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第二 人の性は群居を好み決して独歩孤立するを得ず。夫婦親子にては未だこの性情を満足せしむるに足らず、必ずしも広く他人に交わり、その交わり愈々広ければ一身の幸福愈々大なるを覚ゆるものにて、即ちこれ人間交際の起る由縁なり。既に世間に居てその交際中の一人となれば、また随ってその義務なかるべからず。凡そ世に学問といい工業といい政治といい法律というも、皆人間交際のためにするものにて、人間の交際あらざれば何れも不用のものたるべし。政府何の由縁をもって法律を設くるや、悪人を防ぎ善人を保護しもって人間の交際を全からしめんがためなり。学者何の由縁をもって書を著述し人を教育するや、後進の智見を導きてもって人間の交際を保たんがためなり。往古或るシナ人の言に、天下を治むること肉を分つが如く公平ならんと言い、また庭前の草を除くよりも天下を掃除せんと言いしも、皆人間交際のために益をなさんと欲するは人情の常なり。或いは自分には世のためにするの意なきも、知らず識らずして後世子孫自ずからその功徳を蒙ることあり。人にこの性情あればこそ人間交際の義務を達し得るなり。古より世に斯かる人物なかりせば、我輩今日に生れて今の世界中にある文明の徳沢を蒙るを得ざるべし。親の身代を譲り受くればこれを遺物と名づくと雖ども、この遺物は僅に地面家財等のみにて、これを失えば失うて跡なかるべし。世の文明は則ち然らず。世界中の古人を一体に見做し(世界中の昔の偉人の出来事をすべて勉強し)、この一体の古人より今の世界中の人なる我輩へ譲渡したる遺物なれば(この世界中すべての昔の偉人の出来事を勉強した諭吉に委ねられた過去の恩恵なので)、その洪大なること地面家財の類に非ず。されども今、誰に向かって現にこの恩を謝すべき相手を見ず。これを譬えば人生に必用なる日光空気を得るに銭を用いざるが如し。その物は貴しと雖ども、所持の主人あらばただこれを古人の陰徳恩賜と言うべきのみ。
(『学問のすゝめ』 九編 福澤諭吉著 より )
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福澤諭吉の学問之勧
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