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或る人が思慮分別や人格的威厳を欠いているために当然に招くであろうと思われる他人の軽侮と、他人
の権利を侵害したために当然に彼に加えられている非難と、この両者の間の区別は、単に名目上の区別に
すぎないものではない。われわれが彼に対する統御の権利をもっていると考えられる事柄に関して、彼が
われわれを不快にしているのか、それとも、われわれがそのような権利をもたないと知っている事柄に関
して、われわれを不快にしているのかということは、彼に対するわれわれの感情においても、また行動に
おいても、著しい相違を生ぜしめる。もしも彼がわれわれを不快にするならば、われわれは、嫌悪の情を
示してもよいし、また、自己を不快にする物から遠ざかると同じように、そのような人から遠ざかること
もできる。しかし、われわれは、だからといって、彼の生活をも不快にするように要請されていると思っ
てはならない。われわれは、彼が彼の過失に対する充分な刑罰をすでに受けていること、あるいは、やが
て受けるであろうということを、反省せねばならない。たとえ彼が処置を誤ったためにその生活を駄目に
しているとしても、われわれは、それを理由として、さらに一層彼の生涯を駄目にしようと欲してはなら
ない。われわれは、彼を処罰しようなどと思うかわりに、むしろ、彼の行状のもたらす傾向のある諸々の
害悪をいかにして回避し、また、いかにして矯正しうるかを、彼に示すことによって、彼の刑罰を軽減し
ようと努むべきであろう。彼は、われわれにとっては、燐憫の対象、恐らくは嫌悪の対象であるかもしれ
ない。しかし、憤怒または怨恨の対象ではないであろう。われわれは、彼を社会の敵であるかのように取
り扱ってはならないのであろう。たとえ、われわれが彼に対して関心や憂慮を示し、慈愛をもって干渉す
るというところまでは行かないとしても、われわれとして当然してもよいと考えられることは、ぎりぎり
のところ、せめて彼を好むままに放置して置くということである。だが、もしも彼が、彼の同胞を――個
人的にせよ、集団的にせよ――保護するため必要な諸々の規則を犯したとすれば、事情は全く別である。
この場合には、彼の行為のもたらす邪悪な結果は、彼自身の上に落ちて来るのではなくて、他人の上に落
ちて来るのである。したがって社会は、そのすべての成員の保護者として、彼に対して報復を加えなくて
はならない。すなわち、彼に対して明らかに処罰の目的を以て苦痛を課し、且つその苦痛が充分に峻厳で
あるように注意しなくてはならないのである。一方の場合には〔或る人が他人の権利を侵害する場合に
は〕、彼はわれわれの法廷における犯罪者であって、われわれは彼に対して判決を下さなくてはならない
のみでなく、何らかの形で、われわれ自身の下した判決を執行しなくてはならないのである。他方の場合
には〔彼が単に自己に関する欠点を示しているに過ぎない場合には〕、彼に対して、いかなる苦痛にせ
よ、苦痛を与えるようなことは、われわれのすべきことではない。ただ、われわれ自身に関する事柄を処
理する際に、われわれが彼に対して認めていると同じ自分の自由を行使することによって、これに付随し
て生じるかも知れない彼の苦痛だけは止むをえない。(『自由論』は福澤翁にも影響を与えたであろう
が、その正当な後継者である漱石山人の『私の個人主義』にも反映している。だが、漱石山人は、他人に
迷惑を与えないということを個人主義の前提としてましたが、それはいかにも曖昧でした。しかし、当時
の日本の現状ではそれには限界があったわけです。そのあたりは再び考慮しなくてはいけないでしょう。
霧山人注)
( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )
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自由は好きだが、社会は嫌いと視た。
2005/10/8(土) 午前 11:36 [ 蘇山人 ]