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天命により賦与された人の本性に根ざしていて、自然に霊妙で明らかなもの。
「性(さが)」を天から賦与された人間の性質、本性と解する点においては、云々、一体何を人間の本性と見るか。
人間の肉体的・本能的な性質を、「性」ということもある。性の字義として、人間の肉体的・本能的な性質(デザイア)と道徳性の二義がある。
孟子の性善説には、惻隠・羞悪・辞譲・是非の心があり、仁・義・礼・智の性と重なるといわれる。
これが道徳性の「性」のことであり、明徳にある本性であろう。
これが、明治の文豪・漱石山人の言葉によると、
「代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢て得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを近来急に膨脹した生活欲の高圧力が道義欲の崩壊を促したものと解釈していた。またこれをこれら新旧両欲の衝突と見傚していた。最後に、この生活欲の目醒しい発展を、欧州から押し寄せた海嘯と心得ていた。
この二つの因数ファクターは、どこかで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧州の最強国と、財力において肩を較べる日の来るまでは、この平衡は日本において得られないものと代助は信じていた。そうして、かかる日は到底日本の上を照らさないものと諦めていた。」
というものがでてくる。
そして、そこに出てくる道義欲は、欧州の最強国と財力において肩をならべるようにならないと、生活欲との平衡が得られないとある。つまり、経済大国になった二十一世紀において、初めて道義欲―道徳感、道徳―を考え始めるということだ。つまり、衣食足りて、礼節を知るということだ。
この厳しい世の中で生活欲を満たそうと必死に競争した結果、失業者、失業予備軍、ニート、フリーター、ボーナス減など、ますます厳しいことになっています。その厳しい世の中を何とか緩和したいと思う気持ちは、およそ道義欲に他ならないと思います。つまり、世の中がよくなってほしいという気持ちであります。
世の中がよくなってほしいと願う気持ちが、世の中をよくするためにはどのような仕事をすればいいのかということになって、一体自分の能力で何ができるかを考えるようになる。これが明徳ではないか。つまり、プロテスタントの天職に近い意味に捉えることもできる。
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