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Hello☆How is feeling?
It is after a long absence!
It is no-Shin!
ふ〜アメリカ語は儘ならぬ。日本語だってまともに話せないのに
生意気に外国語発進してしまったノーシンをお許し下さい。
ノーシンの1年間の仕事は長期出張が多く
また僻地へ出向く事が多いんで中々更新できない事を
お許し願いたい。(特に冬季)
逆に携帯の電波が届かず会社からく〜だない
連絡や指令を受けずに済むって利点もありんす!
今や情報化社会、何処へ行っても世の動きが解るいい時代?
英語だって駅前留学でペラペ〜ラって具合っすが
江戸末期はそうはいかない!鎖国もしてるしぃ。
そんな中、災い転じて実践留学!
アロハーでアメリカ会話をGETってお話、しまひょっか!
土佐の中村村(現土佐清水市)で貧しい漁師の家に生まれたジョン万次郎さん。(中
浜万次郎さん)
高知中村って言えば四万十川に阪急のエース山沖じゃん!って関係ないか?
14歳の時、お魚獲るってんで漁にでたさぁ
が、そーなんです。遭難してもうたからさあ〜大変!
奇跡的に太平洋の無人島に辿り着いた万次郎さん。
そこで亜米利加の捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられてめでたしめでたし…
だったけど我がJapanは鎖国状態継続中・・・
救われた方々は寄港先のハワイで降ろされるが
好奇心旺盛な万次郎はホイットフィールド船長に直訴します!
「ワガを大海原の大航海に付きあわせて下せぇー
ずぇーたいに海賊王に俺はなる!!」
とは言わなかったでせうが、万次郎の申し出を快く了解した船長さん。
万さんの鋭い洞察力と前向きな行動力を認め、
ジョン・マンと言う愛称をつけいざ亜米利加へ!
1843年、万ちゃんは日本人として初めてアメリカ本土の土を踏んだと言われている。
万次郎は英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学び
鎖国中の日本に帰国したのが1851年。なんとか故郷土佐へ凱旋帰国!
士分として取り立てられた。
折りしもペリーさんが威嚇にやってくる2年前の出来事・・・
激動の時代、幕府も各藩も西欧の情報を必要としていたのでしょうね。
幕府なんか直参の旗本にしちゃうもんね〜
江戸では通訳、亜米利加での学問を各地で教えたり
土佐ではかの竜馬さんも万ちゃんから聞いた世界観に影響を受けた言われてるんす。
あまりにも流暢な英語ペラペーラに
知りすぎた亜米利加事情ちゅー事で
水戸藩あたりから
「ヤツは敵のスパイじゃぁないっすかねー」
と恐れられたとも言われてます。
万チャンカッコいい〜!カッキーン☆
「日米修好通商条約」批准のために「咸臨丸」に乗船。
通訳として、航海士としても活躍。
その後も小笠原の開拓調査、捕鯨活動、学校の先生
上海、欧米渡航とめまぐるしく働きすぎたのか
44歳、病に倒れその後隠居生活が続き71歳でこの世を去っています。
激動の幕末に様々な場所や人に影響を及ぼした
影の重要人物は米国でも高く評価されているんですって。
未だに英語がチンプンカンプンなノーシンは
そんなジョン万次郎さんを尊敬しますです。はい。
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ちょうど今日、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で竜馬さんとジョン万が出会う場面を読みました!!漂流したおかげで歴史に名前が残ってるんですものね。すごい〜
2006/5/17(水) 午後 9:48 [ mks*eet*105 ]
ほ〜mksweetさんにとってタイムリーな記事でしたぁ!良かった!うんうん♪何が幸いするかわかりませんね。逆に一寸先は闇って事も…ん〜だから人生って面白い!
2006/5/17(水) 午後 10:02
ノーシンさん>お邪魔にまいりました(^-^)‥ジョン万次郎もドラマチックな人生ですよね。漂流民は帰国したら「死罪」と決まっていたそうで、なんとも‥無情。。やっぱり万次郎は悪運が強いというかエネルギーに満ちた人だったのでしょうね。高知へは何度か行っていますが、ジョン万の里「土佐清水」はまだなので、いつかは足摺岬に立ちたいです。ノーシンさんは出張が多いのですね。大変そうだけど‥色んな所へ行けてちょっと羨ましい気もします(^-^)でもやっぱり大変かな‥
2006/5/17(水) 午後 11:15
コビンさんいらっしゃいましぃ〜♪中村方面、土佐清水、足摺岬、是非伺ってみてください!皿鉢料理は美味しいし市場は楽しいし、あっそうそう水族館も中々良いっすよ海上に浮かんだ感じはビジュアル的にもGoodでしたよ♪えっ?歴史にはあまり関係ない?あ、え〜そのぉ…すんません m(__)m
2006/5/18(木) 午前 11:26
それでは、追記を…そーなんです。当時ペーペーの外国帰りは死罪ちゅー事で、万次郎さん以外、助かった大人達は安全なホノルルに滞在。万ちゃん自分で船を購入して1851年帰国する時、一緒にお連れしてるんですね〜。万チャンカッコいい〜!カッキーン☆・・・もうエエって(^^ゞ
2006/5/18(木) 午前 11:35
ども、お久しぶりです。信濃町の駅ビルに「ジョンマンジロー」というお店があるのですよ。つぶれないうちに一度行ってみたいけど、なかなかあっちに用がなくてね。
2006/5/19(金) 午前 6:54
らっきーさんいらしゃいませ!そのお店って皿鉢料理とか高知の地酒とか扱ってるんでせうか?それとも思いっきり日本人顔のマスターが「Hallo!」とか言って出迎えてくれるのせうか?
2006/5/19(金) 午後 4:52
なるほど‥万次郎さんほんとかっこいいです。万次郎さんにとって自分の体験記「漂巽紀畧」を記した河田小龍の存在も大きいですね。それにしても土佐のいごっそうなのか、スケールが大きい。万チャンカッコいい〜!カッキーン☆‥けっこうツボです(^o^)ノ 仕事帰り時々長距離夜行バスの乗り場の前を通るのですが「宿毛/中村方面」行きのバスに乗り込む人達を見てて、そのまま私もフ〜と吸い込まれそうになります。
2006/5/19(金) 午後 11:16
ジョン万次郎は、1851年2月2日、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。
海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。
薩摩藩では中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。
斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。
斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。
薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎0奉行所等で長期間尋問を受ける。
長崎奉行所から土佐に向った。
高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に中浜を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。
約2か月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の1852年、漂流から11年目にして故郷に帰ることができた。
2018/12/23(日) 午後 0:09 [ 国境・環境・歴史学習ツアー ]