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さる間禁中此事を聞しめされ、ただ今の商人の帰るさを見よとて、人をそへて見せ給ふに、道命内裏を
出でて心に思はれけるは、今日は日も暮れぬ、明日こそと思ひ、宿をとりけり。さる間下女宿をよく見お
きて帰り、此よしかくと申し上ぐれば、禁中より仰せけるやうは、「彼商人のいひつることばを、よも知
らじ、伊勢が源氏を恋ひてよみし歌也。
君恋ふる涙の雨に袖ぬれてほさんとすれば又はふりふり
といふ歌の心ばへ也」と仰せ言有りければ彼局の女房、さては浅からぬ心あこがれけるよと、つくづくと
思ひ続けて、「小野小町は、若盛りの姿よきによりて、人に恋ひられて、その怨念とけざれば、無量のと
がによりて、その因果のがれず、つひに小町四位の少将思ひはなれず、『いひすつる言の葉までも情あ
れ、ただいたづらにくちはつる身を』と云ふ歌の心を忘れずして、常に人にわりなき情を、こめたき事に
て」と案じ続けて、下女一人つれて内裏を出で、道命が宿へ行きて、戸をほとほととたたきてかくなん、
出でてほせこよひばかりに月かげにふりふり濡らす恋の袂を
とよみ給ひければ、道命内にて是を聞き、夢の心地して、表の戸を開けて、さらば外へも出でずして、か
こち顔なる風情して、かくばかり、
出でずとも心あらばかげさして闇をば照らせ有明の月
とよみて、うちほれたる風情、もとより彼女房情深きにより、内にさし入りて、其夜は鴛鴦の衾の下に、
比翼の契をこめ、夜もやうやうふけ、きぬぎぬなりし折しも、道命がもちける守刀を、などやらん心にか
け給ふけしきにて、仰せけるやうは、
(『御伽草子』 和泉式部 より )
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