|
器分を離れて人は存在せぬ。非器分なしにも人は存在せぬ。否、器分を離れたり非器分を離れたりして人の存在するということは、詩境以外には想像することさえ甚だ難いのである。基督教の霊魂や小乗仏教の我体は、器分と分離して後、なお審判を待ったり、六道に輪廻したりして居ること、提灯から抜け出して蝋燭がなお光って居るが如く、またランプが壊れてしまって心も油壺も別々になってからなお光明が存して居るが如く、また電燈球が砕けて終ってからなお光明が存するが如くである。それは実に玄妙でもあり、また然様いう道理も存在して居る。が、それは圏外の玄談である。世人の間にも死したる人に幽霊があり、生きて居る人に生き霊があると言われて居る。それも実に然様で、幽霊もなくはない、生霊もあることである。が、それも圏内の談にあらずである。あると思って居るものが実はないものだという理を談ぜねば、ないと思って居るものが実はあるものだということを示すことは難い。神の道を棄てて動物の道を真とし、卓絶した智見を排して普通智識を以て一切を律せんとする多数本位の今日の世の中にあっては、身を離れて人の存するなどということを思い得るものもない。心がなくて人というものが成立つなどと思うもののないのは知れきった事である。 |
幸田露伴の努力論
[ リスト ]





