|
おれが海舟という号をつけたのは、象山(佐久間象山)の書いた「海舟書屋」(扁額「海舟書屋」 佐久間象山筆)という額がよくできていたから、それで思いついたのだ。しかし海舟とは、もと誰の号だか知らないのだ。安芳(やすよし)というのは、安房守の安房(あわ)と同音だから改めたのョ。実名は、義邦(よしくに)だ。詩は、壮年の時に、杉浦梅潭(兵庫頭勝静)に習い、歌は、松平上総介(主税助忠敏。講武所師範役)に習い、書は、伯父の男谷(彦四郎・男谷 燕斎)にならったこともあるが、手習などに、骨を折る馬鹿があるものか。
おれが子供の時には、非常に貧乏で、或る年の暮などには、どこにも松飾りの用意などしているのに、おれの家では、餅をつく銭がなかった。ところが本所の親族のもとから、餅をやるから取りに来い、と言ってよこしたので、おれはそれを貰いに行って、風呂敷に包んで背負うて家に帰る途中で、ちょうど両国橋の上であったが、どうしたはずみか、風呂敷がたちまち破れて、せっかく貰った餅は、みんな地上に落ち散ってしまった。ところがその時は、もはや日は暮れているのに、今のような街灯はなし、道は真暗がりで、それを拾おうにも拾うことができなかった。もっとも二つ三つは拾ったが、あまりいまいましかったものだから、これも橋の上から川の中へ投げ込んで、帰って来たことがあったっけ。
妻を娶った後もやはり貧乏で、一両二分出して日蔭町で買った一筋の帯を、三年の間、妻に締めさせたこともあったよ。この頃は、おれは寒中でも稽古着と袴ばかりで、寒いなどとは決して言わなかったよ。米もむろん小買いさ。それに親は、隠居して腰抜けであったから、実に困難したが、三十歳頃から少しは楽になったよ。
かつて親父が、水野(忠邦・水野忠邦)の為に罰せられて、同役のものへ御預けになった時には、おれの家をわずか四両二分で売払ったよ。それでも道具屋は、「お武家様だからこれだけに買うのだ」などと、恩がましく言ったが、随分ひどいではないか。その同役の家というのは、たった二間だったが、その狭い所で同居したこともあったよ。その後立身して千石になった時にはよかったが、それが間もなく御免になった時などは、妻が非常に困ったよ。元来おれの家には、その頃から諸方の浪人がたくさん食客にいたのだからのー。それゆえ妻は、始終人に向って、「宿では今度は長く務めていますように」などと言っていたよ。
(『氷川清話』 立身の数々を語る 吉本襄・編 より )
|
勝海舟の氷川清話
[ リスト ]




