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近代の世界においては、民主的な政治制度を伴うと否とを問わず、民主的社会組織に向かおうとする強
力な傾向が公然と存在する。この傾向の最も完全に実現されている国――社会と政府とが共に最も民主的
である国――すなわちアメリカ合衆国(1859当時)においては、多数者の感情は、彼らが到底競争し
えないと思われる程度の華美または豪奢な生活様式が出現することを不快としていて、多数者のこの感情
が、相当に効果のある奢侈制限法として作用しているし、また、合衆国(1859当時)の多くの地方に
おいては、巨額の所得をえている人にとって、民衆の非難を招かないような所得の支出方法を発見するこ
とが実際に困難である、ということは、真実だといわれている。このような述べ方は、現在の事実の再現
としては、疑いもなく甚だしく誇張されたものであるけれども、しかし、そこに記述されているような事
態は、民主的感情が、公衆は個人の所得の支出方法に対して拒否権をもっているという考えと結合した場
合に生じる、想像し得るべき結果、ありうべき結果であるばかりでなく、実にありがちな結果なのであ
る。われわれはさらに、社会主義的意見が相当広く普及した場合を想像してみさえすればよい。その場合
には、多数者の眼から見れば、一定の極めて僅少な額以上の財産をもつことや、手の労働によらない所得
をもつことは、破廉恥なこととなるであろう。原理上のこれと同じような意見は、すでに職工階級の間に
広く普及していて、主としてこの階級の意見に従順であらねばならない人々、すなわちこの階級自体の成
員である人々を、重苦しく圧迫しているのである。周知のように、多くの工業部門において労働者の大多
数を形成している不熟練労働者たちは、次のような断乎たる意見をもっている。すなわち、不熟練労働者
は熟練労働者と同一の賃金を受け取るべきであり、また、何びとも、出来高払いその他の方法によって、
優秀な技能または勤勉を利用して、他の労働者たちがそれなしにかせぐ所得よりも多額の所得を稼ぎ出す
ことを許さるべきでない、というのである。そして、彼らは、熟練労働者がより有用な勤労に対してより
大なる報酬を受け取ろうとし、また雇い主がこのような報酬を与えようとすることを阻止するために、道
徳的な警察力を使うのであるが、この警察力は時としては物理的な警察力ともなるのである。もしも公衆
が私的な事柄に対して何らかの司法権をもつものとすれば、私は、これらの不熟練労働者がまちがってい
るとは考えることができない。また、不偏的な公衆〔社会〕が人民一般に対して主張するのと同一の権威
を、或る個人の所属している特殊の公衆〔小社会〕がその個人の個人的行為に対して主張するとしても、
それを咎めることができるとは考えられない。
しかし、仮想的な事例を長々と論じるまでもなく、われわれ自身の生きている現在(1859当時)、
私生活の自由に対する甚だしい侵犯は現実に行われているし、また、さらに甚だしい侵犯が成功しそうな
見込みをもってわれわれを脅かしている。そして、公衆は、公衆が悪と見なす一切の行為を法律によって
禁止しうるのみでなく、公衆が悪と見なす行為を捉えるためには、公衆が無害と認めている多数の事柄を
さえ、禁止しうる、というような公共生活における無制限の権利を主張する意見も提出されているのであ
る。
( 『自由論』 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について J.S.ミル著 より )
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