|
道徳を守っていれば、人権は守られると思っているのが一般的である。
人権は、法の下の平等によって守られているらしい。
しかし、道徳も人権も主観的な価値観なので、他者の存在がなければ維持されないということがわかっ
た。道徳を守ることは、内面的精神の自由に含まれている。そして、道徳を伝えることは、外面的精神の
自由に含まれる。
基本的人権についての類似性は、神・仏・儒のどの法典にも見られないものであった。
基本的人権とは、生命、財産、名誉の尊重が当てはまる。
幸福追求権というものがあるが、道徳的規範を守りながら、金銭による幸福を追求するのがのぞましいだ
ろう。人権というものを道徳の範疇から強固にするための思索が必要だと思われる。
そうでないと、法律で規定されるだけの人権意識しか芽生えないのではないかと思われる。
法の支配が封建制度のような強権支配に陥らないためには、道徳による人権思想の発展が必要であろう。
法曹界の精神が分裂してきて、罪を罰で裁くだけという抑止装置しか存在しなくなってきている。
つまり、罪を事前に抑制して、その分の支出を減らすという役割を道徳が担うことも指す。
法の支配が、西洋の支配ということに摩り替わっては、日本人の人権は守られないことになるのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A8%A9
|
道徳と平等主義は両立しません。
不道徳を排除するのが、道徳の存立に必要であるからです。
「法の下の平等」は本来、「法律を適用するに当たって、相手によって差別的な取り扱いをしない」という原則ですが、
大衆の無知をいいことに、「平等を強制する=道徳を崩壊させる 法律を立法しなければならない」と曲解させています。
それゆえ、人権とは、道徳を破壊し、丁度共産国家で宗教が共産主義に従属させられているように、人権思想の範囲内で道徳を使うという主従関係を要求する思想です。
本来は、霧山人さんがおっしゃるように「人権というものを道徳の範疇から強固にする」と、道徳が主であるはずなのにです。
道徳と人権は、よってたつ根拠が異なります。道徳は伝統的合理性、人権は単なる論理的合理性です。人権は、概念の演算、いいかえれば頭でっかちの話ですが、道徳は、一見不合理に見えても長い時間によって研ぎ澄まされた人類の知恵が宿っています。
道徳にかなう人権のことを、この国では「人の道」あるいは「道理」と呼んで来ました。
2009/12/12(土) 午後 4:31
貴重なコメント、ありがとうございます。
「平等を強制する=道徳を崩壊させる 法律を立法しなければならない」ということで、どうして「人の道」「道理」というものを実行するはずの政治家が法律によって苦しめられるのかがわかったような気がします。
この問題は、日本の民主主義にとって大事な気がします。
2009/12/12(土) 午後 5:03 [ 霧山人 ]
人の道や道理をわすれて、屁理屈と自分のエゴでわめきたてれば、民主党ができあがります。
歴史を捨て、民族性をバカにしたつけが、これから、この国の上にふりかかります。
「人の道」「道理」とは何か。不文だと思われたそのことが、古文書の中に見つかっています。拙ブログをお訪ねください。
2009/12/12(土) 午後 5:15
ときどき訪問させていただいてます。
吾輩は、アナーキーズムでも、ニヒリズムでもありません。
中庸(てげてげ)の心でいます。
2009/12/12(土) 午後 5:33 [ 霧山人 ]
そうでした。そうでした。失礼しました。
「中庸」というのが、足して2で割ること、になってしまったのが「和の精神」かと思います。本来は「トの精神」であったのですが。
「和の精神」はいいんですが、過激な意見・思想が入ってくると、そっちに引きずられるという欠点があります。なぜなら、「和」には真ん中がないからです。東西南北というような発想です。
ヲシテの場合、同じ方角でも「キツヲサネ」といって、真ん中が含まれています。そして、「真ん中」とは何なのかを洞察されたのが、この国の先人たちだったようです。
2009/12/12(土) 午後 5:53
神代文字のことですか?超古代史と呼ばれた?
たしか、霧島には神代に牧場があったといわれています。
江戸時代には、神道・仏教・儒教の三教一致、明治には西洋文明を取り入れた日本人は、舶来の文化に弱かったのでしょう。
その「トの精神」というものの賜物でしょうか。
2009/12/12(土) 午後 6:09 [ 霧山人 ]
「ト」はシンプルで、みんなが幸せになるよう、トップは私を去ってみんなにつくす、「まごころ」に基づけ、という原理原則です。それが真ん中です。
そういうトップなので、「詔を承りては必ず慎め」になりますし、「さかふるなきを旨とせよ」なのです。この角度からいえば、エゴをさる仏教、とりわけ禅は、指導者の鍛錬ということになりますし、このような心がけの指導者にとっては、儒教は有意義な原則を与えてくれます。また、神道のように「特にこれという教義がない」というものでもバッチリなのです。
幸せも、相手の喜びを自分の喜びとできる、困った人を貶めない、つけいらない、という幸せです。エゴにまみれた人の他人を貶めて喜んでいるようなものには「共感してはならない」ということを含んでいます。
「ト」あればこその文明の受容吸収です。しかし、「人権」というのは違うんですね。「人権」が基づいているのは「唯物論」です。一言で言えば「幸せなどない」「まごころなどない」ということです。だから、「道徳」を踏みにじり、「人の道」から外れてしまうのです。
2009/12/12(土) 午後 6:23
いろいろとご意見賜り、ありがとうございます。
よろしくお願いします。
社会が複雑になって、良心を守らない人がでてきたので、あえて「人権」が必要となってしまったのでしょう。
「大道すたれて、仁義あり」というのと同じかもしれません。
「人の道」を守れと言うことで、失業者がなくなれば一番いいのかもしれませんね。
2009/12/12(土) 午後 6:30 [ 霧山人 ]
嘗て大学の講義で『人権と法』という講義を受講した時の事をふと想起し又、小学校の頃の授業に『道徳の時間』と言う物があった事を想起しました。
人権という物は日本国憲法においても『基本的人権』として謳われておりある程度明文化されておりますが道徳となると儒教の教えに則りそれが日本国内は愚か発祥の地である中国でさえ現在軽視されている現実を見るに付け精神性と経済は同時発展的に進歩して行くものではなく寧ろ反比例的に進んで行く物だと認識するに辺り、本来はそれらが車の両輪の如く同じ方向へ進んで初めて意味を成すのではないかと私は考えます。
人権も道徳もそれらを教え説くのは人間です。
人間がやるべき事を人間が理解し行動出来ないというのは矛盾の至り
これこそが人間の面白い所でもあり不可思議な点なのかもしれないと人間の存在と言うものを深く考察する機会を与えられました。
2009/12/12(土) 午後 6:47
道徳の効用は、単純には我慢することだと思うんですが、どうでしょうか。
福澤諭吉が旧習の惑溺を一掃するとしたことが、儒教道徳の軽視される所以です。
アダム・スミスの『国富論』は経済の本ですが、道徳主義者のスミスのいう「神の見えざる手」というのは、良心から生まれるのではと思います。そして、日本の資本主義の父、澁澤榮一は、経済と儒教道徳によって、道徳経済合一説の『論語と算盤』を著し、倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけたそうです。今の世の中と昭和の世は、ぜんぜん違うはずです。
2009/12/12(土) 午後 7:28 [ 霧山人 ]
道徳心というものは質素倹約を旨とする物である事は理解します。
嘗て『犬公方』吉宗が質素倹約を旨とし幕府の財政を立て直そうとした国策は今は鳩のマークの財閥屋に食い荒らされようとしています。
人の痛みの判らぬ人間を国主とする愚民の浅知恵には閉口の極。
完璧に民主党のプロパガンダに踊らされるは情け内の一語に尽きます。
社会学畑の人間ですから『国富論』は詠ませていただきました。
(スミスは経済学と思われる方多数ですが社会学にも関係あり)
ご高説私も深く共鳴致します。
渋沢氏に関して言えば流石お役人出身だなと言う感じ。
ですが氏の考えこそ今の日本に取り入れられるべきであると痛感。
氏の事も現代社会論で大学時代学ばせて戴きました。
2009/12/12(土) 午後 7:45
実は生物学をやってまして、遺伝子をいじってたら、人間って、こういうもんじゃないような気がするなと思って、社会とか経済とか、歴史とか、そういうものを調べ始めたのがきっかけです。就職超氷河期から、フリーターで食いつないでいるうちに、学問だけは捨てられませんでした。そうこうしているうちに、こんなふうになってしまいました。江戸・明治の人間が現代にタイムスリップしてきたような…。
2009/12/12(土) 午後 7:55 [ 霧山人 ]
質素倹約というのは、「欲はほどほどに」、ということです。
完全に欲を去ると、生命を維持できません。
だからといって、欲望を解放させてもしょうがないのです。
それには、小さいときから、欲望をコントロールするすべを
身につけさせねばなりませんし、社会的に欲望をコントロールできて
いる人こそを、高く評価するようなしくみがなければなりません。
その全体像、個人のしくみと、社会全体のしくみをさして
「道徳」と呼んでいると思います。社会全体のしくみは、
一朝一夕にできなくて、家族・学校・地域・職場・・・と
幾重にも積み重なって、「文明」をかもします。
日本の「道徳」レベルは、いまでも、図抜けています。
それゆえの世界中からの信頼であり、品質なのです。
「平等」は、これを崩壊させる「リセットスイッチ」です。
くわばら、くわばら
2009/12/12(土) 午後 8:05
オノコロさん、コメントありがとうございます。
「平等」って、中流意識のことなんですか。
吾輩は、弱者を守る意味で、ダーウィニズムは嫌いですね。
「平等」には二種類ありまして、法の下の平等。
そして、貨幣の下の平等。難しいですね。
2009/12/12(土) 午後 8:22 [ 霧山人 ]
平等は、一切の差異を消滅させることです。犯罪者にも人権という種類のものです。もっといえば、生命のあるものもないものも、一緒ということです。そういう過激な思想ですので。工業社会の発想です。工業製品同士は平等でしょ。でも生き物は全部DNAが違っていて、環境も違っていて、全く同じものはないんですよ。
道徳が成り立つには、豊かさをみなに広げるという前提がなければなりません。それも「ト」に含まれています。
2009/12/12(土) 午後 8:27
コメント、ありがとうございます。
「平等」という語に、そのような「過ぎたるは及ばざるが如し」の思想が潜んでいるなんて、知りませんでしたよ。
言葉に、温かい心があれば、どんな言語を使っても同じですよ。
あまりにも多く語れば、逆にいざこざが起きるから、困ってしまいますね。
2009/12/12(土) 午後 8:38 [ 霧山人 ]
>霧山人様
私も貧乏しても学だけは修める事を辞める事は出来ませんでした。
今も行き帰りの通勤途中の電車の中で在仏在留邦人向けフリーペーパーで仏事情を勉強しております。
生物学に限りませんが全ての学は私は繋がっている気がします。
心理学もそう、社会学や生物学、経済学にも心理学は密接に関わりが有ります。
でも各々の専門家の先生方は自らの学問分野こそ最高とばかり他の学問を採り入れようとはなさいません。
我が学説も専門家の先生に言わせれば”俗人の俗説”だそうです(笑)
俗人の俗説…誠に以て結構な事だと私は思って居ます。
”井の中の蛙大海を知らず”ではないですが一専門分野に特化過ぎると他に目が行かなくなり近視眼的となり真実を見失いがちとなります。
私は俗人と蔑まされようが常に”多角的視野”と”多角的分析力”だけは失いたくないと思って居ます。
霧山人様のご高説大変共鳴し感銘仕ります。
存外私も昔の人間なのかも^^;。
2009/12/12(土) 午後 8:57
C−KOAさん。
やっぱり、お父上様のご恩徳のおかげなのかもしれませんね。
蘭学も最初は、俗人の俗説だったのかもしれませんね。
それでも、世の中を変革する力になりました。
ご高説ばかりでも、役にたっていないような気がして、お恥ずかしい限りです。
仏教の十牛図というのに、悟りを開いたら、それをすっかり捨て去って、俗世に下りて頑張りなさいっていうのが、ありますね。
世の中が行き詰まっているからこそ、真価が現れることもあると思いますので、お仕事頑張ってください。
2009/12/12(土) 午後 9:14 [ 霧山人 ]
C-koaさん
OVNIですか? 以前1年半ほどパリにいました。そのとき、毎号楽しみに呼んでいました。ヲシテも似たようなものです。一般社会からみれば、神代文字の偽書ですね、の一言です。それでも、うちてしやまん、ですわ。
2009/12/12(土) 午後 9:58
ご意見、ありがとうございました。
それぞれの信念で頑張ってください。
2009/12/13(日) 午後 8:27 [ 霧山人 ]