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私(J.S.ミル)は、或る人物を他の人々が見る際の感情が、その人物の自己配慮(セルフ・リガーディ
ング)の資質や欠陥によって、毫も左右されてはならない、というのではない。このことは可能でもなけ
ればまた望ましくもない。もしも彼が、彼自身の幸福に役立つような何らかの資質において傑出している
ならば、賞賛とは正反対の感情がそれに伴うであろう。愚劣な言行には程度がある。その程度が低劣な趣
味または堕落した趣味(この用語には異議がないとはいえないが)と呼ばれうるものに達した場合には、
たとえ、このような愚行と趣味との故に、それを露呈した人に害を加えることは正当化しえないとはい
え、その人物が嫌悪の的となり、また極端な場合には軽蔑の的とさえなることは、避けえないことであり
、また当然なことでもある。右と正反対の資質を相当強くもっている人ならば、右のような資質に対して
嫌悪と軽蔑との感情を抱かないわけにはいかないのである。何びとに対しても。不当なことはしていない
にもかかわらず、われわれとしては、その行為者を愚物もしくは劣等の人物として判断せざるをえず、ま
たそう感ぜざるをえない、という行為が存在しうるのである。そして、このような判断と感情とは、彼が
さらされている他の一切の不快な結果について警告するのと同じように、彼に親切を尽くすことになるの
である。もしもこのような親切が、今日礼儀についての世間の通念が許している程度よりもはるかに自由
に与えられるならば、――また、誰が或る人が他の人に対して、誤っていると考えることを正直に指摘し
ても、無礼ともさしでがましいとも考えられないですむのであるならば――それは実に喜ぶべきことであ
ろう。われわれは、或る人に対して好ましくない意見を抱き、その意見に即してさまざまな仕方で行動す
る権利をもっているが、それは彼の個性を圧迫するためではなく、ただわれわれの個性を活動させるため
である。例えば、われわれは、彼との交際を求める義務はない。われわれはそれを避ける権利をもってい
る(それを避けることを誇示する権利はもっていないけれども)。なぜならば、われわれは、自分に最も
気に入った交友を選ぶ権利をもっているからである。もしもわれわれが、彼の実例や談話は彼と交際する
人々に有害な影響を及ぼす惧れがある、と考えるならば、われわれは、彼に対して警戒するように他の
人々に注意してやる権利があるし、また注意してやることが、われわれの義務ともなるであろう。われわ
れは、他人に対して自由に選択のできる親切を尽くすとき、それが彼の改善に役立つという場合以外は、
他の人々を先きにして彼を後にしても構わないのである。以上のようなさまざまな様式で、人は、直接に
自分自身にのみかかわる欠点のために、他の人々によって極めて峻厳な罰を与えられることがあるのであ
る。しかし、彼がこのような罰を受けるのは、これらの罰が、欠点そのものから生ずる自然的な、いわば
自然発生的な、結果である限りであって、その罰が、懲罰の目的で故意に彼の上に課せられるからではな
い。性急、頑固、自惚れを示している者、――普通の生活費をもって生活することのできない者、――感
情と知性との楽しみを犠牲にして動物的快楽を追求する者、――およそこのような人物は、人々の評判を
落すこと、その人々の好感を受けることがますます減少することを、予期しなくてはならない。しかし
、このことについて、彼は不満を洩らす権利を少しももってはいない。ただ彼が、社会的関係において特
別にすぐれていて、それによって他人の好意を受けるに値している場合、また、そのようにして、他人の
親切を受けるだけの資格を確保し、自己自身に関する彼の欠点によってその親切が影響されないという場
合には、別問題である(つづく)。
( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著より )
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