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九 次には猪を撃つ鉄砲のことである。村に伝えらるる写本の記録『椎葉山根元記』によれば、奈須氏の惣領が延岡の高橋右近大夫〔西暦一五八七−一六一三〕の幕下に属しておった時代に、椎葉の地頭へ三百梃の鉄砲が渡された。この時代は明治十年の戦時とともに、椎葉の歴史中最も悲惨なる乱世であった。十三人の地侍は徒党して地頭の一族を攻め殺した。このときの武器はすべて鉄砲であった。元和年中に平和が恢復してのち、この三百梃は乙名差図をもって百姓用心のためにそれぞれ相渡したとある。寛延二年の書上を見ると、村中の御鉄砲四百三十六梃、一梃につき銀一匁の運上を納めて居る。今日ある鉄砲は必ずしも昔の火縄筒ではないようだ。その数は寛延度よりも増して居るや否や、運上の関係は如何なって居るかはすべて知らぬ。またいかなる方法で火薬を得て居るかということも知らぬ。しかし鉄砲の上手は今日も決して少なくないと考えられる。それはとにかく、椎葉の家の建て方はすこぶる面白い。新渡戸博士が家屋の発達に関する御説は、この村においては当たらぬ点が多い。山腹を切り平らげた屋敷は、奥行きを十分に取られぬから、家がきわめて横に長い。その御面はことごとく壁であって、前面はすべて二段の通り縁になって居る。間の数は普通三つで、必ず中の間が正庁である。三間ともに表から三分の一のところに中仕切りがあって、貴賤の坐席を区別して居る。われわれの語で言えば入側である。正庁の真中には奥へ長い炉があって、客を引く作法ははなはだしくアイヌの小屋に似ておる。すなわち突当りの中央に壁に沿うて、床の間のようなところがあって、武具その他重要なる家財が飾ってある。その前面の炉の側が家主の席であってこれを横坐という。『宇治拾遺』の瘤取の話にも横坐の鬼とあるのは主の鬼すなわち鬼の頭のことであろう。横坐から見て右は客坐といい、左は家の者が出て客を款待す坐である。
(『後狩詞記』 柳田國男 より )
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