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とにかく自分の習った他人の書は、やがて自分に帰ってくるといったところまで行かなくちゃならないと思います。それでなければ意義がない。兵隊のように百人が百人とも同じに歩いているのでは、書の場合としては仕方がない。そこに至るには、どうしても良い書を余計に見ることで、眼で見て習う。
まず、手に習う前に眼でよく注視する。しかし、ただ眼だけで見ておったのでは腕の上には仕方がない話ですが、第一はこれを子細に検討してよく注視して見ることだと思います。この眼で見て習うということは、小さな形などに捉われないことになりまして、いろいろな良書を多数に見るようになり、容易に一つのものに引っ掛からないで済むようになり、そこに自らの好みというものが段々とはっきりしてきて、本当に自分の好みというものが段々とはっきりしてきて、本当に自分の書が書けるようになるのであります。
手本を一つのものと限って、それを堅く守って習っても、あえて差支えありとはいいませんが、また十種類の良書をそこに置いて、あちらなり、こちらなりを嚙り習っておるのもよいと思います。段々そのうちに初めはよいと思っていた良書が、一番最初の好みから見て、二、三番目の書がよい、三番目のより五番目の書がよいということが会得されて来まして、かように沢山のものを見て習う習い方は、非常によい方法だろうと思います。つまり、立派な先生と沢山につきあう事であります。
とにかく、なんとしても自由に書く、習うということがモットーでなければならぬと思います。
西園寺公(西園寺公望)のような書でありますと、例えば明代の書を好まれるかも分りませんし、また温順しい当り前の書き方ですから、特にどうということはありませんが、その人の見識がそれでよいならば、それでよかろうと思います。大雅(池大雅 の画像検索結果)の書のような自由な書き方も一々実は拠り所がありまして、隙あるが如くして、五分の隙もない書き方でありますが、しかも非常に自由な書き方で、内容がまた非常に美しいのであります。今ここに掲げてある大雅の書を見て思い出しましたが、「花柳自無私」という文句の中で、この終りの「私」という字が仲々読みがたいので困りますが、字画の意義を悟るという点からもなかなか自由に書いてある。結局草書はどうかこうかして読めればよいということになっておるようでありますから、字の崩し方はどうでもよい。全くどうでもよいとはいいますものの、字の崩し方というものは、遠い昔から研究しつくされておって、今ではどんな崩し方を発明してみたところが、往昔においてちゃんと研究してありますから、現今では崩し方の創意創作ということは全く許されないのであります。しかし、わざわざ故意にするということはいけませんが、時の調子で、理屈に合わなくても、字画に合わなくても、そういうことには、なんら頓着しなくてもよいと思うのであります。
(『魯山人書論』 北大路魯山人 平野雅章編 より )
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魯山人の書論
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