|
五倫五常を本然の性と等置するとは、人間の本然の性というものがよくわからないので五倫五常というものを道理と等しいものとしておこうという決め事である。道徳というものが、個人の私的な営みであって、科学でないということは明白なことである。もし、道徳を科学とするならば、心理学における記憶と思考、および知能の働きから、個性を生み出し、社会的行動へと移行するまでの範疇の中に埋め込まれている存在となろう。そういうことは、専門家に委ねることにして、道徳は主観的なものであるということを自覚した上でないと独善的に陥る。だから、それが他人に対して善とされる行いであるかという判断は客観的な判断に任されており、それを法律によって番人が司っているのである。道徳というものは、別々の価値判断体系が多く存在し、さまざまな宗教・戒律によってさまざまな言辞が用いられている。実際に徳目を守るということは、具体的な行動が存在するはずだが、儒学の教えというものは、ほとんど具体的な行動というものがないため、時代背景によって、徳目の示唆する行いというもののばらつきが見られることになる。道徳は、歴史を背負うものであって、精神の多様性を示すものであるともいえよう。
朱子学においては宇宙論、人間本性論、社会秩序=実践倫理論が連続的にとらえられていた。すなわち宇宙を貫く「道」が、全ての人間に内在して「本然の性」となり、人がおのれの中に賦与された「本然の性」をあきらかにすることが倫理の根本であった。「本然の性」に従って行為することは、とりもなおさず、社会に内在する「道」を行うことであり、それは具体的な社会秩序を守ることにほかならない。この具体的秩序を基本的人間関係とそれを律する徳目として示すのが五倫五常である。
五倫は『孟子』滕文公篇上に由来する、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信という人間関係と徳目であり、五常は仁・義・礼・智・信という五つの基本的徳目である。
父と子の関係があって親という。父のことを親という。君主と人臣がいて義がある。君主はいなくなり人臣もなくなったので義は立たない。夫婦には性別がある。長幼の序列は崩れてきている。そのため、雇用の問題は困難になっている。朋友の間には信用が必要である。
個人的な徳目として、仁・義・礼・智・信が用いられる。義については、歴史的意味が多くついているために、個人的に行うと難しい。義とは、人道のためにつくすこと、名利をはなれて、正しい道にしたがうこと。漢字を知っている人は、なんとなくすんなりはいってくるものである。
|