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一般に認容された意見が真理である場合に、自由な論議を許さぬことから起こる弊害が、単にそれらの
意見の根拠について人々を知らないままに留まらせるということだけならば、このことは、知的害悪であ
るとしても道徳的害悪ではなく、性格に及ぼす影響という点から見て、それらの意見の価値を左右するも
のではない、と考えられるかも知れない。しかし実際には、論争の行われない場合には、意見の根拠が忘
却されるだけではなく、また実にしばしば意見そのものの意味が忘却される、というのが事実である。意
見を伝えるための言葉は、全く思想を表示しなくなるか、或いは、最初その言葉が伝えようとしていた思
想の一小部分を表示するに過ぎなくなる。鮮明な概念と生命ある信仰とは失われて、機械的に暗記された
少数の文句が残るに過ぎなくなる。或いはまた、意味の一部が辛うじて記憶されるとしても、単にその外
殻と外皮とが記憶されるに止まり、純美なる精髄は忘却されてしまうのである。このような事実が占めま
た満たす人類の歴史の重要な一章は、いかに熱心に研究せられ熟慮せられても過ぎることはない。
( 『自由論』 第二章 思想および言論の自由について J.S.ミル著より )
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今の世の中は、本当に上記と同じ社会になっておる。マスコミでは、自由な論議が行われているように見えるが、社会ではまったく自由な論議はなされていない。それが、現代人なのだ。
2005/9/19(月) 午後 8:59 [ 蘇山人 ]