平成17年4月6日から平成23年9月6日までのブログ

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小説・霧山幻想(リメイク中)

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飫肥の城下町というからには、お城があって、武士が住んでいたということになる。寺島良安著の『和漢三才図会』によると、「武士(もののふ)。武は戈(ほこ)と止からつくる。戈を止め武をなすという意味である。物部。剛く彊く道理に実直なのを武という。勇ましい彊さが徳に匹敵するのを武という。また、よく過乱を平定するのを武という。民を刑し、克く服させるのを武という。学んでたゆまず自分の地位を保持しつづけるのを士という。神武天皇の時代に、ウマシマチノミコト・道臣命の武功すぐれた二人があった。道臣命が司っている軍兵を来目部と称したが、ウマシマチの司っている軍兵には物部という姓を賜った。それから武士のことを物部(もののふ)と称するようになった。」という。
 武家にもいろいろあるが、武士の始まりはこのようなものらしい。農・工・商の人々が二刀を下げてはいけなくなったのは、江戸時代からであるそうだ。物部氏についてだが、聖徳太子がいたころ、蘇我氏との政争に敗れた物部氏は、ここ日南より南の地、大隈半島の有明・原田まで逃げてきたという言伝えがあるらしい。これでは、今から千五百年もの歴史を述べなくてはいけなくなる。とにかく、鎌倉時代から武風が強くなり、戦乱の多い歴史を背負うこととなったようであるのだ。福澤諭吉は、封建遺制を酷く憎んだのは、それだけ自由がなく、雁字搦めであったためであろう。
 やがて、飫肥城の駐車場についた。冬月はタクシーを下りて、見渡すと真坂野交通のバスが停まっていた。飫肥を舞台に、『わかば』というドラマがあった。おみやげやの前を通っていると、中年の男が、「もう、舞台が変わっているからな。」と、移りやすい今の人々の心情を吐露していた。それでも、過去の記憶とは関係なく、その意気込みだけは残っているように見受けられた。荒城の月とは、よく言ったものではあるが、さまざまな人々が武士しか入れなかった城壁の中に入れるようになったのは、明治維新の賜物ではあったろう。飫肥で有名なのは、小村寿太郎であるが、日露戦争でのポーツマス条約の功績については、国民の側から見れば、現在につながるものであるために、非常に複雑な思いを抱く冬月がいた。日本の借金はどうなってしまうのであろうか。
 明治政府は、薩長による武家政権であった。明治維新で失業を余儀なくされた武士たちの拠り所であった。官になったり、先生になったり、商売に身を染めた武士もいたであろう。君主のいなくなった武士たちは、忠君愛国という言葉をつくって、保身を図っていた。
 本丸へと向う冬月は、ぶつぶつと何かを唱えている。飫肥城は、伊東氏の居城として、二百八十余年も続いたが、廃藩置県で、飫肥県から都城県へと移る過程で、館や楼・櫓のすべてが破壊されてしまった。城の内部には、飫肥小学校のグラウンドができていて、その西側にある小高い所に本丸の跡がある。本丸跡に向かう途中に、なんじゃもんじゃの木が生えていた。学名はヒトツバダゴというらしい。いろいろな植物が生えている。もう、サクラはいつの間にか散っていた。登る石段の脇には、ツワブキがあった。石段を登りきると、そこには『わかば』の主人公が元気を取り戻したという旧本丸の姿があった。飫肥杉が植えられてはいたが、岩やタブノキなどの当時の名残も確かに現存していた。冬月は、その残された息吹を感じて、少しばかり元気を取り戻しつつあった。飫肥の名産品・杉材も日本を飛び立っているのだった。その本丸跡の断崖に立つと、木々の暗がりに向こうに、酒井川が流れているのが見えるのだった。失われていく歴史というものがあるのかもしれない。
 
フィクションです。

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