ぎ、又鼻息の粗さが出過ぎて余りにも芝居がかっている。

そして最後の平蔵、中村吉右衛門、尾上松緑の次男坊で兄の幸四郎とは些か見劣りする。

兄が余りにもいい男だった。歌舞伎だけではなくシェークスピア劇にも出演し、幅の広さを見せつけた。

が全盛期の吉右衛門、最後に出て来るジプシー・キングスのギターの挿入、まさしく新時代の平蔵であろう。

実にリズミカル、そしてそのテンポの良い事。太棹のギターを弾き、その豪快さは見事であった。

勿論ジプシー・キングスのCDは買い入れ何時も聞いている。

ボラーレで始まるサッカーの応援歌も実に楽しい。

いつもそれに乗せられてしまう。

そしてバックに出て来る京都大覚寺の渡り廊下、

現役の頃然る商社の副社長が亡くなられその葬儀に参加した。

最折しも秋真っ盛りの季節であった。

今でも強烈な印象が残っている。

少し横道にずれたが、この特別無警察は実に248代も続いている。

最後の火付け盗賊改めは、慶応2年8月で終わっている。

この長谷川平蔵は最後に備中守に出世している。

慶応2年と云えば明治になるほんの一年前まで、

江戸初期から明治になる寸前まで続いていたのである。

いかに江戸幕府が市中の治安に気を使っていたか、

日本文化はこのころ本当に出来上がった。

それが見てくれこれ程劣化するとは、、、
 今日は日曜日世俗の世界を逃れ、暫し歴史の世界に遊びたい。

さて話はあの山内一豊、世間では(やまのうち)と呼ばれているが、

正式には山内(やまうち)と云うらしい。

もともとあの藤原秀郷の子孫首藤資清(しゅとうすけきよ)の曾孫俊通(とうとしみち)が相模鎌倉郡山内荘に居住し、山内を名乗った事による。

その後丹波三宮や尾張に転住し盛豊の時織田家に仕えた。

が信長の時攻められ一豊の父が殺される。

暫く流浪するが、再び一豊の時織田家に再び使え、信長死後は秀吉に仕える。

そして天正18年(1590年)遠江掛川5万石を与えられ掛川城主になる。

この一豊がかの関が原の合戦ではいち早く家康に近付き、

家康家臣の大名の中、いち早く家康様の為なら自国領を投げ出しても良いと諂う、

この一言が決定打となり、あの戦いの後土佐高知20万2千石を与えられる。

五万石の領主から一躍20万石余の大大名に成ったのである。

正に口は重宝、使い方一つで何倍にも自国を大きくすることができる。

早速一豊は高地に入り、かの土佐城の建設に入る。

がもともと土佐は長宗我部氏の統治していた土地、

その残党の抵抗は強く山内氏への抗議は止まなかった。

元々一豊の出世には後に見性院と呼ばれる糟糠の妻がおり、俗名は千代と云う。

彼女が嫁する時、実家から持たせられた支度金を重量持っており、

いざという時にはそれを使って婚家を助けよとの支度金を持っていた。

いざ関が原の合戦の時その重量で名馬を買い一豊はそれで十分の活躍をし、

家康に認められ土佐20万石を与えられたと云う。

その妻を連れて高知に入部した際、旧長宗我部の抵抗は激しく、

十両程度で土佐は譲れるか、と激しくののしられた。

一豊の妻千代は十日も経たないうちに京都に逃げ帰ったという。

元々の領主長宗我部氏元親は四国全土を一時は制覇してしまっていた。

だが秀吉の成敗により元に元の土佐一国に閉じ込められてしまっていた。

無念の臍をどれほどかんだか、

そしてあの九州戸次川(べっきがわ)の戦いで尤も信頼し愛していた長男信親(のぶちか)を戦死させてしまった。

それからの元親はすべての力が抜け、生きる希望を失ってしまった。

そして末子盛親(もりちか)に家督を相続させる。

その盛親が関が原では西軍についてしまったのだ。

かくて長宗我部氏は取り潰しになり、あの一豊が入部をした。

それにしても山内家は幕末まで続き、15代豊信(とよのぶ)がかの有名な容堂である。

公武合体を唱え、徳川家に大政奉還を献言する。

しかしそれは失敗し徳川幕府の崩壊になる。

しかしその容堂も失意のうちに命じ五年に死去。

その孫豊範(とよのり)が明治17年侯爵になり最後の山内家の当主になる。

一時は流浪し、攻め滅ぼされた織田家に再び頭を下げて拾ってもらった山内家、一豊の機転で土佐20万石を掴んだ。

世間では最後の容堂は少々酒癖が悪かったらしい。

酒席での失敗は数々あると云う。

  まず秀次を語る前にあの鶴松とは誰の子か、

またその死後すぐ生まれた御拾(おひろい、のちの秀頼)は誰の子か。

秀吉には子種が無い事は既に証明されていた。

本妻「ねね」にもその他大勢の愛妾にもただの一人も子供は生まれなかった。

ただ淀殿のみか二回も妊娠している。

淀君と云うのは信長の妹お市の方の娘である。

信長の横死を受けていち早く知りその仇を取った秀吉は、信長の孫三坊師を担いで政権を取ってしまった。

その鮮やかなることまるで信長の死を知っていたかのごとく。

だがそれでも子供は生まれなかった。

そして最初の鶴松が生まれたのが天正17年(1589年)秀吉53歳の時である。

死の9年前、突如淀君が妊娠したのだ。

どう考えても怪しい、あれほど多くの妻妾をかかえ、荒淫の余り身を縮めるのではないかと言われるほど頑張った。

がただの一人も子供は出来ていない。

それが突然この鶴丸に続いて御拾い、のちの秀頼が生まれてくる。

淀殿には主筋にある織田家の誇りがある。

それを愛妾の一員に組み込まれ、何時かは織田の血筋に取り返したいと云う怨念はあった。

さて果たして誰の子供か、片桐勝元か木村重成か、はたまた石田三成か、淀を妊娠させた男。

今となっては絶対わからぬこと。

大阪城とともにあの世に持って行ってしまった。

さて秀次が切腹をした最大の原因はこの秀吉の子供の出現によるものだが。

秀吉ももう自らに子供が出来ることはないだろうと思い、姉「とも」の息子を養子にもらった。

それが秀次である。もう一人の弟、大和大納言秀長がいた。

まさかと思っていた秀吉の子、それか全ての誤算の始まりである。

早まってその秀次に関白職を譲ってしまった。

そこに実子の誕生だ。

尤も実子かどうかわからぬが、秀吉はなかなかの曲者、そして残忍な性格が隠れている。

信長の愛妾を櫛刺しにして殺したり、あの笑顔の下の残忍な性格は信長に仕えていたころからの本性である。

それにしても世の中は一寸先が分からぬもの。

秀吉は自分の子供が出来た事に有頂天になってしまっていた。

がその鶴丸がわずか二歳で死んでしまう。

どれ程落胆したか、その心情は想像に難くない。

がそのすぐ後、又しても淀気味が妊娠したのだ。

不自然ではないか、あれほど懲りずに励んでいたにもかかわらず、ただの一度も子供が出来たことはない。

それが都合よく淀君だけ続けて妊娠するなど。

淀にとっても子供は絶対必要。

織田の血筋を残すには子供を作るしかない。

男は誰でもよい。わが子が欲しいだけだ。かくて秀次は焦った。

もう秀吉にとって私は必要ないのではないかと。

秀吉の性格をよく知っている秀次。何時かは自らの関白職は取り上げられ、放逐されるものと考えるようになった。

案の定秀次には何題難癖が付けられるようになってきた。

しかしそれまでに秀次に言い寄っていた大名たちは、まさか秀吉があそこまで残酷な仕打ちをするとは考えていなかった。

秀次に取り入るためにわが娘を差し出し、愛妾の一員に加えてもらおうと、多くの大名たちが差し出していた。

最上義光の娘もその中に入っていた。

まだ秀次と対面もしていない娘、その他にも大勢いた。

秀吉の圧迫はますます強くなってきた。

秀次の杞憂は益々激しくなり、何度も秀吉に拝謁するために参上する。

秀吉だけではない。北の政所、つまり秀吉の正妻「ねね」の処にも参上する。

しかし秀吉の我が子への愛着はますます募り、秀次の行動は空回りをする。秀吉の心を察した秀次は自ら高野山に退去する。

その前に退去命令は出ていたが、秀次は持ち金のすべて500両もの大金を秀吉に献上する。

がその程度では秀吉の気持ちは変わらない。

かくて秀次は文禄4年(1595年)7月15日遂にたまりかねて自ら腹を切って自死する。

秀吉の猜疑心は生まれ育ちによる自らの生い立ちからくるものだが、

余りにも急激な昇進、その位に追いつかぬわが身の出世に振り回されていた面もある。

元々秀吉は16代将軍に成ろうと思っていた。

それを備後の鞆に零落逼塞していた15代将軍義昭に打診していた。

が義昭は何処の馬の骨かも分からぬ身分のものには譲れぬ、と突っぱねていた。

ところがあの信長襲撃の時自らの屋敷を提供し、明智勢に協力していた先の関白近衛前久(さきひさ)が追われ、

にげまわっていた居た時、徳川家康を頼って訪ねて来たのだ。

家康は即このお土産は大きいと秀吉に差し出す。

かくて前久の養子になり秀吉は関白に就任する。

前久もやむなく関白職を秀吉に譲る。

その関白も卒業し太閤に成り、関白職を秀次に譲っていた。

だが我が子可愛さに邪魔になった秀次を追い詰め自ら返上させるように仕組む。

秀吉とは今太閤と呼ばれ市農民から関白太政大臣にまで上り詰めた男として広く庶民には言い伝えられている。

だがその実情は決してそんなきれいごとではない。

哀れを誘うのはその後の処置だ。

秀次の血筋は全て処刑せよとの秀吉の命令は下る。

まだ秀次に御目通りもしていない、哀れなのは愛妾たちも、全て三条河原に引き出されて首をはねられてしまう。

彼女らに何の罪があったと云うのだろうか、万一秀次の子供を宿していないか、の猜疑心からである。

だがまだ実の弟大和大納言秀長か生きている間は良かった。

秀吉のやりたい放題をいさめ、真面な政治をしていた。

がその秀長が天正19年(1591年)早死にしてしまう。

まだ52才だったと云う。

秀吉が狂い始めたのはそれからだ。

もし秀長が生きていたらこのような事は絶対に起こさなかっただろう。

股肱の臣を持たない秀吉、秀吉の権力による大名たちに惜しげもなく領地をあたえていた。

がそれも限界が来た。

そこで思い出したのが信長の大陸進出、単に思いつきだけだった。

信長はあくまで明の領地を奪い去ること。

しかし秀吉は朝鮮の領土に拘った。

二度の朝鮮征伐にも失敗し、侘しく死を迎えた秀吉、

ただただ我が子秀頼に継がせたいと思ったが、因果応報、

世の中はそうは問屋が卸さない。

耄碌爺の最後は哀れだった。

家康に縋り利家に縋り、はたまたて輝元に縋り、

秀頼をよろしく、と言い残して死を迎えた。

その舌の根も乾かぬうちに家康の持ち逃げだ。

仙台伊達家は古く藤原北家魚名の流れだと云う。


頼朝の奥州征伐に参加し、その功績を認められ、陸奥伊達郡を与えられたと云う。

政宗はそれから数えて22代目の当主と言われる。

政宗が生まれたのは永禄10年8月3日(1567年)である。

信長か横死する15年前の話。

15歳では如何に能力があろうともやる気があろうともとても無理な話。

しかし伊達家家内の葛藤から早くして家督を譲られる。

18歳の時である。

父輝宗は隣の最上家から妻を貰っていた。

それがともすれば伊達家を乗っ取ろうとする最上義光の妹義姫である。

輿入れ最初から隙あらば伊達家を乗っ取るよう腹意を伝えられていた。

そして正宗より弟小次郎を愛した。

伊達家の意思は乱れ、遂にその小次郎を自らの手で消し去ることになる。

そればかりではない、政宗を最も愛してくれた父輝宗が畠山に人質に取られ、

その父もろとも畠山を殺さなければならなかった。

正宗一生の痛恨であろう。

時代は既に秀吉の代を越え家康のものとなっていた。

その家康も終末期、将軍職も秀忠に譲り、豊臣も征伐し75歳の生涯を終えようとしていた時、

だが政宗が死する寛永13年(1636年)70歳で死するまで最後の最後まで天下取りをあきらめなかった。

その生き方の激烈さは仙台64万国を誇るだけでなく、

伊予宇和島潘10万国を与えられる徳川幕府の柱石として活躍する大大名として後世に名お残した男である。

が彼ほど腹黒い男もいない。

既に禁教令が出て久しい慶長18年(1613年)遠くイタリヤに使節を送り、

その力を持ってこの国を乗っ取ろうと画策した男である。

家康が死する3年前の話。

何処まで本気であったのか、家康も当時ヌエバ・エスバニアと云われたメキシコに銀の精錬をする技術を求めて使節を送ろうとしていた。

太平洋を西に渡るなど破天荒な事を思い付いたのも西洋の入れ智慧無くしては考えられないこと。

などそれに便乗してローマにまで助けを求め様とした政宗も普通の大名では考えもつかないことである。

既にカソリックは禁教とされ、宗教によるこの国への進出を禁止され、

商売にのみ特化したオランダなどの新教、所謂プロテスタントのみ交流を許す命令を下していた。

秀吉の時代から宗教によるこの国への侵略は見抜かれていた。

だが家康はヌエバ・エスパ二アに灰吹法による銀の精錬があることを知ってその技術を手に入れ様とした。

一方政宗はそれに便乗する形でローマに使節を送ろうと考えた。

正宗の忠実なる家臣、支倉(はぜくら)六右衛門常長を団長としてソテロ・ビスカイロら150名を仙台藩男鹿半島月の裏港を慶長18年(1613年)9月15日に出港する。

目的はローマカソリックの応援を得て天下を取ろうとしていたのだ。

太平洋を西に向かって次の年1月末、ヌエバ・イスパニア、今のメキシコ、そしてアカプルコ港に到着する。

そしてメキシコ市を歩いて渡り、又してもヴェラクルスのサン・ファン・デ・ウルワ港を出発し、キューバのハバナに到着する。

そこからまた船に乗り、大西洋を渡りそしてスペイン、セビリャに着く。

陸路を通り、スペインの首都マドリードに到着する。

そして慶長20年(1615年)やっとローマに着きフェリペ三世に謁見することができる。

そしてローマ市民権証書を授与される。

しかしそんなもの何の意味もなく価値もない。

既にカソリックは日本から排除されて久しい。

そして支倉常長は日本に帰るため、慶長20年閏6月21日(1615年)日本に向かって帰途に就く。

日本では大阪夏の陣が終わり天下は家康のものと決してしまっていた。

もし政宗がそのような使節を送っていたことがばれれば打ち首どころではない。

仙台藩も伊予大洲半もすべて取り上げられ、正宗の夢は消え、生きては居られなかっただろう。

しかし日本に帰った支倉常長は黙して語らず、静かに田舎に逼塞し、

元和八年(1622年)死してしまった。

52才であったと云う。

政宗も忠実な良き家来を持ったものである。

結局支倉六右衛門の働きは何の意味もなく徒労に終わったわけだ。

全ての画策が無に終わった事を悟った政宗は、一転徳川の忠実な家臣に転身する。

秀吉に呼び出され、躊躇の限りを尽くして遅参し、危うく命を取られるところであった。

が家康が中に取り入り、危うく一命は救われたこともあった。

その大恩ある家康をも謀ったのである。

何処まで腹黒いか、とても一筋縄ではいかぬ男。

もっとも何時でも表面では忠実な家臣役を演じていたが、

そのあまりの忠節振りが認められ、仙台本潘だけでなく、

四国伊予宇和島に10万石の領地まで与えられる。

正に正宗の真骨頂、将軍家康を欺き核も裏側で天下取りの画策をしていたとは、

既に家康は元和二年(1616年)駿府で没している。

二代将軍秀忠も三代家光に将軍職を譲ろうとしている時、

正宗の画策陰謀は最後まで天下をあきらめなかった。

そして伊達家は伊予宇和島10万石と仙台67万国を与えられ、

明治維新までつづく。本家仙台藩は次男忠宗に任せ、

長男秀宗は四国宇和島藩祖とさせる。

以来仙台藩は15代続き、宗教(むねよし)の代に明治維新を迎える。

宗教は男爵に叙せられ、宇和島潘は同名宗教(むねあつ)第二明治維新を迎える。

が早死にしてしまい結局どの爵位を受けることはなかった。

それにしても家康を謀った男、

そしてそ知らぬ顔をして忠臣を装った男伊達正宗、

これ程スリリングな勝負をした男はいない。

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